見出し画像

江戸と東京をめぐる無駄話#12/明治政府の財布の中

1868年(慶応四年)4月11日。江戸城無血明渡しによって、江戸は完全に薩長が先頭を走る東征軍の手に落ちた。7月17日、江戸から東京へ改称。10月13日には江戸城を皇居とし「東京城」と改称した。10月23日に年号を「明治」とし、天皇一代の間に一年号とする「一世一元の制」を立てた。そして12月7日に、東京城に宮殿を造営するという布告がされている。
翌年1869年(明治2年)2月ころから新政府諸機関が機能し始めている。これら一連の動きを当時は「御一新」と呼んだ。

もちろん順調に動いたわけではない。薩摩(藩主島津久光)長州(藩主毛利敬親)土佐(藩主山内容堂)などは、維新の中核を為した自らの家臣らが、結局のところ自藩を蔑ろにし策謀としか見えない動き(大久保・木戸ら)を取ったことについて、強い憤りを抱いていた。とくに島津久光の憤りは強く、彼は明治政府を「洋夷の属国」として罵倒した。

薩長下級武士と下級公家で構成されていた新政府の最大の懸念は、江戸内部で諸藩の造反が起きることだった。もし・・薩摩藩主島津久光の憤りに賛同する武士が江戸城至近武家屋敷の何れかで徒党を組めば・・新政府は足元から崩れる・・その危惧を彼らはもっていた。
事実、いずれかの藩の造反が一つでも江戸市中で起きていたら・・歴史は大きく変わっていただろう。
後述する旗本直参たちによる造反/上野の山の彰義隊は、確かに一夜で壊滅したが、実は鎮定の為の軍資金50万両を新政府は備蓄していなかった。購入した軍艦の支払金を流用すると同時に、大阪の豪商たちから急遽資金借り入れを起こして戦ったのだ。それでようやく鎮圧できたのだった。もし同じような蜂起が北西部に広がる武家屋敷の中で起きれば、それを完全征伐する体力はその時の新政府にはなかった。

江戸城下には大小合わせて261の藩が武家屋敷を構えていた。面積としては(明治5年4月調査)朱引内外合せて1169万坪である。江戸市内の2/3に近い。すべてが薩長下級武士と下級公家で構成された新政府を良しとしていたわけではない。それなので、かなり危ない戸板を踏みながら新政府は、各藩の江戸屋敷に対して「速やかに封地へ帰国すること」「居残る者にいる場合は員数氏名を届け出る」ように指示をしている。
ところが・・ここでも歴史は明治政府の味方をした。大半の武家屋敷は自藩内で騒乱が起きることを懸念、早々に一族郎党を国元へ戻していたのである。従って大半の屋敷が廃屋になっていた。

ところが、戻るところのない徳川直参旗本たちはそうはいかない。慶喜は恭順したので駿遠三の所有を許すということになっため、直属の臣下については勝海舟が駿遠三へ船によって送り返すという処置をとったのだが、諸般の理由で江戸に残るしかない旗本たちは放置されてしまった。にもかかわらず江戸市中に有った幕府からの受領地はすべて新政府へ返納という触れが出ていたので、早晩彼らは住む家も収入源を失うところへ追い込まれてしまったのである。その不平不満から上野の山の彰義隊が立ち上がったわけである。
同じような騒乱の頻発を新政府は恐れた。なので、すかさず新政府側は彰義隊に参加しなかった旗本たちに対して「時世を弁え之に加わらず、朝廷方に仕えんと努めた」として本領安土、そのまま今の屋敷に居住して良いという触れを出した。重ねて「朝廷によく恭順する者には相当の優遇をする」という布告を出した。確かに多くの元旗本が、明治政府の管理下で公務員として採用されている。

画像1


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました