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江戸と東京をめぐる無駄話#10/見間違えた政敵#03

1860年3月24日/安政7年3月3日。この日の江戸は明け方から季節外れの雪模様だった。
3月3日の雛祭りである。この日大名諸侯が祝賀のため総登城する日だった。その大名駕籠の行列を見物するため多くの町民が雪の町へ出ていた。
彦根藩邸上屋敷から井伊直弼の駕籠が出たのは午前9時ごろ。彦根藩邸から桜田門までは三~四町くらい、行列は総勢60人ばかりだった。全員が雪装束をしていた。腰の刀は雪を避けるために袋へ収められていた。
・・その駕籠行列の前に駕籠訴の徒が御畏れながらとしゃがんだ。不埒者!と供の者が取り押さえに走った。しかし男は唐突に立ち上がり抜刀した。桜田門外の変である。
まず井伊直弼の駕籠に拳銃が撃ち込まれた。襲撃側16名と警護側60名は乱戦になった。しかし刀を袋に収めていた警護側は圧倒的に不利だった。登城の大名行列を襲撃するなどと云う事は過去一度もなかったからだ。
襲撃側は、駕籠を引きずり倒し虫の息となっていた直弼の髷を掴み駕籠から引きずり出した。そして斬首した。
水戸藩士・畑弥平は、襲撃から直弼の首級をあげるまで「煙草二服ばかりの間」だったと後に言っている。襲撃開始から直弼殺戮まで数分だったという。
こうして井伊直弼の専制政策路線は潰えた。
そして抗争は一気に水戸と江戸幕府の対立から、薩摩長州勢へシフトチェンジした。
1860年9月4日(万延元年)老中・安藤信正ら幕府首脳の判断で徳川慶喜は謹慎を解かれた。そして2年後/1962年将軍後見職に就いた。1866年7月20日、第二次長州征伐最中の家茂が大坂城で薨去すると翌1867年1月10日に徳川慶喜は第15代将軍になっている。大政奉還が成されのはその年の11月9日(慶応3年10月14日)である。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました