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江戸と東京をめぐる無駄話#16/おつもり#02

幾つもの幸運が重なって、薩長明治政府は日本国を我が物にした。
江戸の半分を構成していた武家は、慶応四年に大半が郷許へ戻り、江戸は経済活動が麻痺した。それでも慶応二年に有ったような暴動が起きなかったのは、人口が半減したことで江戸市中にあった備蓄が足りなくなる/民が飢える事態には陥らなかったからだろう。市中での反乱も、禄を持たない河内に帰ることのできない直参旗本とそれにブル下がる奴(やっこ)たちが苦し紛れに起こした上野の山での動乱だけだった。薩長明治政府は、その戦時を賄える資金を用意していなかったので、急きょ外国から軍艦を買うため用意していた資金を充てて対処した。しかし・・じつは・・もし山の手武家屋敷の中で同じような動乱が起きたら・・対応出来る資金力はなかったのだ。
幸運なことに、江戸市中で上野の山の後を追った動乱は起きなかった。薩長明治政府を不満とし、起きた動乱がすべて地方だったこと・・九州であり東北であり北海道だったことは、まことに薩長明治政府に取って「天が味方した」としか言いようがない流れである。

そうした危惧感もあって薩長明治政府は江戸の換骨奪胎を急いだ。江戸から徳川幕府の匂いを一掃しようとした。慶応四年7月「今ヨリ江戸ヲ称シテ東京トセシ」という詔書が出され、4月に行われた江戸城引き渡しから僅か3か月後に、江戸は先ず"名"から雲散した。
同時に薩長明治政府は町政を徹底的に変えた。町名主制が撤廃されて、何々屋敷/何々町代町/何々寺門前という呼び名もすべて撤廃された。翌年慶応四年/明治2年、3月に東京を50番組に編成した。
これは日本橋本町を一番地として時計回りに「のの字」を描くように番地を指定したものだった。そして各番地には町名主の代わりに中年寄と添年寄という役職を置いて、五地区の中年寄から世話役を出し、その10名で弥縫策では有ったが東京を管理するという方法が取られた。翌々年明治4年、50地区から69地区に改正。また戸籍法が成立したことを受けて、その年の11月、これらを統合し6つの大区とし、大区は16の小区に分けられることになった。しかし改変は尚も続いた。明治7年、6つの大区は11の大区に変更、小区は103に分けられた。
この明治政府の右往左往は、明治11年11月2日に郡区町村編成法が成立するまで続いた。同法施行によって東京は、東京府として麹町/日本橋/京橋/芝/麻布/赤坂/四谷/牛込/小石川/本郷/下谷/浅草/本所/深川の15区を制定。そして10年後の明治22年市制法が制定され、東京府とは別に東京市が誕生した。形式上東京市は東京府から切り離されていたが、市長は府知事が兼任し、市庁舎も府のものがそのまま利用されていた。
・・こんな付け焼刃な紆余曲折を辿りながらも、江戸→東京は、武家の離散によって失ってしまった半分の人口を埋めるように、全国各地から若い能才が集まる場所になっていった。薩長明治政府はこれら若き能才を精力的に採用し、国家としての体裁を次々に整えていったのである。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました