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江戸と東京をめぐる無駄話#08/見間違えた政敵#01

不運なことに・・徳川幕府は、徳川家斉の長期安定政権のあと、将軍席を実子・家慶が継いだ。
家慶時代、幕府財政は家斉が実施した改鋳という金融緩和政策で一時驚異的な回復を果たしがらも、家斉自身の放埓な浪費と石高制の機能不全が全く手つかずに置かれたため。家慶の代には再び深刻な財政難に陥っていた。その危機を背負いながら、蒙昧な上に病弱だった家慶は、何の起死回生となる策も打てないまま漫然と統治を続けていた。
そこにペリーの船がやってきたのである。
家慶自身は、開国について否定的だった。海防掛を常設させたりして、外国船の打ち払いを指令していた。しかし諸藩は、行き詰った藩財政の足しになれば・・と幕府に無断で諸外国との貿易を始めていた。将軍一人の気分や気質で、開国回避できる状況ではなくなっていたのだ。
その家慶が、ペリー来日(1853年6月3日)から三週間弱経った6月22日、唐突に心不全で薨去した。陰謀説を取るつもりはないが、この家慶の死をきっかけに事態は一転する。
幕閣内の意見は、紆余曲折がありながらも、おおかた『開国実行』に固まっていった。実は、事前に相当な資料を幕府は得ており、英米についての研究も進んでいたので、自分たちが「世界」でどのような位置にいるか・・かなり正確に、幕閣は把握していたのだ。蒙昧な首魁が去れば、事態は進むべき道へ進むものである。
しかし、どう開国するか・・という部分で、主流は「時間をかけよう」という穏健派に染まっていた。いつの時代でもそうだが、主流は穏健派になる。穏健派は精査する故に大胆な行動には出られない。したがって大きな潮流には常に後手と後手になって、巨象が斃れるように足元から崩れてしまうことが多い。歴史の中で僕らは幾つもその例を見ることができる。
なぜ、(巨額ではあれ)外国資本にバックアップを受けただけの薩長下級武士集団が中心だった革命軍に、伝統と叡智の集結していたはずの徳川幕府がいとも簡単に白旗を挙げたのか?その部分を、僕らは正鵠に見つめないと、なぜ江戸が東京になってしまったのか?を正しく理解できない。
伝統ある西ローマ帝国が、フランク族に乗っ取られ、ローマ皇帝がゲルマン人の末裔になってしまったのは、なぜか?あれと同じだ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました