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江戸と東京をめぐる無駄話#19/おつもり#05

日米修好通商条約締結(1957/7/29)を受けて、徳川幕府は翌々年1859年7月1日に武蔵国久良岐郡横浜村(現・中区関内あたり)を開港した。そして同地への出店を促すお触れ書を大阪・江戸に店を構える大店/廻船業者へ出すとともに、現在神奈川県本庁の在るあたりに税関(運上所)を設け、その沿岸に二つの波止場を建築した。外国から入った商人は20名ほどだった。
取扱品目は、主に生糸と茶。輸入品は綿糸・織物と砂糖などだった。その交易の主導を握っていたのは、言うまでもなく米国だ。たしかに江戸幕府は五か国と通商条約締結を結んでいたが、外国商人側のキャスティングボードを握っていたのは米国だったのだ。
なので、江戸⇔横浜間のロジスティックルート確保のために、鉄道を敷きたいと最初に幕府へ申し入れたのも米国公使館だった。
幕府はこれを承認し「江戸・横浜間鉄道敷設免許」を発行している。これはその敷設のための土地は米国に対して無償貸与するという内容だった。しかし幕末の揺籃が続いたため、横浜港の市場は急速に拡大化していったが、鉄道敷設はそのまま手つかずに置かれた。

そして徳川幕府が倒れる。米国公使館は、新政府に対してすぐさま徳川幕府と交わした契約の履行を迫った。しかし薩長革命政府はこれを拒否している。
・・実はその時、革命政府の主核メンバーになっていた長州五人組Choshu Five(1863年から英国に遊学した井上馨/伊藤博文/井上勝/遠藤謹助/山尾庸三)は、同地の鉄道敷設を英国公使ハリー・パークスと約束していたのである。(ちなみに英系の軍資金を得ていない西郷隆盛は鉄道建築に大反対だった)
そのため、江戸⇔横浜間の鉄道敷設は英国公使ハリー・パークス主導で行われている。

建築師長は英国のエドモンド・モレルEdmund Morel。彼と共に英国人の建築技師/測量技師が多数来日した。
資金調達については、当初ホレイショ・ネルソン・レイHoratio Nelson Layが司った。レイは清王朝で甘い汁を吸っていた男である。彼はパークスの紹介で明治政府と「レイ借款(1割2分利付100万ポンド借款)」を結ぶと、これを転売し利鞘を得ようした。ハリー・パークスは激怒し、レイ借款はすぐさま棄却されている。

そのあとを担ったのは英国のオリエンタル銀行Oriental Bank Corporation、主幹事となったのはシュローダー(英国ロスチャイルド系)で、その条件はレイ借款(1割2分利付100万ポンド借款)と同等のものだった。
以降何回も明治政府はポンド借款を、こうした英国マーチャント・バンクを相手に発行している。
ところで、こうしたポンド借款だが、日本は一度も支払いを反故にしていない。このへんにも日本人の律義さがはっきりと表れている。ぜひぜひ「爪の垢を煎じたもの」を本邦近隣諸国へ贈呈すべきであると僕は考える。

さて。この江戸⇔横浜間の鉄道敷設工事を請け負ったのは、築地ホテルを建築と経営をしていた「鹿島組(現・鹿島建設)」鹿島岩吉である。
鹿島岩吉は武蔵国入間郡小手指村上新井(現在の埼玉県所沢市)出身。関東人である。男気があり目端の利く男で横浜開港時にすぐさま店を同地へ移し洋館建築を生業とした。彼の横浜での最初の大きな仕事は英国ジャーディン・マセソンの商館、現・山下町シルクセンターあたりに在った「英一番館」だった。ジャーディン・マセソンが長州系討幕派の資金源だったことは公然な秘密。(ちなみに吉田茂は上海ジャーディン・マセソンの社員だった)
どうやら鹿島岩吉をジャーディン・マセソンに繋いだのは長州五人組Choshu Fiveの一人、鉄道頭・井上勝らしい。
以降、政府主導の土木工事では常に重用され、現在に至っている。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました