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江戸と東京をめぐる無駄話#21/おわり

さてさて。一年余りかけてズルズルと書いてきた江戸と東京を巡る無駄話だが、ここで漸くおつもりのおつもり話となる。
王である秀吉に匹敵するするほどの力を得た家康は、秀吉に疎まれ遠国へ一族郎党ごと追いやられて小田原を超えて江戸湊に至った。誰もが何故?と思った選択だった。しかし家康は、それを/禍福を糾る纏とした。この地で大成できるかどうかは分からない。それでも大成するための努力と情熱を、家康は江戸湊にかけたのである。・・その辿った道を習ってみたのが、今回のこの稿だった。

江戸とは、家康が勝ったときのための布石として準備した拠点だった。だからこそ、秀吉の老耄によって秀吉王朝が崩落へ向いたとき、江戸が「万全の支度」として生きてきたのだ。国家の経営者として家康がいかに有能であったかは、このことだけでも証明できる。
・・それでも300年の時が起こす経年疲労は酷い。幕末期、徳川政府は修復不能なほど機能不全に陥っていた。
大きな理由は米をベースにした石高制と徳川政府が発行する貨幣の間の乖離だった。これを抜本から替えるオペは、体制そのものを破壊する。解決法は、不死鳥のように新体制を作るしかなかった。それが薩長新政府だったわけである。

さて。じつは・・今世紀に入って、現日本国は、この幕末期に匹敵するほどの財政破綻を起こしている。不良貨幣を膨大に発行し、市場を混乱に貶め国際的な信用力を失墜させている。GDP比から現況の国家財政を大東亜戦争敗戦直後に例える人がいるが・・僕はむしろ明治維新にまで墜ちたと見るべきではないか・・そう思っている。
その失墜した徳川政府を引き継いだ薩長明治政府が立ったスタート地点が如何ほどのものであったか?
金融という切り口から見ても、それがどれほど難事業であったか・・窺い知れるはずだ。

一つの例が前述した横浜-新橋間の鉄道敷設のために明治政府が、1870年に起こしたポンド建ての国債である。この国債は担保が関税収入全額だった。つまりロンドンは関税による利益以外に信用できるものは日本にないと判断したのだ。満期は13年だった。金利は9%!である。1873年に追加で起こした国債は、米穀が担保で金利は7%だった。
このように、きわめて劣悪な不均衡な条件で明治政府は外貨を調達しているのである。
このまま国債発行額が国民の資産全額を追い越せば・・現日本政府が次に資金調達をするときは、あのときの薩長明治政府と同じ評価の上で、借り入れを起こすことになるだろう。

しかしだね。それでも明治政府は1875年には財政収支(債務の元利償還分を除けば)黒字にしているのだよ。
現日本政府は、それさえ出来ていない。
いかなる方法で、それを可能にしたか・・誰を切り捨て、だれの血と肉で贖ったのか・・については書かないままこの原稿は終わろうと思っている。薩長が進んだ道は温故知新とすべきではないからだ。
ひとつとても気になるのは・・いまあの時と同じ岐路にある現日本政府に・・対立する革命政府がないことだ。いわば徳川幕府のまま、日本政府はその岐路に立つことになるのだ。現政府は、誰を切り捨てだれの血と肉で、贖おうとしているか・・。革命政府でなくとも思い切ったオペは図れるのか?そもそもそれができるのか?
渋沢敬三は来るのか?
このままでは地に落ちるであろう「日本国の信用」力を、どうやって回復するのか?
それを醒めた目で、裏銀座の露地の奥から見つめていたい・・という話でこの稿を終わりたいと思う。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました