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江戸と東京をめぐる無駄話#20/おつもり#06

大政奉還後、そそくさと蟄居する徳川慶喜を見て、諸藩武家も足早に江戸市中から撤去を始めた。江戸が住民の半分が消えた。江戸城周辺北部周辺は急速に無人化した。経済は破綻した。モノは売れなくなり、売掛の取りっ逸れが無数に起きた。もともとスレスレのところで成り立っていた商い家はどこも途方に暮れた。しかし住民そのものが半減したため、モノが不足することにはならなかった。米騒動は起きなかったのだ。
それでも山の手には、武家が帰郷したあとの廃屋が並んだ。のちにこれらはすべて明治政府が召し取り、青雲の志で上京した若者たちに分配するのだが・・その前夜の話である。

明治2年12月27日。関東のからっ風が吹く夜である。
数寄屋橋町に有った武家屋敷から出火した。原因はわからない。その火の勢いは冬の風に乗って、瞬く間に南は尾張町(現・銀座4丁目)西は愛宕山までを焼け野原にした。町火消は機能していたが武家火消は殆ど機能していなかった。そのため武家屋敷は燃えるに任せるしかなく、それが余計に被害を甚大なものにしたのかもしれない。
いつもなら・・江戸の御代ならば・・火事は江戸の華とばかりにすぐさま復興の手が上がるのだが・・政権の交代と経済の混乱の中でそれはあり得なかった。鎮火の後も復興はママならず、それが関西から出向していた商家の撤収を促す結果になっていった。

そして明治5年2月26日の午後。和田倉門に有った兵部省添屋敷から火の手が上がった。兵部省は帰郷するところを持っていない直参旗本たちを明治政府が雇用し、彼らの住まいをそのまま添屋敷としていたところである。原因は昼餉の煮炊きの不始末だろうか。火の手は一気に広がり、この時は京橋を焼き尽くし、再び銀座の大半を灰燼としてしまった。火の手は築地外人居留地にまで及び、贅を尽くした「築地ホテル館」もこの時に焼け落ちている。
結局のところ、この二回の大火が築地外人居留地凋落の原因になったことは間違いない。

その「紙と木で出来ているウサギ小屋」に憂慮したのは、英国公使ハリー・パークスである。彼は耐火構造の街並みを提案した。
横浜と新橋を繋ぐ玄関口には「耐火煉瓦による洋風の街並みが必要である」と。・・もちろん金はかかる。その金の工面まで含んだ提案だったに違いない。
ときの東京府知事は由利公正だった。彼は、灰燼となった銀座地区を武家屋敷商家民家すべてを買い上げた。そして本通り幅15軒、横道を8軒5軒3とした絵図を書いた。測量し具体的な区分けをしたのは、越前の土蔵師丸山三吉だった。由利と丸山は同郷である。しかし由利は岩倉使節団に参加してしまうので、後任は大蔵卿代理の井上馨が受けている。
具体的な設計図を引いたのは、英国公使ハリー・パークスの紹介を受けたトーマス・ジェームズ・ウォートルスThomas James Watersだった。彼はロンドンのリージェント・ストリート(この言葉から思い出すのはパリを作った男ジョルジュ・オスマン)をイメージしていたらしい。

しかし・・残念ながら此処も競売は芳しくなかった。それほどの資本力を持つ商家も民間もまだ生れていなかったのである。それほど明治の動乱は、人々を疲弊させていたのである。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました