見出し画像

江戸と東京をめぐる無駄話#09/見間違えた政敵#02

ペリー来訪が1853年7月8日。
蒙昧病弱だった家慶死(1853年7月27日)後、将軍席は実子・家定が継いだ。しかしこれを面白くないとする勢力があった。家定もまた幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌う人だったからだ。しばしば癪を起した。
家定への評価は御三家からも幕閣からも低かった。「安政紀事」にも「疾ありて政をきくことあたはず、ただ廷中わずかに儀容を失はざるのみなり」とある。客観的に見て、父・家定に輪をかけた無能な男だったのだ。ペリー来訪を受けて天下揺籃の時に、これほど相応しくない人物が将軍席に就いてしまったことは、本人にも徳川幕府にも不幸だったといえよう。
当然のように、家定退位の動きはすぐさま始まった。最右翼は一橋慶喜を立てる一派だった。一橋派と呼ばれた。慶喜の実父である水戸藩前藩主・徳川斉昭/一橋慶喜の兄だった水戸藩当代藩主・徳川慶篤/越前福井藩主・松平慶永/尾張徳川家藩主・徳川慶勝/薩摩藩主・島津斉彬/伊予宇和島藩主・伊達宗城/土佐藩主・山内豊信らである。
徳川斉昭らは「先代将軍・家慶も一橋慶喜こそ後継者に相応しいと思っていた。しかし急な薨去によって、それが為されなかったのだ」という論を強く主張した。
実は次期将軍として、井伊直弼ら近江彦根藩主・井伊直弼/会津藩主・松平容保/讃岐高松藩主・松平頼胤/信濃上田藩主・松平忠固/紀州藩附家老・水野忠央は、家定の従弟の紀州藩主・徳川慶福を推していた。
家定は、はっきりと一橋慶喜を嫌っていた。なのでそれほど深くも考えないまま慶福を養子とし(1858年6月25日)、次期将軍は慶福に内定した。しかしこれを不服として徳川斉昭の不満は一気に高まった。
皇室に太いパイプを持っていた徳川斉昭は、皇室判断として「一橋慶喜を将軍後見職に/松平慶永を大老に登用せよ」という勅諚(戊午の密勅1858年8月8日)を取り付け、これを幕府に突き付けた。幕府の上位として皇室があることを殊更顕示したのである。
しかし井伊直弼はこれを「水戸家による幕府乗っ取り」と見た。皇室が徳川幕府にではなく、その配下に勅諚を出すなど前代未聞の話だからだ。これを粛清するために井伊直弼は、「安政の大獄」によって外堀からその火の手を収めようとした。これが余計に一橋派の神経を逆撫ぜした。彼らは「どう開国するか」で百家争鳴し動揺する幕僚へ「不埒な井伊直弼以下違勅幕閣追放せよ」と強く主張したのである。
同じ論理を持って徳川斉昭は、大老井伊直弼が老中阿部正弘を通してハリスらと"日米修好通商条約"締結(1858年7月29日)にも「無勅である」と難癖をつけた。たしかに無勅だったが、当時は慣習的にこうした政策について天皇の了承を得るということはしなかった。今さら難癖付けられるようにことではなかったし、実は勅許を得るために井伊直弼は京都へ岩瀬忠震を派遣している。その使者に対して皇室は頓珍漢な勅諚を出していたのだ。。その騒ぎの中で家定が亡く(1858年8月14日)なった。慶福が第14代将軍となり家茂となった。12歳だった。
井伊直弼ら近江彦根藩主・井伊直弼/会津藩主・松平容保/讃岐高松藩主・松平頼胤/信濃上田藩主・松平忠固/紀州藩附家老・水野忠央がすぐさま反応した。
「水戸家による幕府転覆阻止!」と。
かくして「安政の大獄」が本格的に始まる。
日本史上最悪の失政である。
井伊直弼/幕閣は、尊王も攘夷もスズメの囀ていどにしか見ていなかったのだ。一方、水戸家による幕府乗っ取りは天下の大事件である。井伊直弼/幕閣は、徹底的な粛清でこれを抑えようとした。御身大切のあまり、薩摩/長州/土佐の動向を見誤ったのである。
「安政の大獄」によって粛清された人物を挙げよう。
一橋慶喜(一橋徳川家当主)隠居・謹慎
徳川慶篤(水戸藩主)隠居・謹慎
松平春嶽(福井藩主)隠居・謹慎
徳川斉昭(元水戸藩主)永蟄居
徳川慶勝(尾張藩主)隠居・謹慎
伊達崇城(宇和島藩主)隠居・謹慎
山内容堂(土佐藩主)隠居・謹慎
堀田正睦(佐倉藩主)隠居・謹慎
松平忠固(上田藩主)隠居・謹慎
朝廷関係者も処罰の対象とした。
近衛忠煕(左大臣)辞官・落飾
鷹司輔煕(右大臣)辞官・落飾
鷹司政通(前関白)隠居・落飾
三条実万(前内大臣)隠居・落飾
処刑された主な人物
吉田松陰(元長州藩士)斬罪
橋本左内(松平春嶽家臣)斬罪
頼三樹三郎(京都町儒学者)斬罪
安島帯刀(水戸藩家老)切腹
鵜飼吉左エ門(水戸藩家臣)斬罪
鵜飼幸吉(水戸藩家臣)獄門
茅根伊予之介(水戸藩士)斬罪
梅田雲浜(小浜藩士)獄死
飯泉喜内(三条家家来)斬罪
日下部伊三治(元水戸藩士・薩摩藩士)獄死
どうだろうか?・・この通り、徳川幕府を崩壊に追いやった薩摩/長州/土佐の武士で、断罪されたのはお調子者の吉田松陰だけだ。井伊直弼/幕閣らは、薩摩/長州/土佐について雀の囀りと見做し一顧だにもしていなかったのである。
彼らは、水戸家の反乱だけを見ていたのだ。
しかし・・なぜ、吉田松陰は斬罪されたか?もともと言動に軽佻浮華な傾向があった吉田松陰は禄に英語も話せないにもかかわらず供(金子重輔)を連れて、ペリーのポーハタン号に密航を試みるような男だった(実はロシア船にも試みている)このことで逮捕されている。
その逮捕された経緯で・・「安政の大獄」で"ついでとして"討幕計画を声高にしゃべっている学者らを取り調べしていたとき・・吉田松陰は、常々自分がしゃべっていた「間宮老中の暗殺計画」で捕まったんだろうと勝手に思い込んでしまって、これを自白してしまったのである。自白というか・半ば自慢したのだ。
「討幕計画」と「老中暗殺計画」とはまるで意味が違う。吉田松陰はその意味の違いが理解できていなかったのだ。かれが処刑されたのは、夢物語のような討幕計画ではなく、老中暗殺というテロ行為をもくろんだ男と見做されたからである

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました