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旅のすえ また大川に めぐりあう

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彷徨を続けた人生でしたが、いまは大川の畔にもどっています。
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記事一覧

らく町まぼろし散歩#01

僕にとっての銀座/有楽町は1965年あたりから1970年くらいだ。高校生になってからと大学生にな…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#21/おわり

さてさて。一年余りかけてズルズルと書いてきた江戸と東京を巡る無駄話だが、ここで漸くおつも…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#20/おつもり#06

大政奉還後、そそくさと蟄居する徳川慶喜を見て、諸藩武家も足早に江戸市中から撤去を始めた。…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#19/おつもり#05

日米修好通商条約締結(1957/7/29)を受けて、徳川幕府は翌々年1859年7月1日に武蔵国久良岐郡横…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#18/おつもり#03

天皇という錦の御旗を立てて、徳川幕府から日本国の統治権を奪取した薩長明治政府は、まずオノ…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#16/おつもり#02

幾つもの幸運が重なって、薩長明治政府は日本国を我が物にした。 江戸の半分を構成していた武…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#15/おつもり

事業の成功は、沢山流された血と汗と涙そして少しの僥倖から為される。 明治政府もそうだった。 ド田舎の下級武士と貧乏公家の集団が、外国人から受け取ったお金を梃にして「革命政府」を起こせたとしても、なぜフィニシュまで辿り着いたのか?なぜ崩落しなかったのか? その時代的背景と、彼らが流した血と汗と涙と、そして天より得た少しの僥倖を僕らは「維新」を見つめるとき、意識する必要があります。礼賛すべきではない。醒めた視線で見つめるほうがよろしいと、僕は思います。 さて。今年に入って長々ダ

江戸と東京をめぐる無駄話#14/天皇の資産形成#02

薩長明治政府は、天皇家の功績に対してまず、ほぼ10万石だった禄高を15万石に増加させた。財源…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#13/天皇の資産形成

時代の趨勢で徳川幕府に取って代わった天皇を頂く明治政府だが、中身は薩長の下級武士と京都の…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#12/明治政府の財布の中

1868年(慶応四年)4月11日。江戸城無血明渡しによって、江戸は完全に薩長が先頭を走る東征軍の…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#11/無能な王は当然国を亡ぼす

戦争は国力を削ぐ。まして内戦は傷が深い。海外から嗾けられて長州・薩摩・土佐が徳川幕府に食…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#10/見間違えた政敵#03

1860年3月24日/安政7年3月3日。この日の江戸は明け方から季節外れの雪模様だった。 3月3日の雛…

勝鬨美樹
2年前

江戸と東京をめぐる無駄話#09/見間違えた政敵#02

ペリー来訪が1853年7月8日。 蒙昧病弱だった家慶死(1853年7月27日)後、将軍席は実子・家定が継…

勝鬨美樹
2年前

江戸と東京をめぐる無駄話#08/見間違えた政敵#01

不運なことに・・徳川幕府は、徳川家斉の長期安定政権のあと、将軍席を実子・家慶が継いだ。 家慶時代、幕府財政は家斉が実施した改鋳という金融緩和政策で一時驚異的な回復を果たしがらも、家斉自身の放埓な浪費と石高制の機能不全が全く手つかずに置かれたため。家慶の代には再び深刻な財政難に陥っていた。その危機を背負いながら、蒙昧な上に病弱だった家慶は、何の起死回生となる策も打てないまま漫然と統治を続けていた。 そこにペリーの船がやってきたのである。 家慶自身は、開国について否定的だった。海