芋虫の瞳、這ってでも喋る

俺は狭くても平気だからとか言って、
いつまで経ってもかえてくれないセミダブルに、既に夫と隣のベビーベッドから出てきた息子が寝ている。
狭いのが年々苦手になる私はソファでねっ転がってて寒いけど、暖房をつけるために立ち上がる気になれない。なにか貰えるとかじゃないと。ごろごろ芋虫状態だ。
付き合いたての7年前の冬、芋虫という意味が22歳の2人の間に流行って、乱歩よろしくユルス!と言いながら目潰ししあっていた。

彼を一目見た時の「あ、ずっと想像してた私の男バージョンがマジで現れたわ」という突発的な信仰と可笑しさと、数分後、彼が「あっ」と声を出してなにかを思い出して本を落とした姿。
その夜、サイゼリヤでの「だって鏡って見えないじゃん」っていう返しとか、年またぎ帰省中のLINEでの「違う、傲慢なんだ」という示唆的な言葉でうたれた気がするけど、
その前に、私がどんな言葉を言ったかは覚えてない。なんの示唆かわすれてる。ここにゴースト。


年末に出会って1月半ばでつきあいはじめたが、まだ関係を周囲に言ってなかった頃、サークルの仲間が、「あの人彼女とかいるんですかね、ロゴスとか言って口説くんでしょ」と言っていて、私はへらへら笑ったのだった。今でも思い出すと楽しい。みんな永遠に幸あれ。ゴーストに追われてる。
私はあの頃、散々女友達を言いくるめていた男役だった自分を捨てて、女の子パロディごっこをやってみてて、本物の生きとし生ける男のペースに入り込んでみたかった。言いくるめられたり溶かされる側の気持ちを知りたかった。別れたばかりの理系の元彼にも、女の子は全開だったが、ロゴスとかいって口説かれることはなかったのである。

ホモソーシャルと共に存在するには、
自分で鍵盤をひくのではなく、その上をスキップするように歌うことでしか生きられないと思っていた、もはや時代遅れだね。いい時代になったものだ、BBA、身の振り方がわからない。


さて、当時の彼のテンポは、音楽とロゴスで鍛えてるだけあって、ノッてみたいと思えたし、私が混ざれば、本人が自覚できる以上のハーモニーができると自負した、実際それは成功した。(つまり先に相手に入ったのはどちらなのか)


しかし七年たったいまや、
結婚も出産も経て、私も女の子と言える年齢ではなくなり、それを彼は歓迎してくれるんだけど。
結局、私達は似た者同士でお互い自分のペースありきなので、各々のコンテクストを棄てることはなく、お互いを言いくるめられず、本当の意味で口説かれることはない。
私が何か言えば、君は自分の言語感覚で新たなコンテクストを作り出し、それを私に伝える。そこまですることが、むしろ君にとっては、私を真摯に聞く、ということなのだ。
私がまた、それをして、乾いた繰り返しが延々。普通に話を噛み合わせて、ひとつのコンテクストのなかで共に生きる、ということはなかなかない。
世界観は、共有され尽くされない。変な言葉。
癒着しないからこそ、繰り返せるのかもしれないね。君はそれもいいみたいだね。

並行線の対岸で何度も出会える。挟まれた川さえ干上がらなければいい。そのためにたまに涙を流す。言葉が通じない地獄を知っているし、家の外では今でもちらほら。言葉でしか繋がれなくても、聞く耳を持ちあえるならいい。体も正しく断続的に繋がる。
喉が枯れる頃、川は水位を取り戻す。対岸は視野が増えるので、よそ見もする。私は喉が乾きやすく普段から水太り気味。潤したいのだもの。

(向こう側からこちらを時々確認しているあなたがこの世界の私のシンボル)ゆらゆら帝国を好きな私は、なにせ観測者を一番愛してる。それは私に対してだけでなく、この世界に対しての観測者。この世界に対してのマニア。
それもわたしの尊いゴースト、むしろ観測者自体が、瞬く星の様に。
目が合えば、合った瞳をただ愛す。潤える。

そういえば、夫と初めて話した時に、「坂本慎太郎と雰囲気似てますね」と言い、ああ、と彼は顔を背け、私は外したか、と思ったが、それはあとから聞くと照れていたのだった。

そしてまた記憶が流れてくる。はじめの頃、君は確かに「お互いをちゃんと見ていれば大丈夫」とも言っていた。なるほどね、君が言い出したことだったのか。
ロゴスを投げ合ったLINEの画面のその一行が目に浮かぶ。そのとおりなのだろう。
あれはむしろ、いつでも今に向けてかけられた呪文。過去からきこえてくる言葉はゴースト。

今でも別に私たちの会話は鳴り止まない。
私が喋る。君が喋る。
その横で、本当は私たちの子供(1歳7ヶ月)が、喃語と覚え始めたいくつかの単語で一番沢山喋りまくる。

こんなことってあるのかよ、遺伝ってすごい。
意味わかってんのかな?
口が達者で我が強いと言われ、邪魔者扱いされ続けてきたことに卑屈さと自信を持つ私たちの、自慢の子供。

文字通り、まだ口の利き方も知らないあなたはその名の通りの餓鬼で、飢えたように世界を見聞きし、鬼のようになにかを喋り続ける。
お喋りは言葉に先立つ。
声は意味に先立つ。
私たちは、ただ喋っていたい。
なかなか馴染めることのない、この世界の空気を震わせ、きいていたい。
私たちの身体性の持ち方なの。

それを息子が教えてくれた。
家庭をつくるという使い古された社会システムの功労や利害を、わざわざ内側にはいり、現代で新たに認識しなおす試みも捨てたものじゃない。
ママの言ってることよくわからないでしょう、
大丈夫、ママよくそう言われてきたからあなただけじゃないよ、安心して、
それと同じく、
あなたがなにを言いたいかは完全には、ごめんねママ、よくわからないんだけど、
あなたの一生懸命なお喋りは、
たしかに可愛い、愛の呪文だよ。ゴーストどころかフェアリーの囁きのように。

結局、親を一番みているのは、子供なんでしょう。未来の観測者のあなたへの愛、それはゴーストでしょうか。


これを書きながらまた気づいた。
私たちはあの時、芋虫という言葉を正確に共有していたのだった。
そして、今でもそうやって旋律が重なる瞬間は多々あるのだ、お互い自由に歌いすぎて間隔があくか、もしくはただ気づきにくくなっただけで。だとしたら、合奏であり合唱が、もはや当たり前になった証拠かもね。

君は、0でも1でも、無でも有でもない間のものが、割り切れない気持ちが、言葉通りじゃない言葉が、
人間を人間たらしめる、計算可能なコンピューターシステムとの世界との違いだと言って、
そんなわかるようでわからない、見えるようで見えないものを哲学科の卒論でゴーストと名付けたのだった。

あ、またいまわかった。
わたしはあの時サイゼリヤで、
「鏡を見たら映る私って、みんなが見てる自分じゃないものね」と言ったのだった。
みんなが見てる自分を考えること自体不毛、
あの時教えてもらったんだね、全然実践できてないね、
みんなが見てる自分なんてゴースト。
ここまで聞こえてくる過去の君の声のゴーストに救われている。
ラカンの想像界や現実界や象徴界について、
無知なくせに、聞きかじりで、何故かTwitterのBIOを「ラカン!自動筆記に従っています」とかにしてた私に、
一生懸命話してくれた、
君は大学時代に一番考え続けたことで、
私を口説いてくれたのだった。
最悪なことに、私はこの7年間、勉強不足を貫き通してるまま。

そして、君自身のことを、「違う、傲慢なんだ」と語るにいたる私の褒め言葉は、まだ思い出せない。
これ読んで当ててみたい人、答えを教えてくれると嬉しいです。

あの時、傲慢な私は、それを露悪ぶらずに言いきれる彼に、シンパシーと強さと諦念と、無邪気な母性を感じたのだった。


とりとめもない。
ゴーストが怖いから、眠れないというわけではないが、随分夜更かししてしまった。
この夜の冷たさに慣れて体は温くなったがそろそろ、芋虫から這い上がらなければならない。
最初に貰った目を潰さないで、君とあなたと世界を見つづけるために。


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