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震災のことを書いてみようと思う

12年前の3月11日、当時高校1年生だった私は福島県で震災を経験した。でも今まであまり被災者という意識がなく、正直大分前から自分の中で震災は風化してしまっていた。震災以外のことの方が自分の人生の中で戦いで。それでもあの時期にあの場所で生きていたからこそ、いつか振り返らなければな‥‥とずっと思っていた。意識していなくてもアイデンティティを形成している出来事だと思うから。
12年間の内で、今が最も時間がある3月かもしれない、後にも先にも今しかないかもしれないと思い立った。今だから書けること、忘れていることの方が多いけれど、書き残しておきたいと思う。

※震災に関する文章の為センシティブな内容も含みますこと、ご了承ください。また一個人が経験したことや感じたこと、公開時点での解釈の記述となります。






震災直前


確かあの日の直前はインフルエンザが流行していて、私のクラスは学級閉鎖になっていたと記憶している。

あの日はちょうど中学校の卒業式が行われていたらしい。私の1つ下の学年が中学から高校に上がるタイミングだ。
中学でイキイキ過ごしていた私は、卒業式で感極まってギャン泣きした過去があり、振り返るとちょっと恥ずかしい。けれどその時の自分が嘘かのように、1年後の自分は心ここにあらずという感じで、熱中できるものが何もなく悶々としていた。それでもクラス仲が良かったことが、辛うじて日常を楽しくさせていた。

震災数日前の高校受験の日、その日ばかりはいつも練習に忙しい運動部や吹奏楽部のクラスメイトたちも部活が休みということで、クラスのほぼ全員でボーリング場に遊びに行っていた。もうすぐクラス替えだね、クラス替えしたくない~なんて言いながら、最初で最後のクラス会(?)。


3月11日 金曜日


私の高校ではちょうどその日に先生たちが高校入試の採点をすることになっており、授業は午前中で終わり、生徒は校舎内に残らないようにと言われていた。部活がある人達はそれぞれ部活に行っていたようだけど、私は部活に入っていなかったので真っ直ぐ帰宅した。

授業が無い分、課題は大量に出される学校だった。家でお昼を食べた後、あ~課題やるの怠いな~と思いながら、同じ帰宅部の友達とメールしたりしながらソファでダラダラしていた。

そして14時46分。
容赦なくその揺れはやってきた。何が起こっているのかよく理解できていなかった。ただペットの犬がとにかく暴れていて、犬が怪我をしたらどうしようと思って必死に捕まえようとしたけど無理で、とりあえず自分は机の下に潜って、犬の名前を叫んで必死に呼んでいたのは憶えている。ただその出来事が果たして何回目の揺れのことだったのかは定かでない。

それからどうしたのだろうか。犬が怪我をしていないか確認して、物がどのくらい落ちたのかを見て、状況を何となく把握し始めたように思う。テレビがすぐに点いたのかは憶えていない。停電していたかな。地震の揺れがおさまったらすぐに外に出た方が良いと何となく知っていたので、隣に住んでいる祖母に声をかけて、一緒に寒空の下家の前の道路に出た。目の前の電柱が余震で倒れてきたらどうしよう。携帯電話の回線がパンクしていて父にも母にも電話が繋がらない。
「そう言えば、一昨日宮城で地震があったけど、あれは前震だったのかな‥‥」なんて動揺している祖母と話していると雪が降ってきて、この世の終わり感が凄かった。この地域ではそもそも雪はめったに降らないし、しかももう3月なのに、今このタイミングで雪が降るんだ‥‥と思った。

それから何度も余震があった。仕事に行っていた母と連絡が取れたのは結構後のことだったと思う。職場で散乱した物を片付けて、一段落したところで母は帰ってきた。

テレビかラジオ、ネットか友人達との情報交換だったか何らかの方法で、沿岸部で津波が起こっていたことを後から知った。私の自宅は海から離れているので津波は免れた。

断水していたので、当然お風呂には入らず、いつでも避難できるような恰好に着替えて、すぐにでも身動きが取れるような心づもりのまま、1階のリビングルームのソファで眠りに落ちた。

※当時の写真ではありません


3月12日 土曜日


地元チェーンのスーパーが大変な状況の中営業してくれていて、営業情報を得て買い物に来ていた人達の行列に並んだ。地元スーパーの温かさを知った。

断水も続いていた為、給水所情報を入手して水を汲みに行った。恐らく給水の列に並んでいたその同時刻に、福島第一原発1号機が水素爆発していたと後から知った。私たちの住まいは避難区域には指定されなかったものの区域境に面しており、原発からそこまで離れていない区域だったので、
「あの時間無防備に外に居たし、放射能を思い切り浴びてしまったかもしれないね‥‥」
と母と話しをした。


3月13日 日曜日


情報は遮断されるどころか錯綜していた。友人やクラスメイト達とメールのやり取りで安否を確認し合ったり、情報交換をしたりしていた。またいつ停電するかもわからないので、母と私の携帯電話を順番に使うようにして、電力を温存していた。

原発事故についてもだいぶヤバいことが起きているんだと何となくわかってきて、避難区域に指定されていないがここも危険、避難した方が良いのではないか、という情報も飛び交った。幸い我が家は父が単身赴任していたので、外から冷静に情報を入手して連絡をくれていた。周囲でも判断の早い人は、この日に避難を始めていたようだ。うちも決断するなら今なのではないか。動揺する母と祖母と話し合った。祖母は避難する、という選択肢自体が頭に無く、寝耳に水のようだった。確かに、祖母は私たちより入ってくる情報量も異なるだろうから、そう感じるのだろうと理解できた。それに
「私は残ってひとりになったとしてもそれで良い。私はどうせ年寄りなんだから。私は自分の家に居たい」
と言った。当時の私が祖母のその気持ちを充分に理解して寄り添えていたかは正直怪しい。でも祖母を置いて避難するわけにはいかなかった。かと言って、避難せずに留まる、という考えの方が当時は不安に感じた。頼れる場所があって、避難という選択が取れる状況ならば、その選択をした方が良いのではないかと思っていた。祖母を説得して、避難する方向で方法を考えることにした。
しかしガソリンが無い。地震で物流も止まっていた。当然電車は使えない。今あるガソリンでどこまで走れるだろうか‥‥。行けるところまで行って車を乗り捨てるか‥‥という選択肢も浮上した。でも長年乗っていた母の愛車をどこかよくわからない土地に置き去って、それこそ回収できるかもわからなくなる。盗まれる可能性もある。家を置いて避難することを選択しようとしているのに、何故か車を乗り捨てる選択はとても身につまされる感じがした。
そんな時に、タクシーはガスで走っているからガソリンが無くても走れるらしいという情報を得て、祖母が懇意にしているタクシー会社さんに聞いてみることにした。そしてタクシー会社さんが乗せて走ってくれることを快諾してくださった。単身赴任中の父が途中まで迎えに来てくれることになり、そこまでタクシーで行き、落ち合うことに決まった。

※当時の写真ではありません


3月14日 月曜日


早朝、タクシーが迎えに来てくれた。私たちは荷物をまとめて乗り込んだ。もうもしかしたらこの家に戻って来られないかもしれない。避難を決断し、方法を考えるまではとにかく必死で、非日常感の中である意味変なスイッチが入ってしまっていたが、この時になってやっと実感が沸いてきたように思う。
タクシーの中で
「運転手さんはこの後どうされるのですか?」
と母が聞いた。
「自宅に戻ります。」
この時初めて気づいた。私たちは自分達のことだけを考えて避難を決断し、手段も自分達のことしか考えずに選択した。この運転手さんは私たちを送り届けて、私たちが一生戻らないかもしれない場所に戻っていく。自分のエゴに傷ついたし、この運転手さんは何を感じているだろうと思った。「避難したい」という気持ちがあったならやるせなさを感じたかもしれないし、「地元に残る」という決断をしているのなら、違う選択をした乗客を送り届けてくれた優しさがそこにあるだけかもしれない。

そしてその運転手さんに別れを告げて、県境を越えたあたりで父と落ち合った。父に無事に会えて凄く安心したのを憶えている。犬を少し外で散歩させてから、父の車に乗って移動した。祖母は別の親族の家に泊まることになったので送り届け、私たちは父の単身赴任先まで移動した。この時、福島第一原発3号機が爆発していた。

この日は父のワンルームで、家族3人と1匹で眠ることができた。


3月15日 火曜日


父のワンルームに何日も居るのは現実的ではなかったので、母と私は犬を連れて母の実家に移動した。いつでもどこでも動ける恰好で避難してきたので、そのまま電車に乗り、明らかに浮いていただろう。
母の実家に到着して、少しホッとした。移動中にまた地震が起きたらどうしようと身構えていた。ここで無期限の避難生活を送ることになった。


避難先での日々


それ以降のことは断片的にしか憶えていない。

避難してきて3日目くらいの朝、私が朝寝坊していると
「さっさと起きないと!規則正しい生活!!」
と言って祖母に起こされた。これに対して母が怒った。何日も気を張って疲れも溜まっているのに、その言い方は無いんじゃない?と。私たちがどんな状況でどんな心情でこの数日を過ごしてきたかは、やっぱり当事者じゃないと想像できないんじゃないかと思った。でも祖母は、これから長くなるであろう避難生活が「避難」ではなく「日常」になるだろうから、生活リズムを整えた方が良いという意味で言ってくれていたとは思う。

多くの人がご存知の通り、テレビからは「ポポポポーン」が延々繰り返される日々。安心できる場所で報道を見ていると、事の状況を次第に理解すると共に、何が正しいのかわからなくなっていた。避難したくてもできない人が居る。そもそも避難したくないと思っている人もいる。自分は避難してきている。帰宅困難区域や避難区域に指定されたクラスメイトも居る。その区域に指定されなかったからこそ、自分達それぞれの判断で選択し決断しなければならない苦しみもあった。津波の被害に遭わなかった、家も無事、家族も無事な自分。
そして恐ろしいことに、多感な年齢だったこともあり、正義感が炸裂してしまっていた。東京電力の原発は、何故東北にあるのだろうか。被災した土地にある原発で、関東圏の電力受給はなされていた。そのことを関東圏の人たちは重々理解しているのか?!と怒りの矛先をどこかに向けたがる自分。しかし関東圏に避難してきている自分。何が正義かもわからないくせに、自分の正義を振りかざして一人で怒っていた。

避難先で震災に関するテレビの取材を受ける機会があったり、駅前で募金活動に参加したりした。被災地から離れてしまった自分たちにできることをやろう。そう思って周囲が導いてくれた半面、「自分は正しいことをしている」という考えと非日常で受ける刺激に、不謹慎ながらどこか楽しんでいる部分もあったように思う。

当時はスマホもLINEも普及する前だったので、クラスの皆と一斉送信メールで状況を共有し合っていた。やり切れない気持ち、価値観の違い、決断・選択の違い、怒り、悲しみ、正義感、労わり、優しさ。様々な感情が、それぞれの文面に渦巻いていた。どこにも捌け口が無いから、私もそのメールの文章に、ありったけ感情を爆発させていたのではないかな。

震災後にもあの頃のメールのやり取りは保護メールに設定して、ずっと消えないようにしていた。ちょっとぼやかせてもらうと、あの時使っていたガラケー、大学の時に小道具で貸して、返って来てないままなんだよな。ガラケー使わないからまぁ良いかと大学の時は思っていたけど、地味に引っ掛かっている。あそこには貴重な記録が、感情が、残っていたかもしれない。何が何でも返してもらうよう話しをすれば良かったと今更後悔‥‥。大学行って探したら残ってるもんなのかな‥‥。

話しを戻す。

私の正義感が悪い方に暴走した出来事があった。地元に残っている友人と連絡を取り合っていた時のこと。友人自身は避難したいけど、避難先も無いし親御さんは避難しないと言っている‥‥と聞いた。私は”避難した者”の立場で「できるなら避難した方が良いと思う」と言った。避難先が無いのなら、今私が居るこの祖父母の家に来れば良いとまで思った。そして祖父母と母に相談して許可まで取って、友人に伝えた。友人は親御さんに相談し、やっぱり一人ではいけない‥‥と返事が来た。
もしかしたら友人の感情を煽ってしまったかもしれない、想像力が欠如した暴走で、気持ちに寄り添えない言動をしていたかもしれない、と後で感じた。この行動は本当に相手を思い遣ったものだったのか、それとも自分の考えの正しさを披露したかっただけなのか。当時の自分に聞いてみたいけど憶えていないし、友人はどう思っていたのかも今更聞ける関係性でもなくなってしまった。

しばらくすると、避難先では計画停電が行われた。夜の早い時間帯に停電になるので、早々に布団に入って寝た。祖父母の家は雨戸があるので、雨戸を閉めると本当に真っ暗闇で、何時間でも眠れてしまった。

ある日、クラスメイトの親しい友達と電話で話すことができた。彼女の選択と境遇は私のそれと似ていた。だから他の人には話せない話しをそこで初めてできて、共感し合って、感じている本音を吐露し合えた。この出来事は私にとっては大きかったな。彼女とは未だにこの電話のことを振り返ることがある。彼女ともまた一緒に震災のことを振り返る時間を取れたらいいな。

避難先の家の電波が悪かったので
散歩がてら山へ登り
この景色を見ながら友達と電話をした
そのことをここへ行く度思い出す

避難先での生活も日数を重ねてきて、これから先のことも考えなければならなかった。学校や県教育委員会のホームページなどを見ては、更新されない情報に、学校が再開される目途は立っていないことがわかった。そもそも修了式すらしていないから、震災からそのまま春休みに突入しているような状態だった。
放射能とやらの影響に関して、本当に県内に戻れる状態にあるのか。報道はどこまでが真実で、どこまでが真実でないのか。そもそも放射能の影響や原発事故の全容すら当時の私にはほとんど理解できなかったし、正直今もできていない。本を読むなどして正しく調べて正しく理解せねば、自分が経験したことなのだから。そう思っていたけど気が付いたら12年経っている。これが私の実態。
もし地元に戻れないとしたら、どこかの学校に転入しなければならないのか。転入するならどこの学校に行くのか。ここの学校なら偏差値はいくつだから入れそう、いや無理そうじゃない?なんて祖父や母は調べ始めていた。転入するにしても試験があるだろうし、現状の勉強はどうするのか。ということで、とりあえず近所の塾に行かされ(この状況で通わせてもらえたことに感謝しなさいって感じだけど‥‥)、課題を出されたのでそれをやっていたけど、全く身が入っていなかった。元々高校の勉強嫌いだったしね。
相変わらずのクラス一斉メール情報交換で、今後の学校をどうするか問題もそれぞれの考えが流れてき始めた。「学校が再開されるなら戻る」その考えを持つ人が多かった。

暫くして、一時的に福島の家に戻ることになった。4月に入ってからのことだったと思う。何であの時は戻ることにしたのだろうか。薄い記憶だと、父が一度も被災状況を見ていないから、一日二日戻って様子を見よう、という主旨だったかと思う。久しぶり、と言っても一か月も経たない程度だったと思うけど、自宅は物が少し落ちていた程度で、危険な物は頑丈に固定しておいたし、特に変わった様子もなく殆どそのままで安心した。
学校にも荷物を取りに行った。学校は避難所になっており、教頭先生が避難所の対応をずっとしていたとのことだった。
「支援物資のパンの賞味期限が切れそうだから良かったらどうぞ」
と言って教頭先生はパンをくれた。大変な日々を送っていただろうに、何でこんなに人に優しくできるのだろうか。ここでも温かさを感じた。

その後また母の実家に戻ったけれど、程無くして学校が再開されるという連絡があった。「戻ろう」そう決めた。父も母も意見の相違は無かった。


地元に戻ってきてからのこと


結局学校が再開されたのは、元々予定されていた始業式の日から1週間遅れた程度だった。戻ってみれば予想していたよりも早い再開だった。
再開初日、まずは1年生の時のクラスに登校して、再会と無事を喜び合った。何人か、戻らないまま転校していった人も居た。そんな時間もそこそこに、ホームルームをサクッと終えて新しいクラスに皆散っていった。仲が良いクラスだっただけに、あっさり終わったことに寂しさもあった。担任は飄々とした人でいつも嘘っぽく「ハハハハハ」と笑っていたけど、今思えば当然彼だって色々思うところはあっただろうな。まぁこの人は次の瞬間また担任になったことがわかり、色々と因縁があるのだけどその話しは脇に置いておこう。

元々は自転車通学だったけど、できるだけ放射能を浴びさせたくないということもあって、最初の内は登下校時に母が車で送迎してくれていた。けれど母も仕事を再開したし、学校でも普通に体育の授業が外で行われて、外部活は普通に外で活動していた。バス通学もしてみたけれど、バスが凄く混雑していて嫌気が差した。避難していた時間は何だったのだろう。これは正しいのだろうか。とても複雑な気持ちがあったけれど、そんな気持ちも日常に呑まれる。何事も無かったかのように日常を取り戻す学校。勉強勉強の日々。段々どうでも良くなってきて、元の自転車通学に戻した。

そしてメディアでは「絆」が叫ばれる。「頑張ろう東北」とか「がんばっぺ福島」とかそんなスローガンが掲げられる。それはすぐにメディアを通り抜けて私たちの日常にも侵食してくる。私は捻くれているので、正直うんざりだった。薄っぺらく感じて。こんな時だからこそ、人の温かさを感じたし、人との繋がりによって助けられたのは事実だ。立ち直る為にそういう掛け声をエネルギーにする人もいるのかもしれない。私が深い悲しみを味わっていない側だから、その気持ちに寄り添えていないのかもしれない。でもそれがスローガン的に打ち出されることで、本質的な何かから目を背けているのではないかと感じていた。
同じように「音楽の力で」などと言って「力」アピールをするのも凄く違和感だった。何だか恩着せがましくない?と。
前にこの記事にも書いたけど、同世代の高校球児が「被災地の為に」と発言した時には「自分たちが野球をしたくて、勝利したくてやってます」と言って欲しいと思ってしまった。「被災地の為に」なんて本気で言っているんだろうか。簡単にそんな軽口を叩かないで欲しいと思った。結果的にそのプレーで誰かが感動したり慰められたりするかもしれない。だけどそれは他者自身の感じ方に委ねられるのであって、「他者の為に」を押し付けないでほしいと思ってしまった。
私は自分の考えは間違っていないとどこかで思っているのかもしれない。私自身が「誰かの為に」と思えない当てつけだったのかもしれない。そういう想像力の無い愚かさは、他の誰かの価値観を受け入れずに跳ね退けさせるのだろうな。

今はわからないけど、その後数年間「被災地は今」的な被災者を取材する番組が、決まった時間に放送されていた。しかしその番組が被災地で放送されている時間帯、関東圏では全然違う番組が放送されていると知った時、また怒りが湧いた。これは内々の傷の舐め合いなのか?取材の中で「福島のことを忘れてほしくない」と当事者が発言する番組を作っているのに、何故外に発信しないのだろう。被災地だけで放送する意味はあるのだろうか?と。すごく疑問だった。
時間が経って冷静に考えれば、被災地の中に向けて放送する意味はあったと思う。同じ地域で同じ体験をしていようが、考え方も感じ方も状況も違う。違って当たり前だし、それを知る必要はあったと思う。だけど「風化させたくない」という声を取り上げる割には他所の地域で放送しない意味は未だに理解できない。

そんな感じでめちゃくちゃ捻くれていたけど、それでも震災を通して人生の時間は有限なのだということを思い知ったので、自分が何か没頭できるものを見つけたかった。今まで高校に入学してから勉強に全然身が入らなかったけど、少しは小テストや定期テストを頑張ってみようとか、大学を調べて志望校を決めてみようとか、前よりは行動してみた。それでもなかなかやりたいと思えることは見つからなくて相変わらず悶々とする日々だった。

少し救いだったのは、「ふくしま総文」という文化祭に出られることになったこと。詩舞という踊りを舞台で踊れる機会だったので、他校の友人や先輩と一緒に練習した。祖母が元々詩舞を教えていたので稽古をつけてもらったり、遠征に行ったりして、勉強ばかりではない時間が少しだけ味わえて良かった。

そしてその年の終わり、悶々としていた私にも遂にやりたいことが見つかり、その時は本当に嬉しかった。一刻も早くそれをやりたくて、今度は今すぐ高校を辞めたい!って感じで病んだ(笑)震災と共にある高校時代は、とにかく何かに没頭したかったんだな。でも目の前のことに集中できていない自分がダメ人間だと感じていたし、それを周りにも悟られたくないし自分でも認めたくなくて、周りを下げたりすることで自分を保っていた。今思えば環境が合わなかっただけかもしれないけど、周りを下げる前に自分を上げろ、と当時の自分に言ってやりたい。大分暗黒期だけど、でもこの問題って今にも通じているから目を背けるわけにはいかない。


地元を離れた後の震災


何とか中退せずに高校生活をやり過ごし、大学入学と同時に実家を出た。やっと自分がやりたかったことができる。嬉しかった。大学で学べることが楽しくて、震災のことなんてどんどん過去のことになって、もはや自分の身に起きたことなのかも怪しいくらい自分事ではなくなっていった。

でも偶に地元から聞こえてくる声には、色々な問題が孕んでいると感じさせられた。原発事故による帰宅困難区域の方々はあらゆる地域へ避難を余儀無くされ、暮らしている。避難先で誹謗中傷を受けたりしたという話しも震災直後はよく報道されていたように思う。それに似たようなことが地元の中でも起きていたようだった。

避難者はモラルがなってないとか、スーパーのレジを横入りするとか、交通ルールが酷い、あれはきっと避難民に違いない‥‥とか、原発がある土地に住んでいるということをわかった上で恩恵を受けていたんでしょ?とかそういった声だ。これが「分断」というやつの始まりなのかと感じた。私はもう地元に住んでいないからその発言をする人達の真意を完全に理解することは難しい。実際にその様子を見てないし、肌で感じていない。だけど想像はできる。ただ先の発言を取ってみれば、どうしてその人が避難してきた人だと断定し切れるのか。「避難してきた」かどうかで判断するのは何か違くないか?という違和感があった。自分だって震災直後避難していたじゃない、同じことを避難先で誰かに言われたらどう感じていただろうと自問しないのかな‥‥。「避難してきた」か否かの括りで見るのではなく、単純にその個人を見た方が良いのではないか。そう感じつつ、本当にそういう出来事が小さなストレスとなって積み重なっているのだとしたら、それを偶々地元を離れた私に吐き出したかっただけかもしれない。直接誰かを攻撃しているわけではないのだから。
震災直後の一時避難の時もそうだったけれど、避難区域に指定されなかったギリギリの地域だからこその割り切れない葛藤が、そこにはあるのだと思う。



私には何かを断言できる材料など何も無かった。物理的にも時間的にも、もう当事者とは言えないところまで来てしまった。

もう地元の「中の人」ではなく「外の人」になってしまった。「外の人」から見た視点でしか語れない。その「外の人」から見るに、地元には震災後、分断が起きていると感じることがある。でもこうして振り返ってみると、私が「中の人」だった時にも自分自身が分断を引き起こしかねなかった、もしくは既に引き起こしていたのかもしれないことがわかった。

地元を離れてから福島県の出身だと話すと幸いにも、「震災大変だったね‥‥」と言葉をかけてもらえることも多い。でも私は震災を語れないなと感じていた。原発事故の実態も把握していないから明確な自分の意見も持てる状態に無い。幸い津波の被害に遭わなかったから家族も家も無事だった。津波被害に遭った方々の緊迫した状況と悲しみを味わっていない。頼れる親戚が居て一時的に避難することができた。タクシーの運転手さんがタクシーを出してくれた。美味しいごはんや安心して眠れる環境を提供してもらえた。避難区域や帰宅困難区域に指定されなかったから帰る実家がある。そう言ったら当事者の方たちはどう感じるだろうか。味わわなくて良い悲しみは味わわないに越したことはないと言うだろうか。それとも、もっと違うことを感じるのだろうか。

災害大国ではどこに住んでいようとも、この先何らかの災害は免れないのだろう。コロナもある。コロナ禍においても、私は例の正義感暴走を再度やらかしかけていて、あぁ、震災の時と同じこと繰り返してしまった‥‥と反省したことがあった。震災を見つめることで、自分を見つめ直すことが必要なのかもしれない。当事者だった時のことも、当事者だと思えなくなったことも、できることはその葛藤を見つめることくらいだ。間違いなく、自分の人生に震災は横たわっているのだから。

2022年初日の出
福島県の海




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