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何でもかんでも言葉にしなくていい

言葉の恐ろしさ

言葉の影響は思ったよりも大きいものです。多くの本には、良い言葉を自分に投げ返るように進めてあります。それは、良い言葉が自分を導いてくれるものだからというもの。

あるセミナーに参加させて頂いた時も、自分がリラックスしている時や、ワクワクしている時に、理想の自分を分かりやすく、繰り返し言葉にして下さい。これが、最初の課題でした。理論や仕組みはとても分かりやすく、凄く理解できたのですが、僕は、この課題でさっそく躓いてしまったのでした。

例え、今がなりたい自分になれないと思えていなくても、自分で言い続けることで、無意識の部分が書き換わるものだと言うのです。ですが、僕はそうはならなりませんでした。どんなに自分に言い聞かせても、そんなはずはないとか、自分は無理に決まっていると、いつの間にか、心の声で否定していたからです。

僕は、ずっとポジティブな言葉を自分にかけていたつもりで、自分を否定し続けていた訳なのです。だから、思うような気持ちを持つことは、出来ずに、理想の現実とはかけ離れたものになってしまったのでした。

僕は、このモヤモヤした思いを何とか言葉にしたかったのですが、言葉がなかなかみつかりませんでした。そして、ようやく探し出して、口にした言葉が、「やっぱり、自分はダメなんだ。」でした。そうしたら、これまでの努力が、無意味なことに思えてしまい、気力を失って無気力になってしまったのでした。抜け殻になってしまった状態から、自分を取り戻すのは、かなり時間と労力を要しました。

言葉の影響は、思ったよりも大きいものです。僕は、自分の表現できない言葉を安易に無理やり言葉にすることによって、自分自身の可能性を下げてしまっていると思うのです。

言葉には出来ないものがある

僕は、今、こうして毎日毎日、この「note」を書いています。自分の思いを言葉にしようと、あれやこれやと考えています。しかし、一体どこまで、自分の思いを言葉に出来ているのか、疑問に思うことがあります。事細かく記しているつもりでも、表現出来ていないのではないかと思うのです。

言い換えれば、自分の可能性や思いを委縮させていると思うのです。

例えば、「愛している」この言葉を使う時に、僕の頭に浮かぶ「愛」と、みんなそれぞれ思い浮かべる「愛」は決して同じではないはずです。一生う添い遂げる思いのことも「愛している」ですし、恋以上の想う気持ちもまた「愛している」です。また、子を思う気持ちこそ「愛」と呼ぶ人もいるでしょう。いやいや、「愛」なんてたわいもない戯言だと思う人だっていると思うのです。だから、一概に自分の中の細かな「愛」を口にする時に、ただ「愛している」だけでは、表現しきれていないと思うし、同時に「愛している」としか表現できないのも事実です。

でも、そこは、自分の感覚ですので、表現する必要はないと感じています。そこをあえて言語化する必要は、何処にもない気がするのです。

SNSのひとつであるTwitterは、140文字の制限の中で、自分の思いや気持ちを表現しています。でも、決して140文字では伝えられない部分や表現出来ないのではないかと感じました。ですので、僕は、Twitterで自分の気持ちや思いを投稿することを辞めたのです。

また、僕は絵画を見ることが好きです。東山魁夷さん絵が好きで、画集を持っていました。中でも「道」という作品が大好きでした。しかし、運がよく過去に、東山魁夷の特別展に行くことが出来たのでした。そして、実際にたくさんの作品を目にすることが出来たのです。

そこで感じたことは、画集で見ていたものとは、全然違ったものでした。そこで感じたものは、言葉で表すと、「凄い」とか「感動した」ですが、どれもがチープに感じてなりません。

それは、自分の中にある感情も同じではないでしょうか。あなたの感じている喜びは嬉しいは、言葉として表現出来ない時もあるのではないでしょうか。悲しみは悲しいで表現できるものでしょうか。そうしたものを安易に言葉にしてしまうことで、自分の本当の気持ちに寄り添えないのではないでしょうか。

ただ、これは、言語化することを否定するものではありません。

東山魁夷の画集が無ければ、そもそも僕は、東山魁夷の作品を知ることもなかったのですから。時には、自分の気持ちや思いを言葉にすることは、自分の気持ちを知るきっかけになり得るものなので、必要だと言えるのです。

言葉と同じくらい自分の感覚も大切にする

僕が伝えたいものは、言葉は確かに必要だけれども、それと同時に自分の感覚もまた、大事にしてあげる必要があるのではないかということ。

思い返せば、僕は酷いいじめに遭っていました。その時の自分の心の記憶はは、今となっては辛かったとしか言葉に出来ないのです。それが、モヤモヤして苦しかったのです。

当時の自分に何が原因でどんな理由でどんな人間だったから、いじめられたのかというのを、僕は自分を癒すつもりで、言葉を探しました。でも、そう簡単に当時の思いや心境を表現できる言葉は見つかりませんでした。

しかし、最終的に焦ったかどうか、投げ出してしまったかどうかは定かではないですが、出た答えは、当時の僕が、何も出来ないダメな人間だったから。僕は自分の思いを言語化することが出来なかったのです。

そうやって、無理やり言語化したことによって、その言葉の影響を多大に受けることになってしまいました。

ストレートに過去の自分はダメな人間だ。自分はダメな人間だった。自分はどうしようもない人間だった。自分の中には消えないダメな人間が、大きく存在して残っている。自分の中にはダメな部分が存在している。自分はダメな人間だ。言葉は、自分の中迷いやモヤモヤしている時に変化していきます。環境によっても変化します。そうやって、僕の中で言葉が紆余曲折を繰り返してしまい、自己否定の言葉として確立させてしまったのでした。

それが、ここ最近で、僕の気持ちを下げてしまったり、弱気にさせるものではないかと感じたのです。

時に、人は安易に自分の気持ちや思いを言葉にしてしまうものです。何処か、誰かに理解してほしいと思うのは、自然の欲求のように思えるからです。しかし、自分の気持ちを言葉にすることによって、気づきをえることもありうます。しかし、その思いや気持ちを言葉だけに頼ることも、また危険であると思うのです。時には心に秘めておくこともまた大切であるのではないかということでした。

「note」という書くということに触れている皆さんだから、共感してくれるのではないかと思っています。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー

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