探筆場

正しいことは書いていない。

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最近の記事

「好き」を比べる心理の背景

 自分の「好き」と他人の「好き」とを比べて、自分の「好き」が中途半端であることに落ち込む人がいる。  たとえば、自分はファッションが好きで流行にも歴史にも詳しいと思っていたところ、自分よりも遥かに詳しい人がたくさんいることを知って気落ちしてしまうようなケースだ。  インターネットの発達によって他人の技術や能力、行動などが広く可視化されるようになったことで、こうした出来事は増えているようだ。単に実力や才能に溢れた同年代や年下が世の中にはたくさんいる、という事実だけではなく、そ

    • 微笑ましさの笑いと嘲笑とは区別が必要

       笑わせるのは好きでも笑われるのは嫌い、という人は多いと思う。後者の笑いは「嘲笑」に分類される。侮りや嘲りを含む笑いだ。  これに対し、意図して生み出される前者の笑いは、面白さや親しみ、驚きなどを含むもので、お笑い芸人や落語家などによる笑いはこちらだろう。  一般に、笑いは好ましいものだと思われがちだが、実際には必ずしもそうではない。意図しない笑い、理由のわからない笑いは人を不快にさせることが多いからだ。  理由なく周りから指さされてクスクス笑われてまったく気分を害さない

      • 対立意見にすぐ同意するのはむしろ失礼

         世の中には対立上等の議論好きと和を重視する争い回避派がいて、両者はなかなかわかり合えないなと思うシーンも多い。  わたしはどちらかというと前者に与するが、後者との間でわかり合うのが難しいと思うことのひとつに、対立意見への態度がある。  争い回避派は、争いを避けるのが優先されるため、対立意見をもつ相手を説き伏せるよりは自分が譲って場を収めようとする傾向にある。  他方、議論好きは当然ながら嬉々として議論を始める。  わたしは喜んで議論を吹っかけて回るほど好戦的ではないが、

        • インバウンド価格に怒る感覚がピンと来ない

           景気の良い海外から日本へ旅行に訪れる人たちは、円安の影響もあって羽振りがよい。だから日本人から見て高いと感じるような値付けの商品でも気軽に買える。  そうした訪日旅行客をターゲットにした高めの設定価格が、いわゆる「インバウンド価格」である。  ホテルへの宿泊が1泊10万円、海鮮丼が1万円、といったニュースを見たことのある人も多いのではないか。  このインバウンド価格に対し、主に日本人の中から批判的な声も上がっているようだ。その理由が個人的にピンと来ていないので、こうして

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          大切なものをコロコロ変えよう

           世の中「変わらないもの」の大切さを説く人は多いし、とりわけ「大切なもの」はあまり変えないほうがよいと思われがちだ。  ある種の一途さが求められるというか、重要度が頻繁に変わるようなものはそもそも大切ではなかったのだ、と見なされてしまうようである。  ただ、個人的には大切なものをコロコロ変えてもいいんじゃないかと思っている。いや、むしろ場合によっては大切なものがしょっちゅう変わるくらいのほうがよいとすら思う。  なぜなら、大切なものが変わるというのは、活動と成長の証ともいえ

          大切なものをコロコロ変えよう

          ネット上で輝く才能には積み重ねた時間が見えない

           インターネットが発達し、SNSなどでのつながりが一般的になって以降の世代の人たちについて、ちょっと気の毒だなと思うことがある。  それは、ネットを通じて全国、ないし全世界の輝かしい才能が可視化されてしまっている点だ。  自分がこれから何かを積み重ねようと思っても、すでに到底及ばないように見える業績がいくらでも目に入ると、挑戦しようという意欲が削がれてしまう――そんな人は少なくないだろう。  もちろん、そういうことはネットが発達する以前からいくらでも起きていたのだろうし、

          ネット上で輝く才能には積み重ねた時間が見えない

          必要じゃないことこそ話したい

           合理性だけを考えるなら、必要ではないことはいちいち口に出さないほうがいいのだろう。  ここでいう「必要ではないこと」とは、①相手に情報を共有しなくても差し支えないこと、②相手からの反応や回答が不要なこと、③相手が別に求めているわけではないこと、である。  コミュニケーションにおいては、「ただ聞いてほしいだけ」と「回答を求めたいこと」がしばしば対置される。性別に絡めて、男性/女性はこういう傾向、などと論じられることもある(が、個人的に性別は関係ないと思っている)。  情報

          必要じゃないことこそ話したい

          思想のアップデートと不具合

           必ずしも妥当とは見なされていない表現のひとつに「思想・価値観のアップデート」というものがある。  問題点を改めるのはもちろん良いことだが、 ① アップデート後の思想・価値観が優れているとは限らない ② にもかかわらず、何か優れているかのようなニュアンスを含んでいる ③ 現状の思想・価値観をことさらに悪いものと見なそうとする ④ アップデート後の思想・価値観に問題がある場合の再アップデートが遅い  といった種々の問題点が別にあるため、そもそもこの言い回し自体が妥当性を欠く

          思想のアップデートと不具合

          できないことを、ちょっとやる。

           先日、家族が自家用車のタイヤ交換をしているのを手伝った。  手伝ったといっても大したことをしたわけではない。指示に従って車体の持ち上げとタイヤの付け外しの一部を行ってみただけだ。手順もわからなければ、器具の名称もわからない。自分ひとりで一からやってみろと言われても無理だろう。  それでも、やってみることには意義がある。  よく『できることをやっていこう』などといわれる。『得意分野で勝負しよう』なんていうのもその一種だろう。  実際、できることとできないことがあるなら、前

          できないことを、ちょっとやる。

          自分の心を守るための意識の持ち方

           自分の心を守るとは、もう少し具体的に言うと次の2つだ。 「自分の心が傷つかないように守る」 「自分の心を傷つけようとしてくる攻撃から守る」  では、心が傷つくのはどういうときだろうか。  シンプルに言うと「大切に思っているものが蔑ろにされたとき」である。  自分自身を大切に思っている人は自分を馬鹿にされたら傷つくし、家族を大切に思っている人は家族を侮辱されたら傷つく。趣味を大切にしている人は趣味を、ペットを大切にしている人はペットを、信念を大切にしている人は信念をくだ

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          争いの解決に話し合いはどこまで有効か

           人が集団で生活していたら対立や衝突は付き物なので、その解決手段を用意しておかねばならない。それは暴力かも知れないし、圧力かも知れない。何らかのルールを整備し、強制通用力をもたせることかも知れない。  そうした中のひとつに、話し合い(対話)が挙げられることがある。  学校などでも「話し合いは大事だ」と教わってきた人は多いのではないだろうか。  わたし自身、ハーバーマスの提唱するような対話的理性を重要なものと捉えているし、好きな考え方でもある。  ただ、ある思想やスタンス

          争いの解決に話し合いはどこまで有効か

          わかりやすさの落とし穴

           何かを「わかる」ことは気持ち良い。これを知的快楽という。  物事の理解は不安定から安定への変化であり、未来に対する視野の広がりであり、過去の出来事への納得である。  未解明だった定理にせよ、受験勉強の応用問題にせよ、急に冷たくなった友人の態度にせよ、その理由や理屈がわかればスッキリする。そして安心感や幸福感が生じる。  それゆえ、現代では特に「わかりやすいこと」が高く評価されがちだ。  わかりにくい説明に対する、それを聞いてわからない側に責任があるのではなく、あくまでも

          わかりやすさの落とし穴

          レジ待ち時間からの解放

           実店舗での買い物においてもっとも無駄な時間とはなんだろうか。  3個200円のレモンと1個110円のレモンのどちらを買おうかと悩む時間だろうか。特売品の洗剤を他の買い物客と奪い合う時間だろうか。それともサッカー台に備付けてあるビニール袋を開こうとしても指が滑ってなかなか開けず苦闘している時間だろうか。  どれでもない。  買い物で無駄な時間は、レジ待ちの時間である。なぜなら、お客自身の意志に基づく選択によって発生する時間ではないからだ。  大抵の場合、お客は買うものを決

          レジ待ち時間からの解放

          オフロハイリタスギルス3世

           旅行前に仕事を詰め込んだので、眠れなくてパッパラパーになりそうだ。  いや、仕事を入れまくった後に旅行を差し込んだといったほうが正しいだろうか。『テルマエ・ロマエ』を読むと温泉地へ行きたくなる。それにホテルで直前割のプランが安く出ていた。これはもう行くしかない。  もうじき出かけるというときに、明け方のテンションでYoutubeの懐メロを流しながらnoteを書いている。近頃ではYoutubeのような動画サイトでも公式が楽曲を提供してくれているため、権利侵害のアップロード曲

          オフロハイリタスギルス3世

          できない人は「理由」を蔑ろにすることが多い

           世の中は「できる人」と「できない人」に大別されて、残念ながら自分は後者寄りである、という人も多いだろう。  この両者はいったい何が違うのかと考えていて、ふと思ったのが行為に対する理由付けの有無だ。  できない人は、自分が行ったことや選択したことについて明確な理由をもたないか、もっていたとしてもそれを説明できない傾向が見られるのではないか。つまり、「理由」を蔑ろにしているのである。  できる・できないというのは、スキルや成果の問題である以上に、評価の問題だと思っている。あ

          できない人は「理由」を蔑ろにすることが多い

          言葉は刃物→言葉あそび=刃物あそび

           言葉はしばしば鋭い刃物に喩えられる。人を切り付けたり傷付けたりできてしまうからだ。言葉が刃物だとすれば、言葉あそびとは刃物あそびなのである。ふと、ナイフをペロぉ……と舐める殺人鬼のイメージが浮かぶ。あれはどうして舐めているんだろうか。  以前、送料無料という言葉について取り上げたnoteでも触れたが、「言葉あそびだから無意味だ」といった見解には疑いを差し挟む余地がある。  確かに、イジメという言葉を「暴行」「傷害」「強制性交」「窃盗の間接正犯」みたいに言い換えたとしても、

          言葉は刃物→言葉あそび=刃物あそび