AIによる作品は何故つまらないと言われがちなんだろうか

 AIによる音楽。AIによるイラスト。AIによる小説や記事。

 これらは「つまらない」と言われがちであるように思う。
 たとえばイラスト投稿サイトではAI作品に手厳しいコメントが並び、邪魔者扱いされる傾向にある。また、薄っぺらい記事は「AIが書いたような」と揶揄される。

 AIの学習先と著作権に絡む問題を除いたとしても、なおAI作品を快く思わない人は少なからずいるようだ。それを過渡期の問題やクオリティの問題として捉えるのも誤りではないにせよ、理由はそれだけかという疑問も湧く。

 一例として、クオリティが低いからAI作品は歓迎されないのだ、という理由を考えてみよう。これが本当なら、クオリティさえ上がればAI作品だろうが人による作品だろうが差し支えないことになる。

 もちろんそういう意見の人もいるだろうが、他方で「いいなと思ったけどAI作品だとわかったから興醒めした」というような感想も見かける。少なくともこのような感想の持ち主にとって、AI作品であることの問題は作品自体のクオリティの高低とは別にあると考えられよう。

 また、上でさらっと棚上げした学習や著作権の問題にしても、他者の作品を学習元にしていない、どのような解釈からも権利侵害にはならないAI作品でも賛否が生じる様子を見ると、やはり無断学習云々に関しての引っ掛かりは必ずしも批判の本質部分ではないように思える。

 なんと言うか、AI作品がAI作品であるがゆえに、それを見る人間の熱気や感動を失わせる部分がどこかにあるような気がするのだ。


 とりわけ創作の分野では『人が興味をいだくのは結局のところ人である』といわれることがある。イラストでは人物を入れ、小説では人を描く。そうではない作品もあるにせよ、最終的に人は人を通して作品を認識するのだということのようだ。

 この意見に100%同意するわけではないが、たとえば研究分野などでも人から離れるほど理解者が減るといった傾向はあるように思われる。


 話を戻すと、AI作品がつまらないと言われるのだとすれば、それは思想がないからではないか。思想というのはなにも政治的主張だとか濃い目の偏見だとかではなく、作者が何を伝えたくて創作したのかということだ。人が創るからこそ込められるものである。

 その作品によって引っ掛かりや疑問が生まれたとしても、そこに答えは存在しない。「敢えてその表現にした」「熟慮の上で選択した」といったことがAIにはあり得ないからだ。自然の造形と変わらないのである。

 だから逆に言うと、自然界の造形をうつくしいと思うのと同じような心理作用によってAI作品を楽しむことは可能なのではないか。(プロンプトの巧拙はあるにせよ)人間の作為が基本的に入りこまない表現であっても、偶然にそうなったこと自体を妙味として味わうことはできる。

 AI作品であることを気にしない人と気にする人との違いには、そうした鑑賞の仕方の違いも影響しているように思う。


 人の心を打つのは人であるという考え方は、ともすれば古いと見なされるだろうし、生活のあらゆる場面にテクノロジーが入り込んでいる現代には必ずしも即していない。

 ただ「人であること」「人によってなされること」にこだわる人、執着を見せる人はたくさんいて、その理由に思いを巡らせてみるのはけっこう面白い。



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