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生きづらい・生きるのが下手ってどういうことなのだ?
リアルのやり取りではあまり耳にしないものの、ネット上では時おり見かけるのが「生きづらさ/生きづらい」とか「生きるのが下手」とかのフレーズだ。社会に対するテーマとして論じられることもあるし、SNSなどの自己紹介欄に綴られていることもある。
あまり気に留めなければさらっと流してしまえるようなフレーズだが、立ち止まってみると「おや?」と思うような言葉でもある。これらはどういうことなんだろうか。
一般論という名のまぼろしからの脱却
悩み事や困り事を相談するとき、誰を相談相手に選ぶだろうか?
多くの人にとって優先候補となるのは「親しい人」か「専門家」ではないかと思う。見知らぬ人、行きずりの人を相談相手の第一候補に挙げる人は、もちろんゼロではないにせよ多数派ではないはずだ。
なぜ親しい人や専門家が相談相手として選ばれるかというと、一般論以外の返答が期待できるからである。逆に言うと、自分のことをよく知らない相手や非専門家に
別に変なこと書いても間違ったこと書いてもいいと思うよ。
noteでもブログでも何かを書いて、たとえばコメントでツッコミや訂正が入れられたとする。こんなとき、別に恐縮する必要もなければ委縮する必要もない。もちろん、書くのをやめる必要もない。
むしろいいことだ、異論が寄せられるのは。
確かに不同意の意見を見たその瞬間は恥ずかしくなったりムッとしたりするかも知れない。それに、その感情が悪いものだとも思わない。
だが、それはそれとして異論は自分の糧
主張に対して理屈で批判せず人格攻撃を始めることについて
わたしはこれを悪手だと考えている。
が、どうして悪手だといえるのか。
単純に「人格攻撃は良くないことでしょう」というのではなく、理屈を整理しておくことにする。
まず、シンプルな理屈を立てよう。
『ある手段が悪いとすれば、その手段が目的を達成するために役立たないからである』
手段とは特定の目的を達成するためのものだ。
したがって、目的の達成につながらない手段は悪いもので、無意味なも
やりたいことの前段階に、やらないといけないこと(面倒)がある
こういうことがわりとあって、ついつい何かを始めるのに億劫になりがちだ。たとえば、街でやっている美術展を観てきたいけれど、服選びやメイクなどの準備が面倒、みたいな感じ。あるいは、副業で稼ぎを増やすこと自体はいいけれど、税金面などの各種手続きが面倒、みたいな感じ。
やりたいことだけやれたらどれだけ楽だろうか。
ただ、「やりたいこと」と「やらないといけないこと(あまりやりたくはない)」とは明確
「手を3回叩いてはならない」と言われたので、4回叩く
貴方は休暇を利用して、ある長閑な地方へと旅行にやってきた。木々の緑が深く、茸や川魚も美味しい場所だ。
初日の昼過ぎ、村落を散歩していた貴方は、皺だらけの老婆に出会い、こんなことを言われる。
『――村はずれの祠の前で、決して手を3回叩いてはならぬ。もしそうしてしまったならば、恐ろしい呪いが降りかかるであろう』
その後、なんやかんやあって次の日の黄昏時、貴方はたまたま村はずれまで足を運び、祠
お洒落な文章を書く人がいる。
「お洒落な文章/洒落た文章」といった表現を、多くの人は特に違和感なく受け入れると思う。言い回しとして珍しいものではないし、実際にそうした言い方で表されるような文章を読んだことがある・度々読んでいるという人もいるだろう。
だが、文章がお洒落であるとはいったいどういうことなんだろうか。
まず、お洒落というからには「うつくしい=美文」とは異なるものだ。これに加えて「正しい=端正な文」とも異なる
弱者の自助努力はどの程度まで要求されるべきなのか、という疑問
弱者という呼称が溢れている現代において、弱者とは何かを画一的に判定し、定義付けることは難しい。弱者を遠ざけたい人や弱者の立場から脱却したい人、逆に弱者になりたい、弱者で在り続けたい人など、それぞれの思惑も絡み合うのでなおさらだ。
ただ、弱者とは必ずしもその人の置かれた状態や境遇に由来するものではないのだろうな、とは思う。たとえば諸外国では珍しくないが、起業して失敗し、ほぼ無一文になった人がい
売れているものは何故つまらないか
売れているもの、流行りのもの、人気があるもの……。
それらは、大抵つまらない。
――といった意見や感想は昔からある。
応援していたインディーズバンドがメジャーデビューしたら興味が薄れてしまった。大ヒットした映画やドラマは観る気が失せる。みんながこぞって食べているブームのメニューなんて絶対に選ばない。
こんな感じのやつだ。
そして、こうした感覚への批判もまた根強くある。
曰く、その
「面白い人」で在り続けようとする様は時に痛々しく見えるから
嗤われるのではなく、笑わせるのはなかなか大変だ。
とはいえ、素人でもまぐれ当たりで他人を笑わせることはできる。ちょっとセンスのある人なら、何度も笑わせたり、やや多くの人を笑わせたりすることもできるかも知れない。
だが、笑わせ続けることはプロでも至難だ。なぜなら、人は同じネタを見せられ続けると飽きる生き物だからである。もちろん、その芸人ならではの鉄板ネタみたいなものはあって、「来るか? 来る
素人の思い付きと言い方の問題
その分野の素人が思い付きで発する「◯◯をすればいいのに」「どうして◯◯をしないのか」みたいな意見は、大抵すでにプロが検討し、捨て去ったものである(ので、いちいち言わなくていいよ)、というような話題を見かけた。
もちろん、素人側の自戒として「もしかしたらとっくに検討されているアイディアなのかも」という意識をもっておくのは大事だ。
ただ、「素人がいちいち出しゃばるなよ、鬱陶しい」といった方向性
麻薬はとても高価なのだというが……?
麻薬の密輸犯などが捕まると、たとえば「末端価格5000万円相当」のような表現で報道がなされる。ここで出される価格は、単純に分量の多さも示しているのだろうが、それ以外に何を読み取ればいいのかと考えると、どこか奇妙な心持ちがしてくる。
一般に、何か物やサービスの価格が示されて、それが高額だった場合、その物やサービスは「良いもの」だとか「高品質」だとかのイメージを伴うことになる。「3000万円の外
「話しかけてくる」行為の問題と加害性
一人で静かに過ごしたいのに、話しかけてくる人がいる。
集中して何かを行いたいのに、話しかけてくる人がいる。
こういうときの「話しかけ」は、迷惑行為と言わざるを得ない。
つまり、嫌がらせである。
本人に嫌がらせをしている自覚がないだけに、却って深刻かも知れない。
話しかけてこられてその相手をするという流れは、時と場合と人によって好き嫌いが分かれるものだ。
そもそもひとりでいるときに
短気な人が運転するのは怖い
怒ったり苛立ったりしたことのある人ならわかると思うが、そうした気持ちの時には自分でも驚くほど注意力散漫になるものだ。イライラしながら歩き回ったら足の指をタンスにぶつけてブチ切れる、みたいな具合である。
「怒り狂う」とはよく言ったもので、怒りに支配されるとき、その人間は一時的に狂気に陥っているのだ。
他方、現代社会でもっとも冷静さと注意力が求められる作業のひとつが、乗り物の運転である。これは
わかりやすさの疑い方
わかりやすいのはいいことだ。少なくとも、わかりにくいよりはわかりやすいほうがいい。これは大前提である。
ところが、わかりやすいのがいいことだというのがあまりに当たり前なので、いろいろな例外論が噴出してきた。たとえば以下のような具合だ。
これらは総じて、わかりやすい話には警戒せよ、という。難しい話をわかりやすくしようとしても限度があるのだから、表面的なわかりやすさに誤魔化されてはならない、