世界の寂しい人たち

 国境を超えて幅広く諸外国の人々と交流を深める人たちは、その大半が「国境を超えて幅広く諸外国の人々と交流を深めるような人たち」である。

 同じことを繰り返して何が言いたいのかと思われるかも知れないが、つまりこういうことである。内に籠もり、寂しさや虚しさをかかえ、他者と関わりをもたないように生きている人たちは、当然ほかの国の同じような人たちとも関わることがないのだ、と。

 寂しさ、虚しさ、暗さ、これら総体としての消極性――は、はたして国によって異なるのか、それとも共通しているのか。当事者同士が関わる機会がないのでよくわからないのが実情だと思う。

 これに対し、たとえば明るく元気で好奇心旺盛、積極的――こうした気質を有する人々はいくらでも外国へ行って現地の人々と交流できるので、お互いが同様のタイプに対する知見を得られる。


 世界とか他国とかいっても、そこに住む人々のイメージは「自分たちが直接会ってやり取りできる範囲の相手」から生み出されたものに過ぎない。南の島で明るく笑顔の島民たちばかりに会ったら「南国の人は陽気なのだ」と思うかも知れないが、引きこもりかつ陰鬱な人がいても単に顔を合わせる機会がないだけの可能性もある。一面だけを見ていたら結局わからない。

 性格も気質も個人個人でさまざまなのだとしたら、国やら民族やらといった単位で括ってどうこう言うことにあまり意味はなさそうだなと思う。


 それはそれとして、どうせ他国の人とやり取りするなら、バリバリ社交的な相手よりは、大人しく消極的なくらいな相手のほうに興味がある。そのほうが話というか、ペースが合うような気がするからだ。

 外国の人と話や性格やノリが合うかどうか、といった話で考えてみてほしいのが、自分の国の「国際交流に積極的な社交的な人」とノリが合うかどうかである。もしそこまで仲良くなるほどではなかったのなら「外国の人だからノリが合わない」のではなく、単に「国際交流に積極的な社交的なタイプの人」と合わないだけの可能性もある。国は関係なく。

 育ってきた国が違うのは大きな違いに思えるため、合う合わないも国の違いに影響されていると解釈しがちになるのはおかしいことではない。ただ、結局は人と人との相性なのだから、所属以上に重要なことはいろいろとあるのだと思う。そのうちのいくつかは、表には出てきにくいもので。

 そういう意味では、少し寂しい人がいい。



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