コミュニティの中のイヤなやつ
樽いっぱいのワインに泥水を一滴入れたら、それは樽いっぱいの泥水になる、といわれる。このワインと泥水の関係は、人間のコミュニティにも当てはまるんじゃないかと思う。
好ましい人たちの集まるコミュニティに、ひとりだけでもこちらへ敵意を向けてくる人間が交ざっていたら、そのコミュニティ全体が居心地の良くない場所になってしまうのだ。
こういうときに、仲の良い相手がたくさんいればひとりやふたり仲の悪い者がいたとしても大丈夫じゃないか、みたいなことをいう人もいるが、それはちょっと違う。
自分にとってイヤなやつというのは、心の毒だ。他方、仲の良い相手というのは、心の栄養やカンフル剤の類である。
うっかり毒を服用しちゃったから栄養をたっぷり摂って快復しようね、とはいわない。毒に有効なのは解毒剤であって、栄養ではないからだ。
栄養が役立つのは、あくまでも風邪などの体調不良から快復するときであり、毒の治癒ではない。人間関係のプラスで人間関係のマイナスを打ち消せると思っている人は、栄養を摂ることで解毒できるというような勘違いをしている。薬と栄養は共に大切だが、効く対象は異なるのだ。
コミュニティの規模が大きくなり、人数が増えるほど、合わない相手が紛れ込むリスクは高まる。それは趣味のサークルから仕事で通う職場まで、あらゆる集団に当てはまることだ。
それゆえ、もっとも心安らげるのは気心の知れた少人数の集まりである。最少は1人。次が2人。限界は5~6人くらいだろうか。
人の自由を失わせる要因は、昔から金と健康と人間関係と相場が決まっている。したがって、自分を縛る人間関係からいかに解放された状態でいるかというのは、自由に生きるための課題でもある。
ベストなのはイヤなやつが一切いないコミュニティに所属することだ。それが無理であれば、ベターなのはイヤなやつが紛れ込んだ時点でそのコミュニティから即座に離れられる状態を確保しておくことだろう。
しかし、これもまた難しい。クラスメイトがイヤだからといってもすぐに転校はできないし、上司や同僚がイヤだからとて即日に転職できるわけでもない。結局、折り合いを付けていくしかないのだ。
とりわけ義務教育としての学校は、授業の内容以上に集団生活を学ぶ場だといわれる。だが、その「集団生活」とは、教師の言いつけに従うことでもなければ、友達と生活することでもない。
教師の指示に従うのは、別に集団生活を送らなくとも、家庭で保護者の言うことに従う形で身につけられるし、仲の良い友達と共に時間を過ごすのは特段のハードルがあることではないからだ。
つまり、集団生活を学ぶとは、イヤなやつ・合わないやつとどう折り合いをつけて生活するかということなのだと思う。とすれば、本格的ないじめに至らない程度の些細な確執は、むしろ教育側で織り込み済みの要素なのかも知れない。
だとしても、対処の仕方はもう少し体系立てて教えてもいいだろう。仲裁の心得のない人物は、義務教育の教師としては不向きであるように思える。
イヤなやつが存在しないか、たとえ存在していても自分とは一切関わりのない離れたところで過ごしていてほしい、と思う人は少なくないだろう。
そして、それは残念ながら不可能に近い。
複数のコミュニティに所属するようにして、どこかひとつに依存しないようにすることがリスクヘッジになるのかなと思う。
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