ものを集める楽しみ方は若さの表れ

 もの(アイテム)には、使用する以外に、集めるという楽しみ方がある。
 いわゆる蒐集、コレクション的な楽しみ方だ。

 若さゆえの楽しみ方があるとすれば、集めるという楽しみ方はそのひとつなのではないかと思う。なお、ここでいう若さとは、実年齢がどうというのではなく精神的なものである。

 なぜ集める楽しみ方に若さを見出すのかというと、そこには未来への見切りや諦念が存しないからだ。


 ある程度年齢を重ねると、おそらく多くの人は”身じまい”を意識するようになると思われる。つまり、自分が死んだらどうするかを考えるようになるわけだ。
 財産を整理したり、遺言書をしたためたり、エンディングノートを書いたり、葬儀の段取りを考えたり、お世話になった方々への連絡先をまとめておいたり。独身で身寄りもなければ家族のことは考えなくともよいが、家族がいれば相続のことも考える必要がある。

 そして、これが肝心のことだが、いかなるものであっても、墓の下までは持って行くことができない。人が亡くなると、どのような蒐集物であれ相続財産になり、場合によってはゴミとして処分される。
 そこで、そうなる前にコレクションを同好の士へ譲り渡すなどして処分する者も多い。

 ことここに至って人は悟るのだ。「所有」という概念は一種の幻想に過ぎない、と。

 どれほど思い入れのあるコレクションだろうと、最終的には手放さねばならないのだとすれば、実質的には期限付きでのレンタルと大差ない。まさしく「死ぬまで借りている」だけなのである。形あるものについては、本当の意味で「自分のもの」になるものなどないのだ。

 このことを実感するようになると、「ただ持っているだけ」という楽しみ方は、残念ながらかなり色褪せてしまうことも多い。
 若くて健康だと自分の死をあまり身近に感じる機会は多くない人が大半なので、ものを集めたり増やしたりすることを純粋に楽しめる。だが、若さが失われてくると「これほど集めたところでどうするのか。処分のことも考えなければならないし……」となってしまうのだ。

 ゆえに、使用する目的でないアイテムを集め続け、それらを愛でることに楽しみを見い出せている人は、心が若いのだと思う。考えてみると、人生に悲観して死にたがっているコレクターというのは、あまり想像できない。
 逆に、自分のコレクションを勝手に破棄されて生きる意欲を失う人の話はネット上でも時どき見聞きする。


 もちろん、何かを集めることに元から楽しみを感じない人が老いているというわけではない。逆は真ではないからだ。
 わたし自身はもうあまりものは増やさないようにしているが、精力的にものを集め、増やしている人は、それはそれで楽しそうなのでいいと思う。



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