安楽死への滑り止めと「生きる義務」

 わたしたちはいつ、どこで、どのように生まれるかを選べない。
 ならばせめて死ぬこと――”苦痛なく安らかに死ぬこと”は選べてしかるべきではないのか。

 この根源的なひとつの問いを法制度の俎上に載せたのが、安楽死制度だ。

 安楽死、なかでも積極的安楽死を合法化しているとされる主要な国は、2024年現在、以下の通りである。

・コロンビア:97年~
・オランダ:02年~
・ベルギー:02年~
・ルクセンブルク:09年~
・カナダ:16年~
・スペイン:21年~
・ニュージーランド:21年~
・オーストラリア(一部の州)

安楽死が認められている国のいま 合法化から5年・カナダの現状を専門家が解説|shiRUto


 安楽死は認められるべきか。
 ここでいう「認められる」とは、単なる個人の選択にとどまらず、それが公にも承認されるか否かということである。
 つまり、権利と義務の話だ。

 安楽死をする(させてもらう)権利はあるか、裏返せば「生きる義務」はあるかという問いである。

 通常、生きるのは権利であるとされてきた。なぜなら、生きるために必要なもの――衣食住を始めとするさまざまな物資・サービス――は、権利があることで享受できるものだからだ。
 金銭で債権や物権として購入する場合もあるし、生存権に基づいて提供される場合もある。いずれにせよ、それらは権利であって、義務として物資やサービスを強制的に押し付けられるわけではない。

 だからこそ生きることは良いこと、誰もが望むことであるとされていて、それが義務かどうかなどという発想は、少なくとも公には取り上げてこられなかったのである。


 生死にまつわる権利と義務は非常にセンシティブなものであり、最大にして最後の自己決定であるため、国単位にとどまらず、全世界的にさまざまな分野で議論が行われている。

 個人レベルで、いかなることも本来的には選択できないということはないと考えるなら、死ぬのは自由である。が、人間は社会的動物であるため、ここにひとつの留保が入る。それは「他人に迷惑をかけない限り」というものだ。

 音楽を聴くのは自由だが、騒音を出して他人に迷惑をかけてはならない。
 サンドバッグを殴るのは自由だが、他人を殴って怪我させてはならない。
 金銭を稼ぐのは自由だが、詐欺や脅迫で他人から巻き上げてはならない。

 このように、何かを行うのはいいが、その行動で他人に迷惑がかかるなら社会によって制限がかかるよ、ということである。これを講学上、「公共の福祉による制約」などと呼ぶ。

 では、死ぬことは「他人に迷惑がかかること」なのか、そうでないのか。
 たとえば、個人レベルで見ると遺族や職場の人間に負担が生じる、ということはあるだろう。遺産の問題や人員補充の問題、葬儀への参加といった事柄が発生するし、それらには時間・労力・金銭がかかるからだ。
 もちろん、それは自然死でも同様だが、安楽死は意図的に引き起こされるものだという点で少々異なるとの見方もできる。

 ただ、国が個人の自由を制限しようとする場合、ちょっとした迷惑を根拠とするのでは足りず、もっと社会全体に悪影響を及ぼしかねないような問題があるといわねばならない。それだけ個人の自由は抑圧されやすく、手厚い保障がなされなければならないものだからだ。

 さて、とすると「もっと社会全体に悪影響を及ぼしかねないような問題」はあるのか、ないのか。これによって安楽死の制度化が認められるかそうでないのかが決まるわけだ。


 一般的に、もっとも大きな問題として言われがちなのは「安楽死の合法化や制度化によって、本心では死を望まない人が死を強制される結果につながりかねない」というものだろう。
 要は、本当に自己決定として安楽死を選ぶならともかく、間接的に死を選ばされることになるのであれば問題だ、と。

 これについて「そんなことはない」「考えすぎだ」といった反論もなされたようだ。ただ、他人の懸念に対して「考えすぎだ」と言う人間は、逆に本人の考えが不足しているだけの場合も多く、あまり考えていない人間からすれば他人が考えすぎているように見えるというだけなのではないか。

 実際、安楽死を制度化したカナダでは、「生活保護」より「安楽死」の申請のほうが簡単という状況も生じ、困窮者・障碍者が死を選ぶケースが問題視されているという。
 他者の決定に対して「それは本心からの決定か?」と問うのは時に不躾なことではあるが、カナダで死を選んだ彼ら彼女らの大半が一切の間接的な強制もなく、ポジティブにその選択をしたと信じるのは、あまりに無邪気が過ぎると思う。


 が、他方で、困窮した状況に置かれ続ける当事者から「『負け組』には、この成功の見込みが途絶えたゲームから一抜けする権利すら与えられないのか」と詰め寄られたときに、社会を運営してきた「成功者」たちはどう答えるのか、というのも難しい問題だ。

 別の機会にも何度か述べているが、地球上の資源が限られている以上、成功への取り組みはパイの奪い合いになる。資本家は労働者を働かせて上前を撥ねているのであり、豊かではない者がたくさんいるからこそ豊かでいられるという特質を有する。

 つまり、貧しさのあまり安楽死を選びたくなるような層も、間接的には成功者や資本家を下支えしているわけで、そうした人々に一抜けされて本当に困るのは、むしろ現在の成功者たちだといえる。「民無き王」は成立しないからだ。

 とすると安楽死の否定は、はたして誰目線なのかという話になる。死を強いられる困窮者本人なのか、「資源」としての困窮者が失われると困る資本家なのか。
 おそらくこれは0か100かではなく、さまざまな利害関係も絡んでいるのだと思うが。


 安楽死を公に認めることによるその他の悪影響としては、死への意識、抵抗感が薄れるというものも挙げられる。死という不可逆的な状態に対して、ダメだったら安楽死を選べばいいや、と気軽に考える人間が増えるというわけだ。

 これはこれで実証が難しい。まったく同じ人間を同じ環境で育てて、安楽死が合法化されているかどうかという一点だけを変えたら死への意識が変わるか、といった対照実験はできないからである(もっとも、これを言い出すと社会制度の設計において大多数の事柄は対照実験などできないが)。

 ただ、何らかの形で死への意識は変わりそうだな、とは思う。ひとりひとりの人間が、というよりも社会全体として。


 個人的に、安楽死制度の現実化はひとつのパラダイムシフトを生み出したのではないかと思っている。「生きることの義務化」だ。

 それ以前にも、生きることは苦行であり義務めいている、といった発想は存在した。だが、楽に死ねるという選択肢が登場した世の中における「現実が辛く、楽に死を選べるのにどうして生き続けなければならないのか?」という問いは、それまでの「生きづらさへの愚痴」とは性質が異なる。

 「(実質的にできないから)やらない」のと、「(やろうと思えばやれるのに敢えて)やらない」のとでは大きく違うのだ。

 死のうと思えば楽に死ねて、しかも死にたいと望んでいるのになぜ死んではならないのか。それは「生きる義務」があるからである、というロジックに辿り着く。つまり、安楽死の存在は否が応でも生きることの意味や意義を問い直すことにつながるのだ。無論、そんな義務などなく、死んでもOKだというスタンスも十分あり得るが。


 差し当たり、誰がどれだけ死のうと構わない、というのでなければ、安楽死の制度化にあたっては何らかの歯止め、安楽死へ向かう精神の滑り止めが必要となる。
 とりわけ思春期あたりには心身が不安定になるのが一般的であり、そうした時期に気の迷いで死が選ばれるようなことになっては問題だろう。
 また、成熟した大人でも一時的な精神の落ち込みはあるもので、発作的に死にたくなった場合に死ねてしまっていいのか、という問題もある。

 わたし個人としては、「死にたければすぐに死ねるから世の中は良くなった」という発想よりは「死にたくなるような要因が減ったから世の中は良くなった」という方向性が望ましい。「楽に死ねる」のがベストな解決方法であるシーンは、あまり多くはないように思うからだ。

 しばしば選ばれるフレーズとして「生きる理由」というものがあるが、それでは立ち行かない人も世の中にはたくさんいて、そういう人には「生きる義務」くらいのほうが効果を発揮する。

 現状、そうした義務付けをいかに設定するかは非常に困難だ。ただ、まずは生きることを肯定しておきたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?