AI作品の解釈と作者思想の不在に関して

 少し前、AI作品が「つまらない」と言われがちな傾向と、それについて考えられる理由をnoteに記した。簡潔にまとめると、以下の2点になる。

● AI作品が「つまらない」と言われがちだとすれば、それは思想が込められていないからではないか
● 思想とは、作者が何を伝えたくて創作したのかということである

 先日このnoteにコメントが寄せられ、あれこれ考えてみたのだが、その方へ何かを伝えたいとか相手と問答したいとかいうのとは異なるので、別立てのnote記事にすることにした。


 寄せてくださったコメントの主旨は、以下の3点に切り分けられる。

① 人の思想はどうでもいい。全ては自分の感情・考察・受け取り方だから。
② 作品と作者は分離している。
③ 意味の考察に作者の作り込みは不要。(考察は)100%個々人の解釈。

 この方が作品に対しこのような姿勢で向き合っておられること自体には、何か申し上げるべき点はない。良し悪しの話でも正誤の話でもないからだ。

 なお、わたし自身は作者の意図や工夫を込みで作品を鑑賞するので、思想がどうでもいいとか、考察に作者が作り込んでいる必要はないとか、そうした点には同意しない。
 ただ、「作者の思想であるかのように見えるもの」が結局は自分の個人的解釈に過ぎず、一種の独り相撲である可能性は往々にしてある、との主張であれば、その点には同意する。

 それはそれとして、主張に対する同意・不同意、あるいは賛否とは別のところで、このコメントをきっかけに考えたことがいくつかあり、それを整理しておきたい。


 まず疑問として湧いたのは「仮に作者の思想や作り込みを一切考慮に入れないのだとすると、作品の何をどのように『考察』するのだろうか」ということだった。作者の意図などを抜きにすると、考察の取っ掛かりがないのでは? という疑問だ。

 実際、考察と呼ばれる営為(学術的・理論的なものから趣味の読解までさまざまにあるが)の多くは、作者との関連で作品を語っている。小説でも映画でも楽曲でも絵画でも、論じようとする上で作者が取り沙汰されることは珍しくない。
 ネットミームとして持ち出されがちな「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」というセリフ(ネタ元は『月刊少女野崎くん』6巻)も、作者が意図しているかいないかが一般的に重要だと思われているからこそ有効なツッコミとなるわけだ。

 逆に、作者が存在しないものについて「考察」するのは難しい気もする。たとえば自然の岩があったとして、「あの岩はどうしてあのような形で在るのか」みたいなことはあまり考えないだろう。しかし、これが彫刻家や藝術家の作品として設置されている岩なら、「あの岩は何故、どうして」という考察がしやすくなる。人為的なものなので、形状や色合い、設置場所などに対する「作者がそうした意図」を考える余地が生まれるからだ。
 多くの場合、日本語としては、こういう取り組みを「考察」や「解釈」と呼んでいると思う。

 つまり、作者の思想を抜きにするなら、自然の岩に「何故、どうして」を問うようなものであり、考察が成立しないのではないか、というのが疑問として生じたわけである。


 これに対しわたしが考えたのは、科学論的アプローチと現実論的アプローチ(名称は適当)だ。

 第1に、たとえ「作者」が存在しない(と思われる)自然界の事象であっても、科学的にどうしてそうなっているのかを考えることはできる。先述した岩の形も、風とか気候とか物理法則とか、そうした観点から分析することは可能であり、これは「考察」と呼んでも差し支えない気がする。これが科学論的アプローチだ。

 第2に、作品が人為的に創作されたものではなく、それそのものとして思考の対象とすることも可能だ。たとえば小説で、Aという人物が「○○」というセリフを述べたとして、作者の存在を意識するなら「作者は・・・どうしてこのときAにこのセリフを言わせた・・・・のだろうか」となるが、作者を考えに入れないのなら、「Aは・・どうしてこのときにこう言った・・・のだろうか」という考え方になる。創作物に対して、あたかも現実の人間の行動を考えるときのように向き合うので、現実論的アプローチと称するわけだ。

 少なくともこのいずれかの方法を採るなら、作者やその思想を持ち出さなくても考察はできるかも知れないと思った。


 寄せられたコメントについて次に思ったのは、「作品と作者の分離」ということに関してだ。こちらは疑問の類ではない。

 一般的に、作者と作品を切り離して捉える、と言う場合、これは作者の人格が高潔であろうが下劣であろうが作品の良し悪しや巧拙には影響を及ぼさないものとして見る、というような趣旨だと思う。
 あるいは、作者を個人的に好きだろうが嫌いだろうが、作品の好き嫌いや作品が面白いか否かとは別である、といった趣旨だろう。
 そこでは、作者の存在自体は承認されている。

 ところが、AI作品の場合、そもそも作者が存在しない。ここでいう作者とは、AIに命じて作品を出力させた主体の意味ではなく、隅々までその作品の内容を自らの意思を以ってデザインした人、という意味だ。この意味での作者はいない。

 つまり、作者と作品を切り離すことの意味合いが、人間によって創られた作品とAI作品とで、異なってくる可能性があるということだ。
 考えてみれば、AI作品が嫌いという人でも、必ずしもAIを嫌っているわけではない。また、プロンプトを入力した人を嫌っているわけでもない。すなわち「作者が嫌いだから作品も嫌い」みたいな関係性がないのである。これもまたAI作品に作者が不在であることの裏付けとできるかも知れない。

 今まで散々言われてきた「作者と作品の切り分け」論が、AI作品に当てはめようとすると別の意味になる。これが新鮮で面白く感じられた。


 わたし自身はAI作品に肯定的でも否定的でもない(著作権などの話は別途考えるべきものだと思っているが)。
 ただ、現状では人間の手になる作品とAI作品とは性質を異にするものだという感覚はある。

 そうしたAIへの賛否とは別の話として、作品の作者とは何者であるのかを考えてみるのは面白いと思った。



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