それもこれも本人の性格の問題だから

 高齢の祖父母、もしくは両親などが認知症によって性格を変じ、「昔はああじゃなかったんだけどねぇ……」みたいに言われるケースが世の中にはわりとある。
 あるいはメンタル関連で投薬を受け、気分や性格の変化を自分なりに感じたという体験談も珍しくない。

 こういった話を見聞きするにつけ、「性格の問題」とはいったいどのようなものなんだろうか、と考えてしまう。


 なんとなくの感覚として、世間には性格が不変であるという考えと、可変であるという考えが存在しているように思える。前者は「こういう性格だからどうしようもない(≒ 性格由来のものは変えられない)」のような言い方をするし、後者は「人前では性格を切り替えていく(≒ TPOに合わせて性格を意識的に変える)」のような言い方をする。

 両者のあいだには地味に深い溝があるため、話が合わないことも少なくないようだ。性格が変えられないと思う人は、自分なりに変えようと努めてみて上手くいかなかった経験があるのかも知れない。また、性格を変えられると思っている人でも、無意識的にストレスを溜め込んでいて、やっぱり無理があったと考えを改めることもあるようだ。
 他方、意識的に元々の自分と異なる振る舞いをしてみたらしっくりきて、他人から見たらすっかり性格が変わってしまっているが、本人としては快適だという場合もあると聞く。

 このように、性格の変化にまつわる話は単純ではない。「単純な性格」はあり得ても、性格が単純だとはいえないのである。


 性格を変えることへの本人の意識とは無関係に、たとえば災害などの臨時的・突発的な環境変化によって普段とはまったく異なる性格の人物として行動し始める者もいる。これは「環境が人を変えた」事例といえるかも知れない。
 だが、そうだとすると、生まれながらの家庭環境が人を変えていることもあると想定するのが自然なはずだ。そう見るなら、なおさら性格の問題とはつまりどういうことなのかという疑問が強まる。

 性格が良い・悪いという話にしても、本人に帰責せらるべき事柄なのかと疑われるだろう。なんとなく、性格が良いのは本人の徳、性格が悪いのは本人の責任、それによる良い出来事も悪い出来事も自業自得だ、と思われがちだが、そこにどれだけの妥当性があるかをじっくり検討する機会は少ない。性格が良い人を好ましく思うのも、性格が悪い人を疎ましく思うのも、どちらも「感情」の話だからだ。感情的に自然だと思えることに対し、人はあまり考えようとしない傾向がある。


 人の振る舞いやそれによる(不)利益に対して「性格の問題」と捉えるとき、そもそも性格を不変と考えるのか可変と考えるのか、また性格に由来する事象をどこまで当人の責任と考えるのかは、整理しておいたほうがいい気がする。

 思いを巡らせるほどよくわからなくなっていくもののひとつ、それが性格の問題というやつだ。



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