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学級運営の2つのタイプ

3学期に荒れてくる学級が多い。
知り合いの学校は残念ながら、学校中のクラスが3学期になって荒れ始めているそうだから気の毒である。

これには訳がある。
それは、荒れるクラスの多くは3学期に「秩序貯金」を使い果たしてしまうからだ。4月に「始まりはキッチリと」という考えで徹底してしまった「管理秩序」という名の「教師の権威」は、子どもたちの「成熟」と「慣れ」によって、その多くが消費されてしまい、3学期にはもう残っていないのである。

このような学級運営を「管理秩序型」と呼ぶことにしたい。
このような型を選択したくなる教師の気持ちはよくわかる。学級担任の一番の不安は「今年度は学級崩壊しないだろうか」である。
私自身も教師14年目の中堅教師ではあるが、4月はやはり不安である。学級崩壊を間近で見てきたから感じることであるが、「学級崩壊をさせない先生」というのは、絶対にいない、と思う。

というのは、学級崩壊は「教師要因」だけで起こる事象ではないからだ。
例えば、多動の児童が一人いるだけで、教室における学習環境を維持することはかなり困難になるケースもある。
例えば、不安な気持ちが強く攻撃的な保護者が一人いるだけで、担任は常に神経がすり減らされることもある。
例えば、一緒に組んでいる学年主任が自分のクラスに過度の介入をするということでも、学級運営には悪影響を与える。
これらの要因は、すべて「外的要因」であり、担任だけの力で乗り越えるのは、なかなか困難である。

だから、もう「学級崩壊」は「運の要素」を多分に含んでいると言える。決して、「ダメ教師」の象徴ではない。そのような状況にあれば、とりあえずは「管理秩序型」を教師が選択することも責めることはできない。学級崩壊が怖いからこそ、しっかり「グリップしておきたい」と考える。実際、そのような教育は長い間行われてきている訳だし、それは今も行われている。

いわゆる教育困難校と言われる学校を経験した先生方の、そうでない先生に対してのマウントの取り方は「それじゃあ、困難校では通用しないぜ」である。
困難校では「管理秩序」を完遂できてこそ「一人前」らしい。

このような話題に、お偉い学者さんたちは冷静に答える。
「あなたは、大阪市の大空小学校の事例を知らないのですか。管理秩序型は時代遅れであり、かつ効果も定かではありません。」

確かに大空小学校は、他校では扱えないと匙を投げられた特別支援学級入級相当の児童を数多く受け入れ、かつ自由な校風を掲げているにも関わらず成功した学校として、世間の耳目を集めた。

しかし、このような学者さんの反応を私は「冷たく」感じてしまう。
学者さんはいつもそうである。
「よくできた事例」を持ち出して「できないお前たちが悪い」と現場を責める。
「グットプラクティス」を紹介して「ほら、公立校でもできてるぜ」という。

これでは、現場の士気は上がらない。
それでは、困難校経験者のマウント取りと同じである。

現場はさらに萎縮して、とりあえず、感覚的な答えに頼る。
「学級崩壊は担任が教室における権威を失ったから起こってしまう。だから、教師の権威をしっかりと子ども達に意識させて、子どもに舐められないようにしよう。」

しかし、やはりこれは「悪手」と言わざるを得ない。今の時代は、それでは通用しないのだ。

その昔、学校というのは地域の権威の象徴であった。そこで学ぶことで、農家の子どもたちは、親世代では考えらないような高い学歴を手に入れることができ、そのまま高い給料の職業に就くことができた。親はそれを知っていたから、学校の権威を感じていたし、子どもたちも、そんな親から学校の権威を間接的に感じていた。

しかし、その権威は、今や地に落ちてしまった。
時代に対応できていないダメ教師たちによるダメ学校という評判をメディアは喧伝し、親は、子どもたちの先生の愚痴に安易に同調してしまう。
「あぁ、あの先生は確かに頼りなさそうだねぇ」

もう教師が権威を振りかざせば1年間をやり過ごせる時代は終わってしまった。

でも、これは良い兆候でもあるのだ。
今こそ、新しい教育を初めていくことができる。
これまでの戦前より脈々と受け継がれてきている軍国主義教育の残滓を振り払い、「人間形成としての教育」を掲げることができる。

こんな話をすると「何が戦前だ」と言われそうだが、それについては以下の記事をはじめ、過去に教育史を遡って考察しているので、そちらをご覧いただきたいと思う。

これまでの教育に圧倒的に足りない要素が「人間形成としての教育」という視点である。もちろん、各先生に至っては「人間形成」を意識していることであろう。しかし、現在の教育行政を見ていると、その言葉は「人材育成」と変換されてしまうのではないだろうか。

私は、そもそも子どもたちを「人材」を呼ぶことに否定的である。「人材」という言葉は、どこか「利用可能」とか「経済発展の道具」として子どもたちを見ている節がある。
「一定程度の学力を持ち、上司などの権威に従順な国民が大量に必要な時代」は確かにあったが、もうそんな「人材」を社会は求めていない。

さて、話が四方八方へ転がりすぎたので、本筋に戻そう。

3学期に荒れてしまう学級の特徴として「管理秩序型」という特性を挙げた。そして、それは時代遅れなのである。今の時代は「信頼構築型」が良いのではないかと思う。

これは、教師の権威をかざして学級に秩序を生み出して管理していこうとしてきた教育を反省し、教師は子どもたちと共に学級という学習環境を構築していくということを意識した学級運営の方針である。

そして、これはかなり難しい。
管理秩序型は、方針としては簡単である。
「子どもが悪いことをしたら教師は毅然と対応する」である。
それで聞いてもらえなければ、「さらに強く毅然と対応する」である。
それでも聞いてもらえなければ、「さらに強烈に毅然と対応する」である。

教師は一歩も引いてはならない。
引いてしまっては、そこに便乗して子どもたちがつけ上がってしまう。一度、つけ上がって仕舞えば、もう子どもたちは手に負えなくなる。だから、隙を見せてはいけないのだ。

信頼構築型を志す教師の根底にはいつも「歓待(かんたい)」の気持ちがある。これは「どんなあなたでも私は受け入れます」という姿勢である。

信頼構築型は、方針として以下のことを宣言する。
「子どもが悪いことをしたら、教師はまずはそれを受け止めます」
その上で、何が良くなかったかを諭して伝える
それでも、子どもたちは良くないことをする。
それでも、「まずは子どもを受け止める」のだ。

なんだか、宗教家みたいになってきた。
その昔、学校教育がまだ無い頃は、宗教が教育を担っていたから当然と言えば当然だが。

しかし、これは無意味では決してない。
その効果はすぐに現れる。子どもたちが先生を好きになるのだ。
ここまで来ればもう少しである。

子どもは「大好きな人を困らせたくない」という気持ちが出てくる。
「厳しくて、叱ってばかりいる先生」を好きになる児童は少ないが、「いつも笑顔で、自分たちの話を聞いてくれる先生」はみんな大好きである。子どもたちのその感情は学級運営においては大切である。なぜなら、子どもたちだって学級運営の構成員だからである。

このような話をすると、「子どもたちに教えないといけない規律は、属人的であってはならない」と考える先生が反論してくる。つまり、その先生に言わせれば、「どの先生も尊重し、どの先生でも言うことを聞く子」を育てないといけないらしい。

しかし、これは先ほども述べた通り「学校に権威があった時代」の思考である。その当時は、極論を言えば「誰が先生をしても」良かった。そもそも学校に権威があったので、学校自体に教育力があったとも言えるし、教師の教育力がそこまで重要ではないとも言えてしまう。

しかし今は、そうではない。学校自体の教育力がないのであれば、必然的に教師自身の教育力が必要なのである。といっても、それは、複雑なことではなくて、「子どもたちを歓待できればいい」のである。

「先生が大好きな子どもたち」と「先生」との関係性さえ確保できれば、あとは教育は勝手に駆動し始める。教師の指導力がいくら拙くても、子どもたちは頑張る。大好きな先生に「良いところを見せたい」からだ。

こうして、何ヶ月も教育関係を築いていけば、そこには「信頼」が貯金のように貯まっている。先生も子どもたちを信じ、子どもたちも先生を信じる。先生の監視がなくても、子どもたちはちゃんとする。もちろん、たまには悪さもするだろう。そんな時も先生は「よし、では次からはしないでね」と伝えればいい。そもそも子どもたちは「失敗を通じて成長する」のであるから、子どもたちの悪さ(失敗)でさえ、教育的機会であると捉えれば良いではないか。大丈夫、あなたと子どもの信頼関係はそう簡単には崩れない。あなたが「歓待」の心を忘れない間は。

こうして、私の学級は毎年、なんとか3学期を安定して過ごすことができるのである。

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