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【SERTS】scene.8 夜夜中シンデレラと雲呑麺を

※この話には性的な表現があります。



 世界都市香港は絢爛たるヴィクトリアハーバー。上空から見下ろせば誇張なく宝石箱のような夜景の、そのただなかに降り立ったその途端、天誅の如き焼殺力を有するネオンに視神経を刺激され、たちどころに巻き起こったそのドラッグ的な目眩に、堪らず眼鏡のレンズカラーを濃い藍に切り替える。
 一気に落ち着く視界をぎゅっとまばたきして、いましがた出てきたばかりメトロの出口を振り返れば、表示板には英語名。英国領時代の名残りを感じながらぐるりと周囲を見渡せば、極めてモダンな街並みが高く高く聳え、遠く遠くに及んでいる。流石は世界経済の中心地のひとつである。
「わあ、街がきらきら!」
 飛行機の中では眠たげにぐずって僕を困らせていた王が、一変してはしゃいだ様子で僕の腕を引くので、「そうだね、キラキラだね」と相槌を打ちながら眼鏡の弦をタップして座標を確認する。立ち位置に間違いはない。ならばそろそろやってくるはずだ……と道の端に寄って数十秒。轟く駆動音と共に夜を切り裂いてやってきた一台の黒いモーターバイクが、見事な手綱捌きに促され、目の前で停まった。唸るエンジンがクールダウンにふるえながら静止し、僕のように浅学な者にはその良さのわからない、タイムマシンのようなボディから上背のある男が降りてきて、ヘルメットを外す。外気に触れた黒髪を掻き上げる、それだけの仕草さえスポットライトが当たっているのかと思わせるほどハンサムなその男は、
「ハリエットさん!」
 と駆け出した王から名を呼ばれて、その常に睨んでいるような眼差しを綻ばせた。そして王を抱き留める気でいるのか、僅かに両手を広げて待っているようだったが、王はその脇をひらりとすり抜けると、彼のバイクの前に滑り込むようにしてしゃがみ込む。そう、王はそのやんちゃな性分相応に『イカつい機械』が大好きだった。
「かっくいい! わあ、わあ!」
 興奮した様子の王は、語彙を失ったのか「すご!」「やば!」「いい匂い!」と細かく単語を連発してはしゃいでいる。哀れ、バイクに負けたハリエットが額を押さえているのを「ざまあみやがれ」と小馬鹿にすると、彼は僕を睨んで「お前もアレに負けてるってことだろ」と鼻を鳴らした。相変わらずの僕に対する当たりの強さである。
「キミさあ……クライアントによくそんなこと言えますね」
「あ? じゃあ這い蹲って靴でも舐めりゃいいのか? やるぞ?」
「いやー、個人的にはやって貰って構わないんだけど、王に見られたら僕嫌われちゃうからさ」
「前金貰ってるんでやりますよラドレさん。ほら、右と左どっちだ? 出せよ。舐めやすいようにな」
 大男がふたり、今にも互いの胸倉を掴みそうに睨み合っているその脇で、王は未だにバイクに夢中だ。ワンピースの裾をアスファルトに擦り付け、ひとり楽しそうにバイクの周りをしゃがんだまま移動している。このままだと服が駄目になりそうだったので、一旦睨み合いを中断すると、「よいしょ」と王の項を掴んで立ち上がらせた。
「おまえ、バイク。バイクですよ」
「僕はバイクじゃありません」
 言いながら、裾の汚れを払ってやる。そして「今から人が来るから大人しくしているように」と噛んで含めるように聞かせていると、今度は黒塗りの車が一台、目の前に停まった。そして助手席から降りてきたスーツ姿の男に従って車に乗り込めば、ハリエットも手筈通りにヘルメットを被り直し、バイクで追走してくる。
「まさかラドレさんと会長さんがこちらにいらっしゃるとは思いませんでしたよ。お仕事ですか?」
 迎えにやってきた彼は、今回僕たちが招待されたレセプションの主催者である『SBH(SUNSPOT BULLET HOLES)社』首席付きの秘書である。数回顔を合わせているので知れた仲ではあるが、流石にバカンス中だとは言えずに「そんな感じですね」と濁して返す。隣の王もビジネスモードに入っているらしく、先程ワンピースの裾を摩り下ろそうとしていたとは思えないほど、整った微笑を浮かべていた。
「バトは会長さんがいらっしゃるとのことで大はしゃぎでしたよ。ご迷惑でなければ話し相手になってやってくださいね」
「ふふ、光栄です」
 王はにこりと口角を上げてそう答えると、「お元気でしょうか」と続けた。すると彼は苦笑いを浮かべながら「それはもう」と意味深に返す。
 八托バトとは弊社と提携している軍需企業の首席で、金烏の比較的若い個体である。さっぱりとした印象の顔立ちに金髪金眼が華やかな男で、懐っこくありながらも明敏な頭脳の持ち主だ。軍需企業の代表なのに人懐っこいなんて、一番怖いに決まっている。だから敵には回さないようにやんわりと付き合いを続けるうちに、なんだか気に入られてしまったようで、こうしてレセプションに僕を誘う文言が「来るべ?」というフランク極まりないものになる程度には親交をあたためてしまった。未だに怖いなあ……と思いつつ取引を続けている。
「また派手な買い物でもしました?」
「ええ……まあ……別邸を七つ追加すると言い出しまして……」
「ああ、わかった。夫人たちにそれぞれか」
 バトには妻が七人いる。……今のところは。
「そうです……」
「はは、そりゃリウさんも大変だ」
「奥方だけでなく秘書も増やしてくれと訴えているのですが……これがどうにも通りませんで」
「愛ですねえ」
「これが愛ならこの世は地獄ですよ」
 それが嬉しい悲鳴であることを知っているので、否定はせずに「地獄ですねえ」と相槌を打つ。どこの契約済みの主従もあるじは暴君で、従者は甘い地獄をみるのだ。
 会場のあるホテルに到着すると、ロビーにはバトが待ち構えていた。ぞろぞろと複数の黒服を引き連れて、僕への挨拶と言うよりは、どうやら王の顔を拝みに出てきただけらしい。彼は僕には適当に「うぇーい」とハイタッチをしただけで、すぐに王に飛びつくと、その手を握って「ようやくボクの八番目の妻になる気になったかい王ちゃん!」とご機嫌に口説き始めた。
 それに対し王は「ふふ。まだ気が早いですよ」となめらかにあしらって、しかし指先にキスの嵐を浴びさせるがままにしている。そのさまを、バイクを駐車場に停めてきたらしく今入ってきたばかりのハリエットが目撃し、眉間の皺をクレバスほど深めていた。そんな彼を手招きして、あれが主催者だよ、と説明してやれば、彼は「覚えた」とだけ言って、僕の一歩後ろに控えて背中で手を組んだようだった。
「え、なに、王ちゃん彼氏できた感じ? それともなんか雇った? え、味見した? どうだった?」
 騒がしい男だ。これは流石に解説に入ってやろうかと一歩踏み出したタイミングで、王は「これからですよ」とバトの耳元に唇を寄せて言った。その言葉に僕が咄嗟にハリエットを振り返れば、彼は真顔のままこっそりピースサインをしている。
「ワオ……いいねえ。やっぱり権力者は酒と散財とセックスを楽しまないとね! ……じゃあ、今夜のところは邪魔しないよ。よい夜を!」
 しつこく見えてしつこくないのがこの男だ。バトは王にもハイタッチをすると、今度は秘書のリウも伴って夜の街へと繰り出していった。その背中に向かってハリエットがぼそりと「ラグビー部」と呟いたのに思わず吹き出しながら「チア部かもよ」と返し、受付へと進む。

 バトが手配してくれたのは、ツインのハーバービュースイートルームだった。王が窓の外の絶景を見るよりも先に浴室を確認しに駆けていくのを微笑ましく思いながら、後ろに控えている彼に改まって「ハリエットさん」と呼び掛ける。
「取り敢えず契約の最終確認をしましょうか」
 前回の貴州での屈辱的な一日の最後に、僕はハリエットに護衛の依頼を持ち掛けていた。
 ただのレセプションとはいえ、遠い異国の地での仕事である。物騒な業界というのもあるし、普段であれば弊社のエージェントを二、三人ピックアップするのだが、タイミングが悪く国を跨げるほど手の空いた者がいなかったため、ハリエットに白羽の矢が立った。現地にいるフリーの傭兵を雇ってもよかったのだが、偽名なりに身分と実力は保証されているし、なにより王がハリエットを気に入っているところも評価したうえでの最善の人選というわけだ。
 とはいえ、話を持ちかけたのが王とハリエットがキスをするより少し前だったからこその選出であり、今現在の僕の心境としてはかなり複雑であるのだが。
「……ここにサインを。偽名で結構。これがSP用のIDです。会場では持ち歩いて……はい。では正式に契約締結です。よろしくお願いします」
「最善を尽くす。よろしく」
 ハリエットがサインをした書類に保護を掛け、それを会社に送ったところで、王がウキウキとした様子で戻ってきた。「あわあわのやつ、あります」と弾んだ声が指すのはバブルバスのことだろう。
「おふろにはいります。脱がせなさい」
 そう言って僕の膝の上に座った王は、そこでようやく今回はハリエットがいることを思い出したらしい。一瞬にして僕の膝から下りると「なにもしていません」とでも言いたげな澄まし顔になり、膝の上で手を重ねていい子ぶっている。
「……王、その調子でいい子ちゃんにしているんだよ」
「こほん。わたくしはいつもよいこですよ」
「ほんとー?」
 白々しくそっぽを向いて髪を耳にかける王は、前回ハリエットの前で変な歌を歌ったりポテトダンスをしていたことを忘れているに違いない。そしておそらくはこの「王らしく威厳のある態度」が王にとっての可愛こぶりなのだ。一生懸命に、自分をよく見せようとする試みがそれであることについてには一抹のやりきれなさを感じるが、ここは心を鬼にして追撃をする。
「じゃあ約束して。ハリエットの前ではお風呂上がりにパンツ一枚で部屋に出てこないこと」
 すると王は途端に頬から鼻頭までを赤くして「そんなことはいつもしていません」と僕に掴みかかってきた。いや、いつもしている。なんなら全裸のことも多い。王の拳を半身に浴びながら「ほんとー?」と笑っていると、ハリエットが、
「俺が脱がせてやろうか、お嬢ちゃん」
 と王を手招きしたので思わず「おいコラ」と凄んでしまう。王はハリエットの提案に「ひ」と短い悲鳴を上げ、被食動物のような怯えをみせると、途端に僕の背中に隠れてしまった。どうやら『それ』はまだ許せないというか、恥ずかしいようで、僕としてはいくらか安心するものの、油断は禁物だ。王には妙に大胆な一面があり、おっとりして見えても唐突にその色香を突き刺してくるときがある。しかも的確に急所を狙って。その殺意の一瞥が僕に向けば無問題どころか猛毒の極楽として受け入れもするが、その切先がハリエットに向かないとも限らないのは、前回の貴陽の件で痛感していた。まったく、この子ヤギには油断ならない。奥手のフリをした肉食獣なのではないかと思ったりもするのだが、正直を言うとそんなところも僕は堪らないのだ。
「はい、じゃあふたりに今ファイルを送ります。積極的に繋がりを持ちたい企業からの出席者と、関わらないでいい人たちのリストです。各自確認しておくように。特にハリエット。会場ではどうせ王の乳とのみ会話をしていく鼻の下を伸ばしたカスが多いので、積極的に守ってあげるようにしてください」
 最後に王とハリエットのスマホに資料を送って、今日のところは業務終了だ。バカンス中のこの数日の業務に役員報酬が発生しているのかは経理担当のツェリスカに訊いてみないとわからないが、まあ期待はしないことにしてタブレット端末を片付けていると、俄にハリエットが口を開いた。
「あの金烏の兄ちゃんは大丈夫なのか?」
「ああ、バトのこと? どういう意味で?」
「お嬢ちゃんにちょっかいかけないのかって意味で」
 その眼差しは極めて深刻な様子で、どこか苛立っているようにも感じられた。
「かけるけど気にしないでいいよ、あの人は」
「どうしてだ?」
 どうやら彼は先程の、バトから王へのキスラッシュを気にしているらしい。自分は僕のことをハラハラさせて楽しんでいるくせに、随分と都合の良いことだ。
「ただ遊んでるだけだから。王のことはマスコットキャラクターかなにかだと思ってるんだよ。手は出さない。ね、王」
「そうですね。奥方が七人もいますから、なんというか上手いのですよ。色々と」
 王からも釈明があったからか、ハリエットは「よかった」と呟くと、もう一度王を手招きした。そしてそろりそろりと妙に慎重に近付く王の手を引いて、自身の隣に座らせると、彼は先程から不自然に背中側に隠していた右手をそこから引き抜いた。すると突如としてその場に出現したのは、狼のぬいぐるみ。それは王が大好きなレトロアニメ『ヌンチャク・パンダ』の登場キャラクターである、復讐の剣客・黒狼ヘイランだった。
「きょわああああ!」
 今まで聞いたことのない声を上げて、王は睛を輝かせた。それも当然、黒狼は王の大好きなキャラクターなのだ。勧善懲悪を旨とするパンダ師父とは対照的に、黒狼はかつて愛した女を殺され、「俺は一度死んだ」が決め台詞の、復讐に生きるダークヒーローだ。そのツンとしてクールで、しかしどこかさびしげなキャラクター性は、男女共に大人気。スピンオフ作品も数々作られた。更にはハリウッドで『実写版ブラック・ウルフ』が制作され、発表時にはネット上で非難轟々だったものの、公開後には主人公役の俳優の熱演によりその評価が覆り、一気に全世界興行収入一位に登り詰めたという伝説もある。このヌンチャク・パンダにわかの僕ですら、黒狼のストーリーは涙無しには語れない。
「ほら、あげるよ」
 ハリエットはそう言うとその丸みを帯びた可愛らしいフォルムの黒狼ぬいぐるみ──しかし目つきの鋭さは原作に忠実である──を王に手渡した。するとたちまち王は彼にべったり。「シュエシュエ!」と弾ける笑顔で彼の首に抱きついた。
「お、おう……そんなに好きだったんだな」
「すきです! 黒狼は一番かっくいい!」
 しかしこれが腹に据えかねるのは僕である。王のお気に入りのぬいぐるみといえば、僕がプレゼントした羊のヴォートランであってしかるべきだ。
「王ちゃーん? ヴォートランは? ヴォートランはもう好きじゃないの?」
 我ながら底意地の悪い問いである。それを聞いた王はハリエットにヘッドロックよろしく抱きついていた腕を解くと、彼の隣に座り直して言った。
「おまえが持っていくのはだめだと言ったのではないですか」
「だってそれは……邪魔じゃん、旅行には。ヴォートラン、結構おおきいし」
「ヴォートランのことは大好きです。それは変わりありません。おまえは犬を二匹、それぞれ違う時期に家に迎えたとして、その二匹に抱く愛情に大差があるのですか。それとも二匹目を迎えたときに一匹目は捨ててしかるべきだとでもいうのですか」
 滅茶苦茶、論破された。王は「ヴォートランにも会いたいです」とぽつり呟くと、黒狼ぬいぐるみをぎゅっと抱き締めた。そしてその瞬間、それが自身の胸の上に乗せるのに程よいサイズだと気がついたらしい。手を使わずに持ち運べるという『大発見』に王は「おお」と目を丸くすると、「すごいでしょう!」と触れ回り僕とハリエットを沈黙させた。
「あとで鞄に付けられるようにしてあげるから、とりあえずしまっておこう。失くしたら悲しいでしょ」
 このままでは乳に挟むことを発明しかねない。王の手からそのぬいぐるみを取り上げることに成功すると、それをトランクの中、あの人のピアスケースの隣のスペースに嵌め込んだ。それにしてもこんな可愛げのあるぬいぐるみをハリエットが選んで会計をしているところを想像すると、妙に笑えてくる。その顔を元に戻せないまま彼を振り返り、「よく王の好きなキャラがわかったね」と言ってみると、彼は王に手を握られながら答えた。
「ああ……お嬢ちゃんはメッセージでスタンプを使うときにそのキャラを使うことが多いんだ。人気なのか?」
 なるほど……と、僕は唸る。
 王にヌンチャク・パンダシリーズのスタンプを買い与えたのはごく最近で、僕と王は今現在、常に一緒にいるがゆえにほとんどメッセージのやりとりをしておらず、スタンプの好みについては知る由もない。これは彼の観察眼の勝利といったところか。
「なんと、ハリエットさんはヌンチャク・パンダもブラック・ウルフもご存知ないのですか」
 王はハリエットを見上げて驚いた様子だ。
「そうだな……アニメはよくわからない。映画は観るんだが」
「ジョン・バックとか好きそうだね」
 僕が適当極まりない偏見を口にするとハリエットは、
「好きだな。やっぱり2のCCCカスタムガンが出てくるところがいい。特にグロスターのカスタムが最高だったな。よく見るとちゃんとカスタムマークが入っているところにも拘りが感じられていいし、個人的にグリップカラーがデフォルトじゃなくてタンカラーなのがアツいな。使い込みが顕著に現れる=使い込む気でいることが窺える。実際に3でもグロスターは出てきて……」
 と、途端に早口になった。それに対し「うわ、出たよ銃オタク」と呆れて溜め息を漏らせば、彼は「なんだよ、可愛いだろ、銃」と常人には理解し難い感性を露呈して憚らない。
「僕は使えればなんでもいいからね……」
 これ以上銃オタクの話をされても親身になれないのでそう切り上げ、「じゃあ、ご飯食べ行こうか」と、王とハリエットを促す。すると彼はニコニコと手を引く王の頬に愛おしそう触れると、その勇ましい眉を若干下げて言った。
「ああ、俺の時間を買って貰っているのに申し訳ないんだが、これから定例会議なんだ。部屋に残って仕事をしてもいいか?」
 今回、僕は彼の『余暇』を買った訳だが、彼はフリーランスではない。所属のある兵士なのだ。
「あ、そうなんだ。いいよ。アンダーソンさんによろしく言っといて。……じゃあなにか買ってくるよ。なにがいい?」
「任せる」
「えー、じゃあ苦手なものは?」
「骨の多い魚」
「随分抽象的だな……まあいいや、王と一緒に決めるよ」
 王にカーディガンを羽織らせながらそんなやりとりをして、部屋を出る。王はもっと「ハリエットと行きたい」と渋るかとも思ったが、仕事だからと割り切っているらしい。エレベーターの中で「きらきら、きらきら」と呟いて外に出るのを楽しみにしている。

 天を衝く摩天楼群のせいで、夜空は遙か彼方にあるかのように思われた。不夜の賑わいでその濃紺の星空は、きっとその存在を忘れ去られている。
「……あのさ。王は、どうしてハリエットのことが好き……いや、気に入ってるの?」
 そんな騒がしくてどこか寂しい街の、絢爛の軌跡のぶんだけいくらか悪い空気の中、僕は王に問うた。結構勇気が要ったので、三回は言うのを躊躇った。
「ジェントルマンは皆好ましいですよ」
 王はそう言ってただ僕の小指を握っている。その手をきちんと繋ぎ直して、指を絡めて、てのひらを合わせる。
「そうじゃ、なくて……王は、その、かなり……彼のことを特別に思ってるでしょう。なんていうか……知り合いのお兄ちゃん、みたいな感じ?」
 性的に好きなのだろう、とは問いただせずに婉曲に婉曲を重ねながら、しかし答えてもらわねば気が済まないと追い縋る。だってふたりは、もうあっという間にキスまでしてしまったのだ。これでそこまで好ましくはないと言われてしまったら、それこそ単なる僕の性教育ならびに情操教育の失敗である。だが、王は絶対に彼のことが好きなのだという確信があるから、未練たらしくこうして、手を繋ぐ。
「彼は……」
 王は僅かに唇を開くと、すこし考えるような、悩むような素振りをみせた。そして、
「いい匂いが、するのです」と、続ける。「熱くて、甘い、肌と血の匂い。瘴気や香水とは別ですよ。それが……昔のおまえみたいで……懐かしくなるのです。わたくしが、まだ名を知らないおまえ……ふふ。あの頃のおまえに、また抱かれたいな」
 ぽつりぽつりと俄雨でも受けているかのように、王は唇を音に震わせると、それから僕を見上げて微笑んだ。そのはにかんだ顔の可愛らしさが、その言葉とともに胸に突き刺さる。
「……随分と、男前だったみたいですね、昔の僕は」
 頬が傷口みたいに熱くなるのを感じながらそう返すと、王は「今もですよ」と言って僕の脇腹にぴたりとくっついた。王のせいで隙だらけの僕の体側は、キミになら刺されたって文句は言えない。
「……王、帰ったらしようか」
「あら。だめですよ。彼がいますから」
「お風呂でしようよ。ダメ?」
「……おまえ、どれだけいいこにできるの?」
「それはもう、物凄く。僕いつもいい子でしょ?」
 甘えて問うが、王は「さあ」と含みを持たせた吐息で発音すると、唐突に僕の手を引いて駆け出した。その意味のない駈歩に、細切れた呼吸が冷えた肺をあたためて、少し咳き込みそうになる。運動とときめきで巡る血流がじんと耳まで熱くするから、衣類の隙間から吹き込む夜風の存在をありありと感じさせた。肌寒い。だから抱きたい。今すぐに。でもきっと王はそろそろ「ウォーウーラ」と訴えて、僕を仕方ないなと笑わせることだろう。
「渡したくないな」
 と、思う。声に出る。
「いや、違う。ずっと傍にいてほしいんだ」
 夜の大都会をぐんぐん進む王は、後ろの僕を振り返らない。繋いだ手には揃いのブレスレット。もうひとつ存在するおそろいのそれは、無数のネオン光を受けてきらきらと美しくきらめく。このままどこまででも行ってしまえばいいのに、王は徐々に歩幅を緩めると、屋台街の近くで足を止めた。そして僕の予想通りに「ウォーウーラ」と言って僕を心から笑わせる。
「なにか食べてく? それともたくさん買ってハリエットと食べようか」
「ええと……ちょっと食べて、たくさん持って帰ります」
 提案より少し多く取り分を要求した王は、僕が当然「いいよ」と言ってくれると思い込んでいるのだろう。そのちょっと我儘な態度が小憎らしくて、隙をみて強引にキスをした。
 街を眺めていて、他の地域と較べて日本企業の店が多いとは思ってはいたが、案内板にも日本語が併記されていることが多く、覗き込んだゲームセンターには日本のキャラクターや競走馬の正規品のプライズが多く並んでいた。どうやら日本からの旅客が多いようで、あちこちから日本語も聞こえてくるものだから、いよいよ頭が混乱してくる。僕たちは人間界の民族的コミニュティに属しているとは言えないものの、現在のホームがあるのはニューヨークであるし、そちらのほうでは上手く擬態できている感覚があるがゆえに、この『謎の異国感』が強く感覚を狂わせていく。ここはどこだ? 香港だ。通貨は香港ドル。念の為現金の両替もした。物価はけして安くはない。人種はごちゃ混ぜ。その点はニューヨークにも近い。頭上に迫り出したネオン看板のイメージは、既に撤去されて整然としたモダンな街並みに。二階建てバスの渋滞。香港ファストフードの店に、西洋式メニューの広告。雑居ビル前の危険な雰囲気。インドカレーの店も多い。路上でカラオケ。占いの店が並ぶエリア。なぜかタコヤキ……オオサカの料理が人気らしい。『日本のラーメン』にも行列。飯屋のイートインで麻雀。工事現場の足場に竹。フェンスに囲まれゲートのある公園。貧富。格差。ハイブランド。コピー商品。遠くに超マンモス団地。人々の逞しい生活。アスファルトに感じる土埃。カオス。ここはどこだ? 世界都市香港だ……。ああ、世界か。道理で、懐かしい。
「アイツ、なに食うのかな……」
 頭の中がごちゃごちゃとしているのを自覚しながら、理路整然とした男のことを思い出す。
「肉ですよ。肉」
 スティック型のフレンチトーストを齧りながら、王は答えた。さきほどスキノヤのギュウドンが食べたいと言っていたのを宥めすかして、その隣の店で買い与えたものだ。
「まあ肉だろうね。肉食です! って感じだもんね。狼だし」
 しっかり手を繋いで、ちょっとディープな夜市を歩く。いくらかクールダウンした視界に煌々と容赦無く照る屋台の白熱灯が眩しい。
「わたくしは、ヤギですがお肉は好きですよ」
「まぁ……うん、そうだね……」
 僕の言葉が濁ったのは、王がの肉食がけして自然なものではないからだと知っているからだ。
 あの者たち・・・・・の魂胆については知らないが、少なくとも由来が草食獣である王に肉を……しかも『屍肉』を、『実の兄の肉』を喰らわせるということ自体が、僕には正しいことには思えなかった。扱いやすいように髪を短く切られ、体裁上身なりだけは美しく整えられたその痩せに痩せた地下室の少女は、玉座の前に引きずり出されると、断頭台を前にしているかのように頭を垂れて、吹きこぼれるほどの花で飾られた棺の中に顔を埋めた。そのただ白く、ただしずかな捕食のありさまを、僕は主を亡くした騎士として、そしてあらたな王の騎士として、なにも言うことを許されずにただ見ていた。しかしただ静寂があるだけと思われたあの儀式は、間違いなく少女の中の『仕組み』を書き換えたに違いない。口許を赤く染めた少女が顔を上げた瞬間、突如としてその断髪が伸び、ほんの少しだけ身体が肉をつけ、いくらか背が伸び、少年と変わらないほどだった胸元が豊かなものに変質した。それが戴冠式という名の成人の儀だった。……そうして少女は血肉なくしてはいられなくなったのだ。生贄を喰らい、時には僕の血を飲み、王は着実に魔力を蓄えていった。そして。
 僕の父が、少女に『狂王』の汚名を着せた。
「……ラドレ?」
 僕の顔を覗き込む王の優しい眼差しに、はっと我に返る。ああ、よかった。守れた。よかった。……いや、僕は守っていない。僕が守ったのは『王の傍にいたい』という自分の願いだけだ……。
 虚妄とも言いきれない思考に囚われた頭に、どうにかこうにか「ここは人間界だ。香港だ」と言い聞かせて軌道修正をしていると、王が歌をうたいはじめた。
「おにく。おにく。おいしいおいしいおにくー」
 そのシンプルかつキャッチーなメロディに、僕の憂慮なんて王が「おいしい」のならどうでもいいか、と思い直して「おいしいねえ」と合いの手を入れる。誰になんと言われようと僕は王が一番可愛いのだ。それに、狂王などではないということは、僕が知っていればいい。
「ねえラドレ。あすこからほかほかの匂いがしますよ」
 ふと王がとある店を指さしたので、その先を目で辿ると、その青い外装の店には『煲仔飯ボウジャイファン』と掲げられていた。冷えた夜空にもくもくと昇りゆく湯気。脂の染みた米の匂い。土鍋飯だ。
「へえ……美味しそうだね」
 そう相槌を打ちながら、店に近づいてメニューをチェックする。この店では牛肉、鶏肉、アヒル、干しソーセージ、魚、カエルなど、ベースとなる具材を選び、そこにトッピングを追加できるシステムのようだ。受付から炊きあがりまで二、三十分かかるらしく、その旨が大きなポップで強調されている。しかし時間が掛かっても食べたいほど美味しいのか、商品受け取り口には行列ができていた。
「先に注文して、後で取りに来ようか」
「すてき。皆で分けましょう」
「欲しいトッピングはある? ハリエットは……なんかもう肉全盛りしとけばいいでしょ」
 ああいう手合いの食生活は思春期男子と相違ないだろう。迷ったら肉と炭水化物を食わせておけばいいのだ。
「うーむ。卵が美味しそうですね。半熟で」
「なるほど、炊きあがる直前に入れるんだ……。わかったよ。注文してくるから動かないでね」
 そしてテイクアウトできるか店員に聞いてみたところ、鍋を返しに来てくれるなら熱々で食べられると教えて貰ったので、窩蛋牛肉飯(卵と牛肉飯)に肉類をありったけトッピングしたものを注文し、受付札を持って王の元に戻る。王は野良猫と遊んでいたようで、またしてもワンピースの裾をずりずりやっているのを立たせて裾を払った。まったく、ガラシャが見たら卒倒しそうな服の扱いである。
 それから屋台で咖哩魚蛋ガーリーユーダンというカレーソースのかかった揚げフィッシュボールと、試食した焼売に海老蒸し餃子、それからお情け程度の緑として空芯菜の炒め物を買うと、最初の店で布に包まれた土鍋を受け取り、最後にコンビニでビールを買ってホテルへと戻った。

 ハリエットは丁度風呂から出たところらしく、タオルで髪を拭きながら「おう、おかえり」と声を掛けてくれた。
「あれ、もう終わったの。会議」
「ウチの定例会議なんてダラダラ喋るだけだからな。アンダーソンのつまんねえジョークパートが始まったから退出した」
 そう言ったハリエットの、湯気の名残を帯びた薄着姿に、王はときめいているらしい。僕の隣で視線をさまよわせながら軽く下唇を噛んでそわそわしている。それに対し、僕の肉体も立派でしょうが……とジェラシーを燻らせながらその背中を促し、ふたりでテーブルに買ってきたものを並べれば、中々に豪勢な食卓となった。そしてキッチンスペースから取ってきた小皿にそれぞれのぶんの焼売と海老蒸し餃子を取り分けていると、髪を乾かし終えたハリエットが戻ってきた。前髪が下りていて普段より若い印象になった彼は、
「なんだ、賑やかだな」
 と言いながらソファに腰を下ろした。その横顔を見た王は、普段とは違って柔らかい印象の彼に胸打たれたのか、そっとちいさな拳を胸の前でもじもじと蠢かせている。たしかに、髪を下ろした彼はセクシーだが、僕だって普段は髪を下ろしているので、負けず劣らずのセクシーさを発揮している筈だ。なのに王のうるんだ視線はハリエットに釘付け。妬ける。胸が、灼ける。
「王が一緒に食べたいってさ。光栄に思えよ」
 切歯扼腕の心地を押し込めて、ツンデレぶってそう言ってやると、彼は、
「思ってる。こんなに可愛い子の食事の世話をできるなんてな」
 と答えて笑った。やっぱりセクシー、である。悔しい。
「世話は僕がするの。キミは気にしないで食べな。……僕の甲斐まで奪わないでよまったく」
 言葉の表面だけを掬った遺憾の演技。偽りの溜め息を吐きながら、受け取り時に説明された通り、土鍋の蓋を開け醤油をふた回しかけ、また閉じる。そして蒸しあがりを待つ間に、缶ビールを配って乾杯をした。揃ってぐいとひと口。ぷは、と声を上げた王がまたしても僕の頬に缶を押し付けてくるので仕方なしに受け取り、ジュース飲みましょうね、と買ってきたオレンジサイダーを開けてやる。しかしハリエットが「そのお嬢ちゃんのビールくれ」と言ったその途端、王はびくりと肩を跳ねさせ僕の手元から放棄したはずの缶をひったくった。
「なに、チューしといて今更関節キスが恥ずかしくなったの?」
 缶を半ば握りつぶして震えている王にそう言ってやると、王はぎこちなく「おしとやか、なので」と謎の宣言をしてビールをちびちびと飲み始めた。ハリエットの前ではお行儀よくしたいらしいその挙措が「もうおにいさんなので」と遠い昔に僕が母に言った記憶とリンクして、妙に懐かしい。そんな幼い自分に、マセガキが……と乱暴な言葉を吐き捨てながらも、その子供っぽさに対する慈愛のようなものは、確かに湧いている。それは王という、実際に可愛い子どものような存在に触れたからこそ許容できた感情だろう。今の王と関わって初めて、僕は過去の僕をゆるせているのだ。
「ん、これ美味いな」
 咖哩魚蛋を食べたらしいハリエットがそう漏らすので、「ああ、骨のない魚ね」と頷く。すると彼は「魚は骨さえなければなあ……」と続けて、それから僕になにやらアイコンタクトをしてきた。その、彼が無言で見ろ、と促してきた先に視線を向けると、そこにはフィッシュボールを箸で掴もうとしては失敗している王の姿。しかし王は串刺しにしたりせず、懸命に箸を自分なりに操ろうとしている。……ハリエットを振り返る。彼は頷く。僕も頷く。
 そして、僕たちがふたりが固唾を飲んで見守るなか、王はフィッシュボールを箸で掴むことに成功すると、それを口に放り込んだ。じゃくっ、と咀嚼音。ぱっ、と笑顔。僕とハリエットは無言で拳を突き合わせると、その成功を喜んだ。そして「はーあ」と疲弊した息を漏らす王が、二個目からは箸で串刺しにして食べているさまにふたりして笑う。
 それから待望の土鍋を開けた。ふわりと膨らんで昇る湯気に、曇った眼鏡の弦をタップしていると、ハリエットが「俺がやる」と杓子を手に取った。盛り付けは彼に任せることにして、その様子をムービーカメラに収めていく。フレームインしてきて手を振る王。「アホみてえに肉入ってんな」と眉根を寄せて米を混ぜるハリエット。王が撮影を代わって、僕が写って……ある種の団欒が記録されていく。
「そのムービー、あとでくれよ」
 皿に米と肉を山盛りにしながら、ハリエットは言った。彼からその皿を受け取った王が「わほほ」と嬉しそうな声を上げる様子も、もちろん映像に収める。
「いいよ。なに、団欒が恋しい? 実家帰りたい?」
「いや。俺に家族はいない」
「……なるほど? じゃあ皆おんなじだ」
「そうだな。ほら、お前のぶん」
 彼から皿を受け取り礼を言うと、そっけなく「ん」という音だけが返ってきた。指についた米を行儀悪く舐るその横顔が、おおいなる寂寞を揺曳しているように思えて、陽気なジョークのひとつでも言ってやろうかと顎を揉んだところで王が「ハオチー!」と元気よく言った。途端に綻ぶ彼の横顔から、束の間、孤独が消える。
 ああ、この男は本当に王のことが好きなのだ。
「……たまにメシ食いに遊びに来なよ」
 そっと提案して、僕はゆっくりと瞬きをすると、そのまま半熟卵黄が黄色く染めた米を箸で持ち上げ、そこから掬うようにして細切れ肉を拾う。牛、豚、鶏、鴨、ソーセージ……どれだろうか。そして口に入れて初めてそれが牛肉だとわかる瞬間の、なんとも愉快な感じ。数分前に回しかけた醤油の香りが立っているが、味付けはこっくりとしたオイスターソースだ。飾り葱と卵によく合って、これを選んだ王の慧眼に感心する。米はジャスミンライスだ。脂とオイスターソースが染みて、纏まりやすくなっているから箸でも食べやすい。
「気が向いたらな」
 沈黙。からのそっけない返事。素直じゃないなあ……と眺めるその横顔が、大きなひとくちをぱくりとやるのを気持ちよく思う。「んまい」と伝えてくれるその素直な舌。すぐにふたくちめを口に運ぶその健啖。ああ、この男は王に似ているのだ。
「ザイライイーワン!」
 再来一椀……おかわりを要求する王に、ハリエットはすぐに応じて米を盛る。そして負けじと自身の分も盛る。一番大きいサイズにしてよかった……と思いながら、僕は酒と空芯菜をちびちびやる。

 土鍋を返しにいくのは、ハリエットが引き受けてくれた。煙草吸うなよ? と見送ると彼は「マジでやめたから」と少しうざったそうにして、部屋を出て行った。そして。
「王、ちゃんと立って……?」
 シャワーの熱と体内で沸騰する血とで思考がぐらぐらと覚束なくなりながら、王のか細い腰を片手で掴む……強く。僅かな肉に食い込む僕の手指が、その薄い下腹部の皮膚をそのまま突き破ってしまいそうで、いつも怖い。
「わるいこですね、ラドレ……」
 浴室の壁に肘をついている王は、呆れの滲んだ声を漏らして他にもなにか言いたげだったが、残りは自ら咬んだ二の腕の白い皮膚に吸い込まれたらしい。苦しそうな吐息がシャワーの音に掻き消されて、もう僕にだけしか聞こえない。ハリエットはとっくに帰ってきているかもしれなくて。そんな気配もあって。ちょっと乱暴にしてやれば、たちまちなにをしているのかばれてしまうことだろう。その事実に堪らなく興奮した僕はかなり調子に乗ってしまった。……その結果。
「今夜はハリエットさんと寝ます」
 王の機嫌をかなり損ねてしまった。
「なにしたんだ、お前」
 腕を広げて傍に寄った王を抱き留めたハリエットは、「行かないで!」と追い縋った僕をソファから見上げて眉をひそめた。そして片手でタブレットPCを閉じた流れで見下ろした位置に、バスローブから覗く王の開放的な胸元が目に入ったらしく、彼は瞬時にそこから視線を逸らし、手だけでその胸元の布を整えている。なるほど、これはジェントルマンだ。僕なら滑らかに手を差し込んでいる。
「王、男と同じベッドに入るのがどういうことかわかってるの?」
 僕はなおも追い縋り、ハリエットの胸にしがみついている王の腕を掴むが、王が「えっち!」と叫んだのでつい手を離してしまう。エッチなら今さっきしてただろうが……と喉まで出かかるものの、なんとか飲み込んだ。
「知っていますよ。そのくらい。たかだか同衾でしょう」
「同衾て」
 王の言葉選びに笑ったのは、僕だけではない。ハリエットも咳払いで笑いを誤魔化している。
「あー……俺はソファで寝るから思う存分ふたり別のベッドで寝てくれ」
 笑いを引き摺ったままそう提案したハリエットに対し、それはいけないと窘めようとした瞬間、王が一手早く「だめです。同衾するのです!」と彼を叱るようにして言った。その謎の情緒にハリエットは気圧されるかとも思ったが、彼は意味ありげに「ふうん」と鼻を鳴らすと、王の肩に手を置いた。
「そんなに俺と同衾したいかい」
「したいです」
「そんなに俺との子が欲しいかい」
「ほし……えっ?」
「キミ、思ってたより可愛い声で鳴くんだな。もっと近くで聴かせてくれるかい」
 その言葉に僕と王のふたりが激しく動揺したのは言うまでもない。わなわな、いや、がたがたと震えだした王の背に思わず手を添えるが、その震えと首から上の紅潮は治まらず、僕は強烈に後悔をする。蚊ほどの声で「マジ?」と彼に問うと「狼の聴力舐めんな」と返ってきた。
「少なくとも二回。いってたな?」
 ハリエットがそんなあられもない確認を入れてきたところで、王は堪えきれなくなったのか「ひい!」と高く悲鳴を上げて両手で顔を覆ってしまった。可哀想に。好きな男に秘めごとを暴かれてしまったその心境たるや。しかしその悲劇は単純に僕に端を発するものなので、僕としてはなにも言えなかった。『隠れてするのヤベー』とめちゃくちゃ興奮していた僕の不徳の致すところだし、さほど恥ずかしくはないのは、まあ気持ちはわかるでしょ、とどこかで彼に許容を強いているからだ。そして事実、ハリエットは怒ったり不快の念を呈したりせず、硬直している王を抱き寄せ、その旋毛のあたりにキスを落として余裕そうにしている。
「まあ俺ならもっと歪みのエフェクトをかけられる。回数も倍だな」
「それは環境次第でしょ。騎士道テクニック舐めんなよ。それに、仮に倍だとしてもそれはデベロッパーである僕の忠義の賜物だからね」
「虐めて遊んでおいて忠義を語るなよ」
「じゃあキミのエフェクト宣言の根拠は?」
「匂いでわかるだろうが。俺とお嬢ちゃんは相性がいい。単純に」
 な? お嬢ちゃん……とハリエットは王に同意を求めると、王をひょいと抱き上げて立ち上がった。
「たかだか同衾ね……いいぜ。そのオーダー、確かに承った」
 そう甘い声で囁かれて、王は途端に心細くなったのか僕の髪を赤子のように掴んだ。動悸が激しすぎるのか、その拍動に合わせて切り揃えられた前髪が揺れている。かなり緊張しているらしい王は、
「ラドレ……オーダー、まちがえた……」
 と細い声を上げて僕に救難信号を送ると、僕の腕に移ろうと身を捩った。その姿はまるでパパからママに抱っこを代わって欲しがる子供だが、王はもう子供じゃない。ハリエットは大人の世界の厳しさを教えんとしているのか無情にも「返品交換は不可だ」と言って、王の手を僕の腕から外した。
「ねえ、マジで言ってんの?」
 顔が青くなっていくのを感じながら、今度は僕が踵を返した彼の肩を掴む。すると彼は「マジ」とそれだけ言ってふっと笑った。
「……ゴムある?」
「いいえ?」
「……もう一回言うよ。マジで言ってんの?」
「はい。……そんな怯えた顔すんなよ。ちょっとボディチェックするだけだ」
「なにそのエロい表現」
「人並みにエロいからな。お前はイヤホンとかで耳塞いでろ。発狂して死ぬから」
「キミは邪神かなにかですか?」
「部分的にそう」
「ねえこれ水平思考クイズ? 人肉食べたからオチ?」
「正解は……CMの後だ」
「バラエティ番組かって」
 そのまま王を抱いてパーテーションウォールの向こうに消えて行った彼の背中を見送ってしまったことで、僕の思考は暗転。どうしてこんなにすんなりと許容してしまったんだ、と自分自身に愕然としながらも、僕も彼に許容を強いていた自覚はあるので当然の結果とも言える。
「アイツ……暗示が使えるんじゃないか?」
 頭を抱えながらソファに戻り、一応は言われた通りにイヤホンで耳を塞ぐ。確かに喘ぎ声でも聞こえてきたら発狂ものだ。いや、でも聞きたいかもな……と一抹の欲ぼけを発生させながらも、何を聴いたらいいのか思いつかなくて急いでラジオ放送を選択してチャンネルを変えていく。トラフィックチャンネル。コメディアンの深夜ラジオ。大学教授を呼んだ教養番組。俳優ゲスト回の投書コーナー。「どしどしご応募ください」……の、「どしどし」という表現は他で使わないよなあ……と思いつつ、なんとなく耳を傾ける。今日のテーマは恋愛相談。「最初のお便りはこちら」(SE)「ラジオネーム『ひまわり』さん。私には気になっている人がいます。もうずっと片想いをしていて、アプローチもしている筈なのに一切振り向いて貰えません。このままでは彼が他の人と結婚してしまうのではないかと日々焦っています。どうかアドバイスをいただきたいです。……とのことで、ウォンさんご回答をお願いします!」(SE)「うーん、いっそのこと別の人とヤッちゃえばいいんじゃないの?」「ちょっと、深夜だからって……好感度に響きますよ?」「僕は元々こういうキャラだからいいんですよ。もっとこう、醸し出していかないと。猥談キャラで冠番組とか欲しいし」「野心やばいなー。で、そのこころは?」「欲求不満はよくないじゃないですか?」「ここで言うことじゃないでしょ」「ついでに押してダメなら引いてみろ、ってね」「そっち先に言って欲しかったなー」
……引いてもいいことないんですが? と思いながら、コンビニでビールと一緒に買っていたチャイニーズ・ウイスキーの小瓶を開けた。グラスに注ぎ、舐めながら毒舌の俳優といい声のパーソナリティのやりとりをそのまま流す。聴いてはいないが、耳は塞がる。ああもうどうしたらいいですか、マイフレンド。「え? 僕に言ってるの?」そうですよ殿下。「まあ、キミの場合は……いや、やめておこう。泣いちゃうだろうし」泣きませんよ。もう、誰の味方なんですか。「僕はね、妹の味方。兄様だからね」その妹さんの味方さんは、この局面をどうお考えですか。「僕は正直なところ妹が幸せならなんでもいいのさ。最近のあの子はニコニコしていて可愛いね」まあ……それは、そうですね。「聞きなさい、ラドレ。すべての生きとし生けるものには暗中模索の自由がある。それはキミも、あの子も、あの狼くんも同じだ。見つけたいものは自分で駆けずり回って探すんだ。疲れたらあの子の隣で癒してほしいけど、僕の傍も空けておくから。だから。僕はなにも教えないよ、マイフレンド。夜道には気をつけて。では、一旦CMです」──待って。
 誰かが僕の手元のグラスをひったくった。顔を上げるとハリエットが残りのウイスキーを一気に飲み干したところで、僕はイヤホンを外す。世界に音が戻ってくる。
「その、ダウナー系アル中の飲み方やめろよな」
 そう言ってハリエットは僕の隣に腰を下ろしてテーブルの上のボトルを手に取ると、直に飲み始めた。「あー、タバコ吸いてえ」と漏らす彼からはふわりと王の香りがする。だが、不愉快ではない。
「え、早くない? 早漏?」
「馬鹿言え。……ほら、もう寝たから行ってやれ」
 ハリエットは顎でベッドルームを指すと、長い脚を組んで膝の上に頬杖をついた。その気怠そうな雰囲気が事後のそれのように思えて、ついじろじろと観察してしまう。
「なにもしてないと思うか?」
 彼は笑う。なんともまあ、落ち着いた色気のある男だ。間接照明のちいさな暖色が、彼の氷のような睛を琥珀色に照りつかせているさまは美しく、大理石から彫り出されたかのような肉体美も相俟ってなにか神聖な生き物のようにも思える。
「……触った?」
「はい」
「舐めた?」
「はい」
「それはあなたがイヌ科であることに関係しますか?」
「部分的にそう」
 しかしどれだけ美しかろうと猥談で台無しだ。
「……最悪」
 そう吐き捨てながらも、これは男同士でしかできない話だなとも思う。きっと王の中で未だハリエットは身奇麗ないい男に違いないが、実際はこんなものだ。僕も王に麗しいと褒められるが、セックスは大好きだし実のところ下ネタも好む。そんなものなのだ。
「お前の発想の方が最悪だよ。揚げバターでも食ってろイエイヌがよ」
「最悪の胃もたれさせんなし。……ねえ聞きたいんだけどさ、やっぱりイヌ科として舐めたい使命感みたいなのってある?」
「そりゃあ、まあ。本能だろそこは」
「何回いかせた?」
 するとハリエットは両手の中指を立てた。
「わあ、超えないように義理立てしてくれたのかな? それとも二回が限界?」
「前戯と本番比べて虚しくならないか?」
「そういうことは本番してから言ってくれる?」
「してないと言ったか?」
「……ファック!」
 やっぱり僕には忍耐力がない。王が僕以外の男と寝るのも一種のスパイスとして捉え、大人の余裕で受け入れていこうと思ったが、無理だった。立ち上がってベッドルームに駆けていくさなか、背後から「ファックはファックだな」と呑気な声が聞こえるのにもう一度「ファック!」と返して、寝室奥のベッドの上ですやすやと寝息を立てている小さな塊からコンフォーターを剥ぎ取る。
 しかし王の着衣には乱れがないどころか、その下のシーツにですら真新しいハリがあった。マットレスには若干沈んだような形跡はあるが、性的なことをしたらしい痕跡は見当たらない。
「嘘吐き!」
 居室とベッドルームを隔てるパーテーションウォールの内に入ってきたハリエットに強い語気でそう指摘すると、彼は笑いながら自分のベッドに腰を下ろして「狼ってのは大概は嘘吐きだろう」と肩を竦めた。
「あまのじゃくめ……」
「お前には負けるさ」
 そして彼がリーディングライトを消して横になったので、僕も王の隣に潜り込む。ほんのりと温いシーツからは彼のクチナシの香りがして落ち着かないが、そう思ったのも束の間、カーテンの隙間から及ぶネオン光を孕んだ藍色を眺めているうちに、僕の意識もちらちらと揺れながら闇に溶けた。

 広告塔である僕にとって、装うことはなにより大切だ。
 スーツスタイルのごちゃごちゃとしたルールは面倒だし、僕くらいメディア露出があると二度は同じものを着られないしで、なにもかもがしゃらくさい。だが、それでも僕は広告塔だ。社交の場ではきっちりきっかり二枚目のツラで一枚目を全うし、ご婦人には夢を売り、野郎からは反感を買いながらも「俺には気安く接してくれるんだよ、アイツ。可愛いとこあるんだよ」と調子に乗らせなくてはならない。
 正直、そんな役回りには承服いたしかねる。しかし僕はかの伝説的ファッションデザイナー、椿屋霧雨にならぶ『シンデレラ・ボーイ』ということになっているのだからそれを演じるほかないのだ。それって王子様じゃなくて男の姫だろ……と思わなくもないが、文句は飲み込んで武装を整えていく。今日のディナー・ジャケットはファンシーな誂えのガラシャ・レンゼン謹製。これだけの魂込められた作品が一晩だけの命と思うと(金銭的にも)悔しいが、見るだけで楽しく、クローゼットが潤う予感があるので溜飲を下げる。
 服装が整ったら次は髪だ。意を決して前髪を上げる。普段は極力晒したくない顔面を剥き出しにしながら髪を結い、整髪料と櫛で整えていると、洗面所にハリエットが入ってきた。そして髪をセットしている僕を見て彼は「はいはいカッコイカッコイ」と雑極まりない感想を述べると、隣に立ってハードジェルを手に出したようだった。ならば場所を譲ってやろうかと、僕が半歩横にずれたその瞬間、彼は一気に前髪を掻き上げ後ろに撫でつけて、そそくさと手を洗い始めるではないか。
「え……終わり?」
 驚く僕の視線を受けて、彼は「あ? 終わりだよ」と不機嫌な返事をする。普段の前髪を少し垂らしたアップバングスタイルではなく、フォーマルな印象のオールバックも彼にはとてもよく似合っていた。
「ガッてやって、終わり?」
「そうだよ。悪いか?」
「くうう……手の掛からないイケメンってムカつくな!」
「俺はなにかあったら武力行使をするだけだからな。特に今回はボスを際立たせる霞草の気持ちでいるんでよろしく」
「そんなデカくてハンサムな霞草があってたまるかよ」
 仕上げとしてブラックスーツのよく似合う彼の首に、弊社のエージェント証明であるスカーフを巻いてやる。これは特殊な造りをしていて、発光機能や位置情報発信機能もついている弊社オリジナルの社員向け商品だ。止血にも使えるし、防火加工もしてあるのでちょっとした小火も防ぐことができる。僕も今回はこれをボウタイ代わりにしていた。
「なんか嬉しくないな、野郎にタイ巻かれるの」
「僕も巻きたくないよ。でも王にやらせたらキミが絞め殺されちゃうから」
 はいできました、と彼の肩を叩く。すると彼が「延命に感謝する」と言って行儀よく敬礼をするので、つい笑ってしまう。
「狼に首輪ついてるの、なんか面白いな。ハーネス買ってあげようか? ああ、エリザベスカラーでもいいな」
「タマ取る気か?」
「うん。チョッキンと」
「お前も取ったほうがいいぞ」
「あー、取った方が楽かも」
「気性が穏やかになるしな」
「僕はいつも穏やかでしょうが……まあ夜は獰猛だけど」
「抜かせ」
 そんな下世話な会話をしながら部屋に戻ると、そこには花の妖精がいた。
 これは誇張ではない。そのアイスブルーのドレスに身を包んだ王は、まさに『ひとならざるもの』としか言いようのない美しさを湛えていた。
 既に目が眩みきっているのか、視界に光溢れるエフェクトがかかるなか、王は無邪気にその場でくるりと回ってみせてくれた。ふんわりと靡く肩出しのティアードフレアスリーブが過剰ともいえるプリンセス感を演出しながらも、胸元から腿にかけては長身を活かしたすらりとタイトなつくりで、ガラシャのボディオタク根性の結晶ともいえるほど、その玉体にぴたりと沿っている。そして裾はふんわりとボリュームのあるマーメイドライン。そしてあちこちにあしらわれた花のモチーフは、最新の素材なのかまるで生花のような瑞々しさを放っている。まさに『お花』だ。いや、全体を捉えるならば『花園』か。これでドレスの色が純白だったのなら、僕は「お嫁に行かないで!」と王の足元に縋りつき涙していたことだろう。
「フィアンセになりたい……!」
 行かないで……ではなく立候補の意気が口から溢れる。それとほぼ同時にハリエットは、一歩前に出て仰々しく膝を折りながらも、
「俺をフィアンセにしてくれないか」
 と強気に乗り出した。希望を口にするのではなく進言という選択を取った彼は、間違いなく手強い。しかも「雄役も雌役も、両方喜んでやろう。好きな方を選ぶといい」と王にとっての好条件まで提示する。
 すると王は顔を赤くして縮こまるかと思いきや、ふふ、と麗しく微笑んで言った。
「フィアンセですか……いましたね、わたくしにも」
 その言葉に目を剥いたのは僕だけではない筈だ。
「ちょっと、その話はしないで」
 そう制してから振り向くと、案の定ハリエットが驚くほど険しい顔をして黙り込んでいた。虎の尾を踏んだのが王だからこそ、そしてそれを誘発したのが僕と彼だからこそ、そうして何も言わずに自分を律していることが窺えたので、僕は思わず笑ってしまう。狼のくせ、よく躾られているじゃないか。
 彼はゆっくりと僕の腕を掴むと、後ろを向かせて肩を組んできた。筋肉の一枚一枚がデカいな……と思いながら、「どういうことだ」と問うてくる彼の声量に合わせた控えめなトーンで返事をする。
「いや……王なんだからお妃が要るよねってだけの話なんだけど……」
「聞かせろ」彼は眉間に深刻な皺を刻んだままだ。
「はぁ……あるとき、珍しく王に呼び出されたと思ったら『この中から一枚引きなさい』って複数枚のカードを目の前に翳されてね。なにかゲームでもするのかと思って適当に引いたら、なんとお見合い写真だったんだ。で、王も『ではこの者にします』とか言い出して……」
「……そいつに決まったのか」
「……そう。僕はもう焦って焦って……頼むからせめて真剣に決めてくれって訴えたんだけど、誰だろうと同じとしか言われなかった。カードは見せて貰ったけど、皆美男美女で血筋も経歴も申し分ない人たちだったから、まぁ確かに同じだなとは思ったよ。……で、フィアンセの誕生。でも婚姻する前にクーデターが起こったから、結局意味がなかったんだけどね」
「自分にしろ、って言わなかったのか。お前は」
「はは……僕、王に興味持たれてなかったから」
「お前に選ばせたんなら、興味ないことはないだろ」
「……事実陳列大好きだよね、キミ。こっちは情緒削り散らかしてなんとか飲み込んでるのに。荒らさないでよ」
「違うな。逆張りは生存戦略だからだ。俺も、お前も、そうなんだよ」
 自分から僕の肩を組んだくせ、乱暴に突き放したハリエットは、王を振り返ると「ご検討いただけたか?」と笑った。途端、王は言葉にならない声に口をもごもご動かして、さっきとは打って変わって可愛らしい恥じらいをみせると、僕の元にひらひらと駆け寄ってきて「髪、かわいく、してください」と胸に頭を擦り付けてきた。そしてハリエットと一緒に王の髪をセットする。てきぱきと動く彼の手は、慣れているのか存外に器用だった。

 王の写真を撮りまくっていたせいで、会場入りが予定よりも遅れてしまった。エレベーターの中で先ほど撮ったばかりの写真をホーム画面に設定し、ほくほくの気持ちで王に腕を組むように促せば、僕の腕に手を添えた王が「がんばれ、ラドレ」と微笑んでくれた。それだけで僕の心はやる気に満ち溢れ、即座にビジネスマンとしての気が引き締まる。
「お嬢ちゃん、俺にも」
 背後のハリエットが存在を主張してきたので雰囲気は些かか崩れたが、これで僕は『大丈夫』だ。この戦場では逃げ出さずにいられる。
 ゴシップ誌やセレブ誌に撮られながらも受付を済ませ会場入りを果たすと、招待客らの視線が一斉にこちらを向いた。もう慣れ切った視線だが、不愉快であることには変わりない。会場入りからまだ一分と経っていないのに帰りたい気持ちで胸は満ち満ち、鳩尾の辺りにガスが溜まるような感覚に嘔吐きたくなるのを堪える。王が優美にひらひらと手を振って歩いているのを見て、可愛いなあ……と癒されもするが、あまり見てもいけない。僕たちは単なるビジネスパートナーの関係だという空気が業界内で勝手に醸成されており、そのせいで何度ペアリングの買えない悔しさに地団駄を踏んだかわからない。
 DVS社の代表ふたりはお互いに性に奔放。絵に描いたようなセレブリティ・ライフ。……掲げてもいないものを掲げていることにされ、掲げないといけないことにされ、イメージ戦略として欲しくもない高級車を買わされ、時計なんてスマホやスマートウォッチでいいのによく分からないギンギラのものを買わされ、スタバのコーヒーを買えば案外庶民的だと囃された。飲ませろよスタバのコーヒーくらい! 食わせろよキッチンカーのホットドッグくらい! 頭が爆発しそうなほどのストレスに見舞われて死にそうだったとき、王が眼鏡を贈ってくれた。
「わたくしがつくりました」……と渡されたのは金縁の丸眼鏡だった。「認識阻害と魔眼の抑制機能をつけてあります。電脳アクセスも可能ですし、おまけでレンズカラーを変える機能もつけておきました。好きにカスタムしなさい」王は機械音痴に見えるが、それは人間界の機器に不慣れなのと手先の器用さに些かの問題を抱えているからであって、本人の資質としては科学者としても優秀な一面を持っていた。それは王の『生家』に由来する能力なのだろう。「もっと早くに渡したかったのですが、この手は不器用なので……ごめんなさい。細かいプログラミングと組み立てはコバコくんにお願いしました」と、さりげなく『FM』の宝飾デザイナーである花厳小箱かざりこばこも関わっていることを告げられたそれは、僕にとてもよく似合って、なにより僕を楽にしてくれた。
 その大切な眼鏡を、今は掛けていない。それが仕事だからだ。
「いやあ、ラドレさん。相変わらず顔がいい! 最近お見掛けしませんでしたが、相変わらず派手に遊んでらっしゃるんですか?」
「はは、まあぼちぼちやらせてもらってますよ」
「レディは新しい恋人でも?」
「ふふ、どうでしょう」
 それは仕事に関係ないだろうが……というのはまだいい。そもそも、どうしてこことここが付き合っていないことになっているのかが心底理解できない。どんなに疲れていても最低でも週三日はセックスしてるし毎日ちゅっちゅちゅっちゅとキスしてんだよバーカ! というかこのツラが並んだらどう考えてもヤッてるだろうがバーカ! と、思うが、口には出さない。出せない。
「なんでだと思う?」
 下世話で僕たちと仲良くしていると思い込んでいるであろう奴らから解放されたあと、ハリエットにそのことを問うてみた。サングラスを掛けて黒子に徹している自称霞草の彼は、手を後ろに組んだまま、
「そりゃあお前、それはできすぎって思われてんだろ」
 と言った。
「できすぎ?」
「美男美女が円満に付き合ってたらある意味で夢が壊れるんだよ。どうせそこですかっつってな。俺らが頑張っても百の幸福なのになんでお前らはベーシックに二百なんだよって。そんなん無くて当たり前だって思わないとやってけない。ドラマはドラマの中での出来事で、現実にないから楽しめる。現実にあったら誰もが『それはできすぎだ』って一旦は思うだろ。現実は違うんだよなーって嘲笑を、案外ヒトは好んでるんだ。まあ見かけの話でしかないが」
「なるほど……」
 彼の意見は的を得ているような気がする。
「だからつまり、美女と野獣であるお嬢ちゃんと俺は世間的にもお似合いってことだ」
「いやそれ結局王子様じゃん」
 僕の指摘を無視して、ハリエットは「後で俺と一曲どうだい。呪いを解いてくれ」だなんて歯の浮く台詞で王を口説き始めたので、「ハティ、ステイ」と彼の眉間に人差し指を向ける。すると彼は無言で肩を竦めて一歩下がった。
「はあ……おにくの匂いがします。はやく食べたいです」
 口説かれたことに気づいていないらしい王の意識は、どうやらビュッフェワゴンのある辺りに向いているらしく、うずうずと期待を手に込めはじめてくれたお陰で、腕を掴まれている僕はその指圧の痛みに声を上げそうになる。「王ちゃん、やさしく……」と指摘すると、王ははっとした様子で力を緩めてくれた。そして「ウォーウーラーでつい……」としおらしい声を上げる。弱気なのは本当に腹が減っているからだろう。そのすこし不機嫌な顔が可愛くて、思わずキスしてしまいたくなる。見せつけたくなる。しかしぐっと堪えて、「乾杯したらたくさん食べな」とその頬に触れるに留めた。
「なに食べたいの?」
「おにく! あと、あと、ええとですね……いろんなおにく……?」
 するとハリエットがサングラスの縁をタップし始めた。僕の眼鏡と似たような性能なのだろう。
「ここのホテルのビュッフェはローストビーフが人気らしいな。それと萬華樓からのケータリングで北京ダックもあるな。この店はグルメレビューサイト『チェルプ』でのクチコミ総数がおよそ五万件と飛び抜けている。それから、部位が選べてその場で焼いてくれる熟成肉のステーキ。これは内臓だがトリッパも名物なようだ。あとはオッソブーコ、三黄鶏サンファンヂーのスカロッピーネ……イタリア人シェフがいるらしいな」
 そしてそう細かく教えてくれたハリエットに、王は目を輝かせて「ぜーんぶ、食べます!」と彼の手を握る。それを見て僕だって眼鏡があれば……と思わなくもないが、なにより「一家に一台ハリエット」と内心所望してしまうのは、その行動に瞬発力があって言動が簡潔だからだ。弊社にいたらさぞ仕事が楽になることだろう。
 それから少しして、アナウンスが入ったのでカウンターでシャンパンを受け取ると、舞台袖に控えていたリウがこちらに向かって手を挙げたので、寄っていく。
「今宵もおふたりは迫力がありますね」
「ありますかねえ……あったら誰も寄って来ないと思うんですけどねえ……」
「平和に終わることを期待しましょう。期待するだけならタダですから」
 そう彼に誘導され、ステージ前の末席辺りの位置に立たされる。嫌な予感がする……と思いながら、できるだけ人の多いほうにハリエットを置いてその陰に隠れていると、バトがステージ上に姿を現した。シャンパンカラーで纏められたコーディネートと結われた金髪が艷麗で、リウの秘書としての手腕が存分に感じられる。これで私服がクソダサジャージだなんて、誰も思うまい。
 麗しい発声者の登壇に、周囲は熱を帯びた沈黙に包まれる。そして優雅にマイクのスイッチを入れた彼は、開口一番「話すこと、ないな。あんまり」と言って笑った。その思わぬ発言に、会場は更に引き締まった静寂を沈殿させ、誰も彼もが物音ひとつ立てずにバトの二の句を待っている。
「今日はね、まあ単に香港支社とショールームがオープンしたよってだけのパーティーなんだ。もう充分にお祝いの言葉とお金はいただいたし、紳士淑女の皆様のお洒落な装いもこれから酒を呑みながらじっくりと楽しめばいい。商品を売るのは広報と販売スタッフだし、作ったのは開発チームと工場のひとたちだし、胃をキリキリさせたのは各管理職とボクの秘書だ。正直僕が話すことなんてあんまりない。したこともあんまりない。だからエンジニアの誰かをここに呼んだ方が有意義な時間を提供できるとは、思う。でもボクは一応首席なもんで、タイムスケジュールの指示にしたがって、皆様の時間を潰させていただこう」

 では、一部の人は聞き飽きているであろうボクの話をしようか。
 ボクは八托バト。生まれはサンフランシスコのチャイナタウン。育ちもサンフランシスコのチャイナタウン。そう、ボクはこの国の生まれじゃないし、向こうをホームと謳えば必ず誰かが意義を唱える……そんなどこにも居場所のなかったおめでたい男さ。
 ボクは箱中華みたいなものさ。皆さんも見たことがあるだろう? 赤金のド派手なカラーをした舞獅のマスコットがプリントされた箱中華。こっちじゃまず見かけないけど、映画を観れば仕事に疲れたFBIが食べてるアレ。本場の人間からすれば「あんなの中国料理じゃない」だろうし、外国人からすれば「よくわからないけれどあれがチャイニーズなんだろ?」って。どこにも市民権の無かった、あのあまーい味付けのチェーン店。
 アレが、ボクは嫌いだった。
 見かけると嫌な気分になった。どこにも馴染めない自分みたいで。チャイナタウンのけして広くない敷地の中の、これまたちいさなちいさな商店の二階で生まれたボクは、家の仕事を手伝いながら子供時代を過ごした。家業と呼ぶにはしょうもないその『常に流行りのものを扱う店』で、読み書きを覚えるより先に不定期に入れ替わるマニュアルへの対処法を学んだボクは、商魂だけは逞しいなまっちろいガキに育った。首からタピオカミルクティーのばんじゅうをぶら下げて売り回ったこともあったよ。あ、ここ笑うとこね。流行りものの店って、別に父に上昇志向とか先見の明があったわけじゃない。単にマフィアのシノギだった。市場調査用の先行販売店舗さ。商品がコロコロ変わるから常連客もつかず、ただ他所の人間相手に数を売る。同じコミュニティの人たちにも煙たがられるようなグレーゾーンで、ボクは一生そうやって、薄利多売で、生きていくんだと思ってた。
 まず母が過労で死んだ。父は商業組合で因縁をつけられケンカになって、運悪く業務用冷蔵庫の角に頭を打って死んだ。綺麗で優しかった姉さんは身を守るために全身に刺青を入れた。好きな男がいたのにね。それからボクたちはきょうだいふたりで、ひたすら流行りものを売った。「本国では流行ってない」「本国で食べるやつはいない」「よくわからないけど向こうでは有名なんだろ」「アジア人が売ってるんだから本場製品なんだろ」……別に異議なんてなかった。売れと脅されたものを売れればよかった。
 ある日、売り込みから戻ると店で姉さんが死んでた。頭に一発。多分、即死。その場には銃が一丁、落ちてた。白昼堂々荒らされた店内。レジから金が抜かれていて、わかりやすい強盗だった。人通りの多い通りに面していたのに。絶対になにかあったというのに。警察も救急車もマフィアも、野次馬ですら来ていなかった。
 ボクは。
 その銃を拾って逃げた。
 それを売るために。生きるために。
 ボクには売る力がある。毎朝ばんじゅうに詰んだ商品は絶対に空にして戻ってきていたからね。まあピンハネされちゃうから食う分しか稼げなかったけど。
 まずボクが売ったのは線条痕の入った弾丸だ。ここにいる皆さんならご存知だろうけど、線条痕は銃の指紋のようなものだ。それを見知らぬ可哀想な正当防衛者に売った。汚ねえオヤジの死体を前に愕然としていたのは、ボクと同じ、グレーゾーンでしか生きてこられなかったであろう女の子だった。彼女は身体で稼いだであろうなけなしの金をボクにくれた。時間稼ぎ程度にしかならないその現場を掻き乱す異質物で……身重に見えた彼女が逃げきれたかはわからないけど、まあとにかく売れた。万々歳だ。その金で僕はシリコンとブロックとレジンを買った。そして銃の型を取って、玩具の銃を量産して売った。ボクは口が上手いからね。子供なんてちょろいちょろい。それからスマホを買った。おもちゃをネットで売った。動画サイトで勉強して、読み書きができるようになってからは早かった。ボクにはコピーライターの才能があったみたいでね。色々なものを作って売ったよ。そしてボクは銃の密造に手を出した。原型は勿論あの銃だよ。シリアルナンバーも線条痕も全部同じそれを、ボクはとにかく売りに売った。
 そうしていつのまにかあの街のマフィアは消えた。なんでだろうね?
 結局、あの銃そのものは売れなかった。まだボクの手元にある。売る必要がなくなるほどボクは稼いで、オリジナルの銃器メーカーも立ち上げて、あれよあれよと業界トップさ。どうだい、すごいだろう?
 売れればいい。でもモノが愛されなければ売れはしない。箱中華と同様に、永く皆さまに愛していただくためにボクがお届けしたいのは、パチモンじゃない上質な逸品。国籍なくとも良ければイイの!

「そう理念を掲げた商売上手なボクが『本気で売るぞ』と開発した気合いの入ったマジでイイモノ。それがこちらのシリーズです!」
 バトが指を鳴らすと、突如として煌びやかな衣装を纏った美男美女が、その最新鋭の装備を携帯し、新作の乗ったワゴンを手にホールに入ってきた。随分とド派手なパフォーマンスだが、遠目にも銃オタクが反応する程度には良い品らしい。背後のハリエットが「欲しい」と前のめりになるのを「後でね」と制しながら、商品の整列を待つ。
「どうぞ皆々様、お手に取ってご覧ください。我が社の粋を極め贅を尽くしたこの商品。香港支社オープン記念先行販売です! ぜひご予約を! さあ、愛し愛され生き残ろうぜ!」
 最後にキャッチコピーを叫んで乾杯のコールとした彼に、会場から万雷の拍手が送られる。毎回泣かせにくるこのエピソードだが、一番効いているのはバトの秘書であるリウだ。グレーのハンカチで目元を押さえているのは毎回恒例。よくもまあ毎回泣けるものだと感心するが、それも仕方のないことだろう。彼はバトが救った正当防衛者の息子なのだから。
「おにくたべます!」
 アメリカン・ドリームの塊のような男の商品に群がる関係者たちから、逆走するようにして王はビュッフェのワゴンへと突撃していく。なるほど、賢い。僕もそれを追いたかったが、その瞬間スクリーンに『協賛企業様』として弊社のロゴと僕の顔がでかでかと表示されてしまったため、一瞬、会場が水を打ったように静まり返った。次の瞬間、わっと黄色い声。そしてすぐにご婦人方がこちらに突っ込まんばかりの勢いで寄ってくる。
「おい、バト! あんなに写真でかくする必要なかっただろ!」
 揉みくちゃにされながら、リウの傍に寄っていく途中のバトに向かって叫ぶと、「いやー、使えるものは使わないと。宣伝頼んだよ」と御利益のありそうな微笑で流されてしまった。
「くっ、宣伝させるなら金をくれ……!」
「完全成果報酬ね」
「外部委託料も払えよ!」
 権利の主張をする僕の傍で、ハリエットはてきぱきとご婦人方の列形成をしている。真面目に仕事をしているかと思いきや、彼はサングラスの下でめちゃくちゃ笑っていた。この野郎。そのサングラスを外して巻き込んでやろうか……と思いつつも、それでは効率が悪い。
「ハティ、僕はいいから王をお願い! 銃は後で買ってあげるから!」
 と呼び掛けると、彼は「絶対の絶対だぞ」と子供のようなことを言いながら、王の背中を追って人波に消えた。
 それからご婦人方の相手をし、その指先にキスをしまくり唇を擦り切らせ、そのパートナーである他企業の重役をはじめとしたゲストに商品を売りつけ、時折因縁をつけられながら客を捌き続けて小一時間。やっとのことで解放された。リウがサポートしてくれたから良いものを、そうでなかったら僕は神経性胃炎かなにかで死にかけていたに違いない。
「マジ殴るアイツほんと……」
 膝に手を突きながらストレス由来の吐き気に息を切らしていると、リウが「まあ一発くらいなら」と僕にシャンパンのグラスを手渡してくれた。それを「乾杯ガンベイ」と掲げて飲み干し、彼に問う。
「リウさん、お母様はお元気ですか?」
 すると彼は微笑んで言った。
「ええ。今は恋人と世界一周旅行中です」
「それはなにより」
 そしてバンケットスタッフにグラスを渡して、僕も王の姿を探す。長身のハリエットの頭さえ見つかれば……と辺りを見渡していると、唐突にガラスの割れる音がした。振り返ってそちらを見ると、メイド服を着た小柄な女性スタッフが、床に砕け散ったグラスを前に膝を突いておろおろとしている。周りは誰も気付いていないのか、無視をしているのか、誰も彼女を見ていない。先程のバトの話を聞いて、誰からも見て貰えない存在を放っておける筈もなく、僕は彼女の前に膝を折ると、散らばったガラスを拾う手伝いを始めた。
「……大丈夫? 怪我、してない?」
「だっ、大丈夫、です……あ、あの、ありがとうございます」
 鈴の転がるような声だ。腹から声を出すことに慣れていないような、か弱い発声。突然のアクシデントに怯えているのだろう。脅かさないように、穏やかな態度を心掛ける。
「どういたしまして。薄いグラスって、綺麗だけど割れやすいよね……」
 言いながら、銀盆の上にガラスの破片を集めると、近くを歩いていたスタッフを呼び寄せてグラスを割ってしまったことと念の為掃除機なりで吸った方がいいことを伝える。そして銀盆をスタッフに手渡して彼女を振り返ったそのとき、初めてその顔を見た。
……可愛い、と思った。
 目を奪われていることを自覚しながら見下ろした彼女は、本当に小さかった。身長は一五〇センチ程度だろうか。広い額の真ん中で分けられ、頬の下あたりで切り揃えられた前髪はたしか、姫カット、と言うのだったか。長い黒髪は絹糸のように細く、一枚の反物のように纏まって揺れる。おおきな睛には気弱さが滲み、困った筋肉をしたちいさな眉や、小さいがけして低くはない鼻、それから花弁のように可憐なくちびるが、その薄氷のように脆い雰囲気をある意味で補強するかのようだ。そして首や手首は小枝ほど細いのに、メイド服の下の骨格はほどよい曲線を描いていた。……可愛い。何度も繰り返したくなるほど、可愛い。
「す、すみませんでした……お客様に手伝わせてしまって……」
 何度も頭を下げる彼女に、なんとか喉奥から「気にしないで」と絞り出して返す。なんというか、僕は動揺していた。清らかという言葉が人のかたちをとっているのではないかと思えるほど、彼女の周りには澄んだオーラが満ち満ちていて、そばにいるだけで心が浄化されていくような感覚にとらわれていた。その前後不覚になるほどの癒しに夢中になって、僕は彼女が手指から出血していることに気づくのが遅れてしまった。「失礼」と声を掛けてその手を取ると、ハンカチを取り出して傷口の止血をする。なんともまあちいさく華奢な手だ。これが白魚のような手というのだろうと腑に落ちながら、もう一度彼女の顔を覗き込む。
「大丈夫? 痛い?」
「えっ、あ、大丈夫、です……」
 怯える姿も小動物のような可愛さで、胸を突く。僕みたいな大男を前にした失態に、彼女は恐縮しきってしまっているようで、それを可哀想に思いながらも、僕は彼女の背に手を添えることが止められない。セクハラ野郎に堕していくことへの恐れと、絶対に連絡先を交換したいという薄暗い願いで、己の手がただただ汚れていくのを感じながら、僕は。
「ちゃんと手当しないと。付き添うよ」
 と微笑む。

「……ほら、ちゃんと立って」
 震える骨盤を鷲掴みにしながら、今にもくずおれそうな脚を支えて立たせる。つま先立ちギリギリの彼女のちいさな身体はやわらかく、ちょっといじめただけで可愛らしく反応してくれるものだから堪らない。
「……彼氏、いるの?」
 非常階段。大きな月。手摺りの錆で汚れるエプロン。もう遅い問いが夜風に絡まって飛んでいく。返事をしたくても言葉がうまく声にならないらしく、彼女はただただちいさな頭を横に振りながら、僕にされるがままになっていた。体格差からか彼女は苦しげで、その可愛らしい呻きに欲望が刺激されていく。そのすべてにかぶりつきたい、この欲。それは食欲だろうか。性欲だろうか。征服欲だろうか。支配欲だろうか。庇護欲だろうか。
 はたまた、自殺願望だろうか。
 脱ぎ捨てた上着の懐でスマホが鳴った気がするが、気のせいかもしれない。たぶん、そうだ。

   ✱

 護衛には慣れている。しかし好きな子を守ることには慣れていない。
 俺が追いついたとき、お嬢ちゃんはビュッフェのローストビーフを切り分けているシェフに向かって「もうひと声!」と可愛らしく増量を要請している最中だった。
「ご要望は通りましたか、レディ」
 顔が見えなくてもニコニコしていることがわかるその背中に声を掛けると、彼女は「ええ、通りました!」と予想以上の笑顔で俺を振り返った。他者の人生の華やぎを約束するその極めて可愛らしい笑顔に吐胸を突かれて、一瞬、世界の重力そのものが揺らいだ気がした。
 お嬢ちゃんの手にした皿の上には、ワイルドなステーキほど重量のありそうなローストビーフの山ができていた。一体何度「もうひと声」と強請ればこの量になるのだろうか。いや、お嬢ちゃんが強請れば一発なのだろう。そのくらい、彼女の笑顔には魔力があった。
「モウヒトコエ、便利な言葉ですね」
 どこまでも悠長なその態度は、彼女の強さから成るのだろう。しかし根本の部分で、人から加害されるとは思っていないというか、人から加害されたとてどうということはないと思っているというか、とにかく彼女が自分自身に無頓着である点については、不健康であると評価をせざるを得ない。それについては、監視を始めてからずっと不安に感じていたのだが、前回その一部が剥き出しになったことで、疑念がより一層深まった。──彼女は、自分自身を嫌っているのではないか?
「その言葉を使うのがキミだからだ」
 意識を切り替え、事実を陳列。口説いているわけではないが、口説きたいとは常々。俺の言葉の意図するところは汲みとれなかったらしい彼女は「むん?」と小首を傾げると、バンケットスタッフからキール・ロワイヤルを受け取り、優美な所作でそれを口にしながら辺りを見渡したようだった。
「ふふ、今のうちに食べないと」
 その肉とソースで重たい皿を持ってやりながら、俺も周囲を確認する。まだビュッフェエリアには人が少なく、しばらくはゆっくりと食事をさせてあげることができそうだ。
「はい、あーん」
 ふと、胸の辺りからそんな声が聞こえてきたのでそちらを見下ろすと、彼女が俺の口元に肉の刺さったフォークを寄せて微笑んでいた。どうやら食べさせてくれるつもりらしいが、それを断る。
「SPが一緒に食事をするわけにはいかない。仕事中だ」
「わたくしもお仕事中ですよ。……もう、ゾエみたいなことを言うのですね」
 そう言ってぱくりと自分の口に肉を放り込んだお嬢ちゃんは、途端にぱっと顔を輝かせると、そのままぱくぱくと気持ちのいい速度でローストビーフを食べ始めた。
 しかし肉と酒を気持ちよく食べられたのは十数分間程度だった。彼女が意気揚々と北京ダックを貰いに行こうとした瞬間、「レディ・L?」と声が掛かった。見ると複数人の男性参加者が距離を詰めてくるところで、彼女は一瞬俺を振り返って顰め面をすると、すぐにビジネスモードに入ったのか、落ち着いたトーンで「お久しぶりですね」と彼らに向き直ると、その相手を始めた。
「ええ、奇遇ですね。またお会いするだなんて」「まあ、お上手ですね」「うちのラドレですか? あちらでレディのお相手をさせています。ビジネスチャンスですから。ふふ」「あら、夫人は? ああ、うちの子のところに。ご安心くださいませね。幾ら夫人が魅力的でも口説いたりはいたしませんから」「まあ、光栄です。ではのちほどご招待メールを送りますね。こちらのご連絡先でよろしいでしょうか?」「その条件ですと……ふふ、勿論特別に再計算したものを送ります」「ええ、ではまた。次はじっくり腰を据えて……」
 都度彼女から預かった名刺の数々が、みるみるうちに分厚い束を成していくことに驚きを禁じ得ないが、更に驚くべき点は、アイツの言っていたことが本当だったことだ。
「どうせ王の乳とのみ会話をしていく鼻の下を伸ばしたカスが多い」……まさにその通りだった。奴らは彼女の胸元のみを注視し、会話し、ときには腰やら肩やらに触れようとして、去っていく。こんなに露骨なのかと不快に思うたびに、彼女との距離を一歩一歩詰めた結果、最終的には彼女の背中にぴたりとくっつくことになってしまった。何度咳払いで威圧したかわからない。確かに彼女は魅惑的な肉体をしているが、それは性的な興味があるからといって消費していいものではないのだ。
 人が捌けたあと、比較的紳士的に接してきた者と、そうでない者の名刺を分けて渡すと、彼女は「あら、よくわかっているではありませんか」と微笑んで、それらをクラッチバッグにしまい込んだ。
「ああ、ウォーウーラです。なにたべようかな」
 確かに、今消費した精神的カロリーは相当なものだろう。幾らでも付き合うつもりその後に続くと、ふと彼女が足を止めた。そして「あら、あのおなご、可愛いらしいですね……」と呟いたその視線の先を辿ると、そこには小柄なメイド。見るからに気弱そうな感じのする女だが、ああいうのに限って強かだ。お嬢ちゃんに視線を戻して「小柄すぎやしないか」と感想を口にすると「あなたと比べたら大概の人は小柄ですよ」と笑われてしまった。
「北京ダックのおにくもたべたいな。おにくはどこにいくのかな。きっと冒険にでてゆくのね」
 小声でそんな歌をうたう彼女に付き添って、北京ダックの列に並んでいると、ふとラドレの姿が見えた。背が高いのと顔の派手さでよく目立つ。向こうも俺のことをでかくて目立つと思っているはずなので、手を挙げてここにいると知らせるべきか……とその行方を目で追っていると、ふと彼がだれか女の手を引いて出口へと向かっていることに気がついた。メイド服に黒髪の、さっきのちいさな女……。
 不味い、と思った。咄嗟にお嬢ちゃんから見えないように身体で壁を作ろうとしたが、遅かったらしい。彼女は彼の消えた方向をじっ、と見つめていたが、やがて「……やっぱりおなかいっぱいかもしれません。ドレスがきついので、部屋に戻ります」
 としずかな声で俺に告げると、列から離れていってしまった。
 しまった。大失態だ。なんとしてでも見せるべきではなかった。……しかし今更後悔してもなにもかもが遅い。彼女の後を追って会場を離れ、エレベーターに乗り込む。ゴンドラのなか、ふたりきりだというのに彼女は無言。どうフォローしたらいいのか必死に頭を回すが、こんなのはマニュアルにないし、訓練でもやらない。
 無言の極地ともいえる沈黙を背負ったまま、彼女と部屋に戻ると、まず彼女から「背中、お願いします」とドレスのファスナーを下ろすよう求められた。その狭い肩に手を置き、尾骶骨辺りまであるそれを下ろしてやると、彼女は手早くドレスを脱いでスリップ姿になった。その脱ぎ散らかされたドレスを拾ってクローゼットに入れていると「髪も解いてもらえますか」と要請されたので、再び背後に回ってバレッタやピンを外していけば、しゅるりと密やかな音を立てて髪が落ちる。ふわりと広がる花束の香りに包まれたまま、なにも言えないまま、その場で次の指示を待っていると、彼女は俺を振り返り「お疲れ様でした。本日の業務は終了です」と微笑んだ。
「あとは好きに過ごしてください。あ、先にお風呂に入ってくれますか。わたくしは長いから……」
「……ん。わかった」
 今夜のところはとにかく言うことを聞いてそっとしておいてやるべきかと、彼女の言葉に従ってバスルームへと向かう。ジェルで撫でつけていた髪を乱してスカーフを解き、ジャケットを脱ぎ、ボディベルトも外して装備を解く。それから、シャツ。背中に固定していたナイフも鞘ごと抜いて、尻ポケットに入れていたスマホも取り出す。そこで少し迷ったのちに、ラドレに「今日は上がる」とだけ送った。勿論、すぐに既読なんてつかない。そしてスマホの充電が少ないことに気がついたので、充電をしておこうと一旦部屋に戻ると、お嬢ちゃんがひとりうろうろと歩き回っていた。片手で作ったちいさな拳を唇に宛て、その肘をもう片方の手のひらで支え持ちながら、彼女はうつむいたまま、部屋の中をぐるぐると歩き回っている。それはまるでストレス下にある馬が馬房内をぐるぐると歩き回る旋回癖のようで、俺は堪らず彼女を捕まえると、その背を壁に押し付けて唇を奪った。
 アイツのことを殺してやると思うたび、彼女への好意が膨らんだ。今までずっと、そうだった。ずっとだったからこそ、もう抱えきれないほどの質量になったそれは暴力的ともいえる熱を帯びていて、ここのところ俺は頭がどうにかしそうだった。対人関係における好意というものが暴力的であっていいはずがない。しかしそれを理性と倫理で己を律するたび、痛かった。膿んでいた。爛れていた。でも、キミが何気なく笑うと俺の心は嘘みたいに楽になる。俺が好きみたいに笑われると、狂いそうになる。キミのせいで俺は焼け焦げて、癒されて、しっちゃかめっちゃかで。
 見つけなければよかった。でも、見つけていない人生なんてもう有り得ない。もう俺は絶対に、ゼロ地点には戻らない。
「まって……、だめ、はずかしい……」
 彼女の着ていたスリップを床に落とし、下着のホックを外した途端、彼女は両手で顔を覆ってしまった。その手をゆっくりと解きほぐし額を合わせ、「どうして?」と問うてみる。すると彼女は震える手を胸の前で握り込むと、「あの子としかしたことがないの」と怯えた目で訴えてきた。「どうしたらいいのかわからない……」
「なにがわからない?」
「どこの処理場なのか……わからなくて、こわい……」
 こわい、の発声は、切実だった。このあいだ、彼女が「顔が可愛い」と言われることに怯えていたときの声とリンクして、俺の胸を、喉を、詰まらせる。
「……処理場って?」
「いろんな気持ちをそれぞれ処理するところ。たくさんあるの。たくさんあると楽だから」
「そうか。……いまはどんな気持ちなんだ?」
「言えない……」
 それはそうだろう。彼女は今こう感じているに違いない。……されたからやりかえすようで、気が引ける、と。
「そうか。じゃあ、嫌かどうか教えてくれ。キミが嫌なことを俺は絶対にしない。勿論、白黒はっきりさせなくてもいい。今は嫌だとか、考えたいとか、気持ちはグラデーションであって然るべきだ。処理場、たくさんあるんだろ? 業務提携だってできるはずだし、しているはずなんだ。俺は、キミの嫌悪の処理場の動向を最重要視する。だからそこと結びつくようなことをはっきり教えてくれると、ありがたい。……別に抱けなくたっていいんだ、俺は。一生抱けなくても、一生、好きだよ」
 俺の提案は、無様だったかもしれない。ゆっくり噛んで含めるように聞かせるつもりが、言葉が多くて美しくは纏まらない。報告書を書くのは得意なのに。しかも俺は今、好きって言ったか? あまりにも滑らかに出てしまったがゆえに、それを言ったかどうかですらあやふやになってしまった。俺、言ったか? 言ったのか? ああくそ、思い出せないのならそれを認めてフォローを入れるしかない。ジェントルマンでいろ、ハティ……。
「す、すまない、余計な一文が入った気がするが、気にしないでくれ。どうぞ引き続き検討を」
 どうにか平静を装いながらも、つい額に手を充てる仕草をしてしまう。やっちまったか? と繰り返し自問自答。録画機能のあるBMIを入れておけばよかったと心底後悔していると、彼女の笑い声が聞こえてきた。見ると彼女は口許に手を充ててくすくすと笑っている。
「余計なことは言っていませんよ」
「そ、そうか。よかった……」
 彼女の言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。俺はいま明確に、心底、安心した。
「それにしてもいざ抱こうというときに、よくこんな長い文言で注釈を入れられますね。クールダウン、しちゃいませんか?」
 長いと言われてしまった。俺の反省点と重なって、かなり恥ずかしいが、絶対に顔には出すまいと気を引き締める。
「好きな子を抱くのに煩雑な手続きが必要で、気の遠くなるほどの行列のできた窓口に並ばなきゃいけなかったとしても、俺は喜んで並ぶよ。気持ちを保ったまま」
 あれ、また俺は好きって言ったか? なんだこれは。またしても覚えていない。バグかなにかだろうか。いや、違う。俺は、緊張をしているのだ。
「ハリエットさん」
 逸る胸のせいで指の先まで熱くなった俺の手を、彼女はきゅっと握ると、持ち上げてキスをしてきた。さっきのキスでもうリップカラーは残っていないはずなのに、そこにはピンク色をした余韻が見えるようだ。そして彼女は俺に普段の気の抜けた可愛らしい笑顔を向けると、裏腹、
「抱いてください」
 と強い睛で言った。

 人生最高の日なのはきっと俺だけだが、彼女の人生最低の日にはさせまいと決意しておよそ二時間。
 深夜0時を回っても、アイツは帰って来なかった。
「んー、ウォーウーラです……」
 俺の胸に額を擦りつけて、甘えた声を発する彼女の肩を抱きながら、沁々と幸福を噛み締める。言ってしまえば一度関係を持っただけではあるが、俺にとっては大きな一歩だ。
「……なにか食いに行こうか」
 その柔らかな真珠色の髪を撫でながらそう提案すると、彼女はぱっと起き上がって「いく!」とその動き通りに弾んだ声を上げた。本音としてはもっと余韻を味わっていたかったが、彼女の気が紛れるならそれでいい。
 職業柄、隠蔽工作は得意だ。ベッドを整え、散らばった衣類を拾い、ゴミはチャック付きビニールバッグに入れて俺の荷物の中に。アイツはどうせラリってるに違いないので鼻を効かせるとも思えないが、一応ルームスプレーを過剰ではない範囲で噴霧しておく。それからふたりでリラックスした服装に着替えると、彼女に俺のライダースを着せてやった。
「む。これはつまり……」
「ナイト・ツーリングはどうだい?」
「やった!」
 喜んでいる彼女の手を引いて、部屋を出る。そして地下駐車場へと移動し、彼女に二人乗りの注意事項を告げてヘルメットを被せてやった。それだけでもうはしゃいでいる彼女を抱き上げてシートに乗せてやり、次いで俺も跨ると、「しっかり捕まってろよ」と声を掛け、まずは低速で駐車場から黄金の夜へと抜け出ると、一気に加速した。
「わあ……!」
 インカム越しに彼女の歓声を聞きながら、深夜でも消えない渋滞の中を縫うように進み、ベイサイドへ。空気は悪いが風は爽快。湾岸部の夜景を眺めているのか、彼女は「きらきら、きらきら」と嬉しそうだ。腰に回された細腕から、存外にしっかりと固定された体幹が感じ取れて、妙に感動してしまうのは、君に触れられなかった時間が永すぎたせいだ。時間の檻にとらわれて、声にできない問いがつよく胸に鳴り響く。
 キミは、俺のことを覚えているかい?
……この夜が明けなければいいのにと願いながらも、それは誰にも遂げられないことを知っている。であれば、俺はキミとたくさんの夜を過ごしたい。白夜を抜けて遠く遠くどこまでも本物の夜を駆け抜けてゆきたい。
「なに食べたい?」
「香港は雲呑麺が美味しいと、バトの秘書さんから聞きましたよ」
「いいな。……よし、そうしよう」
 そうしてベイサイドを駆け抜けて、マッピングした地点へと向かう。この雰囲気なら、高級店ではなく気安い深夜営業がメインの店がいい。市街地をうねうねと進み、パーキングメーターの隣にバイクをつけると、彼女を下ろしてからヘルメットを外した。すると俺の動きに倣ったお嬢ちゃんが、目を閉じて「ん」と顔をこちらに向けてきたので、一瞬激しく動揺してしまう。だがここで瞬発力を発揮しなければ男の名折れであろうと、素早く唇を重ねて離れると、彼女は「んふふ」と含み笑って手を繋いできた。
「ハリエットさんって、じつは可愛いひとなのですね」
「はぁ……そうかい。好きに言ってくれ、もう……」
「どこが可愛いか訊かないのですか?」
「どこが可愛いんだい」
「んふふ。内緒……」
「なんだよ、それ」
 そんな会話をしながら路地を一本入ったところにある店に入ると、中は一杯だったので厨房に向かって「海蝦雲吞麺ふたつね。外にいるから」と声を張る。すると鍋を振っていたコックがこちらに見向きもしないなりに親指を立ててくれたので、そのまま外の席に彼女と座った。
「んふふ。知っていますよ。深夜のラーメンは懲罰対象なのです」
 ライダースの中に髪をしまい込んでいるがゆえに、ふんわりとたゆんだ髪型が可愛らしい彼女は、突然物騒なことを言ってくすくすと笑った。いつもにこやかではあるが、こんなに笑う子だったか? ……と、思いながら、そのアテンションに立てられた人差し指を握ってみる。つめたい。手のひらごと握る。
「じゃあ共犯だな」
 すると彼女は嬉しそうに彼女の手を握った俺の手にもう片方の手を重ねてきた。負けじと俺ももう片方の手を重ねる。
「バレたらなにをされちゃうのかな」
「ダイエットの刑だろうな。一週間葉っぱ」
「ええー、葉っぱはイヤです」
「じゃあ、運動だな。ランニングとか」
「セックスじゃだめ?」
「……はぁ……キミなあ……ああもう、ああー……」
 撃沈だ。手を握ったままテーブルに突っ伏す俺とは対照的に、お嬢ちゃんはきゃっきゃと楽しそうだ。
 そしてすぐに雲呑麺は運ばれてきた。早いな、とは思ったが、極細麺であることが見て取れたので当然だろう。ごろりと大きな雲呑が四つ乗ったそれは、スープも麺も黄金色だ。
「わ、おいしそう……この香りはなんの出汁でしょうか」
「ヒラメらしいぞ」
「ヒラメ……ペラペラのやつ、ですね。つまりコンブの仲間ということです。なるほど、察しました」
「違うと思うぞ」
 独特の捉え方をしている彼女に箸を渡す。大丈夫か? と心配すると、彼女は自慢げな顔で箸を持ってその手を見せてくれた。……正直、百点満点中五十点だ。箸の持ち方が半分できていないということ自体、有り得る状態なのかと問われればそれは有り得ないのだが、とにかく、五十点だった。
「悪くはない」
 とりあえずそう評価すると、彼女は更に得意げに眉を持ち上げて、そのよく分からない状態を固着させたまま、やけに器用に雲呑を掬いあげた。そういう使い方なのか……とある意味感動している俺を他所に、お嬢ちゃんはぱくりと雲呑をひとくち。むん! と機嫌よく喉が鳴っているので、口に合ったのだろう。
「わ、すごい。……この雲呑、海老が丸ごと三尾ほど入っていますよ」
「へえ、気合い入ってるな」
 俺はまず麺をいく。絡まる細麺を適度に分けて口の中に畳んで押し込むと、見た目通りにコシがあった。上湯か清湯かどうかについては味蕾がさほど鋭敏ではない俺には判断いたしかねるものの、その透き通ったスープはすっきりと飲みやすく、雲呑の味を邪魔しない淡麗さであることから、拘って丁寧につくられたものだということがわかる。ごま油が効いているもいい。お嬢ちゃんに倣ってひとくちで口に収めた雲呑はまた格別で、とろりと薄い皮の中にすり身でもミンチでもないそのままの海老が大胆に詰め込まれており、食べ応えがあった。今までアメリカで食べていた雲呑麺は偽物だったのではないかと思われるほど、なんというか新鮮な味わいだ。そもそも、今まで食べていたボソボソの麺と申し訳程度の雲呑とあの妙な匂いはなんだったのだ……と疑問に思わないでもない。マジでアレはなんだったんだ?
 お嬢ちゃんが、スマホのインカメラを彼女自身と俺に向けていることを察して、サムズアップをして写ってやる。「送るのか?」と問うと彼女は、
「送ったほうがいいでしょう」
 と答えてアイツに画像を送ったようだった。そのうつむき加減の面差しに、悲愴な色が滲んでいないことを喜ばしく思う。
「でーとちゅう、じゃま、しないで……と」
「はは。送れ送れ」
 容赦のないメッセージだが、容赦しかしていないことに果たしてアイツは気がつくのだろうか。俺もスマホを取り出すと、充電がないので急いで彼女の写真を撮った。ああ、夢みたいに可愛い。それをホーム画像に設定して、同じものをアイツに送りつけてやった。せいぜいのたうち回るといい。
「あ、深夜のラーメンがバレちゃいますね」
「上等だ。アイスも食おう」
「やった。自販機で売ってるやつがいいです」
「よし、食ったら探すぞ」
 急ぐ必要なんてないのに、ふたりして急いで麺を平らげると、席に食事代を置いて通りへと出た。アイスの自販機を見つけるまで苦労して、途中何度もコンビニで買いたくなったが、めげずに捜索した結果、さっきの食堂の裏路地にその自販機を見付けてふたり脱力する。どっと疲れてしまったが、その分の消費カロリーはアイスをひとりふたつ買うことで補填して、食べながらバイクへと戻る。そして縁石に座って残りのアイスを食べ、ふたりで溶けたアイスが垂れていくのに苦戦していると、唐突に彼女は笑いだした。
「ぜんぜんおしとやかじゃない!」
 それが、彼女にとっては可笑しいことなのだろう。すっぴんにリラックスしたワンピースを着て、ぶかぶかのライダースを着せられたお姫様は、足元だけはハイブランドのピンヒール。片方脱ぎ捨てていっても構わないが、結局拾う役は俺だから、脱いでも履いても結局変わらない。

 部屋に戻ると、アイツがソファで寝ていた。
 シャツパンツ姿で長い脚をソファの幅から盛大にはみ出させた彼は、煙草の匂いをさせ呑気に寝息を立てている。お嬢ちゃんを見ると無言で首肯してきたので、俺も頷いてその脇腹にふたりして蹴りを入れた。すると「なになに!」と奴が飛び起きたので「カス」と吐き捨ててその腹の上に勢いよく腰を下ろした。ぐえ、と酷い声。俺に続いて、お嬢ちゃんも胸の辺りに座り込む。すると「あっ、これはよい」と気色の悪いことを言い出したのでアキレス腱固めをキメてやった。
「そっ、れ、は、禁止技ぁ……!」
「実戦に禁止技なんざねえよ」
「な、に……マジで……なん、なの……」
 悶え、息切れをしながらそう問うてきた彼は、首だけ持ち上げるとやがて力尽きたかのように脱力した。本当は骨の一二本は折ってやらないと気が済まなかったが、お嬢ちゃんの手前ここまでにする。最後にぐっと力を込めてから解放してやると、もう一度その腹の上に腰を下ろした。するとお嬢ちゃんが身を寄せてきたので、俺の膝の間に座らせてやる。
「スマホ見ろよお前」
「スマホ……? ごめ、電源切ってた……」
 嘘だ。
 ラドレは肩の下にあったらしいスマホをそこから抜き取ると、さっきよりは幾らか開いた目を光源に細めてメッセージを確認したようだ。
「えー、なにこれ。いいなー!」
「お前が中々戻ってこないから俺らはツーリング・デートをしてきた。雲呑麺を食って、アイスも食った。それも真夜中に」
「なにそれ罪じゃん……!」
「共犯のチュウ、もしました」
「なにそれ? は? 罪じゃん」
「そしてこれから一緒にお風呂に入ります」
 それについては聞いていないので、思わず彼女の顔を覗き込んでしまう。俺と殆ど同じ表情をしたラドレは「嘘でしょ……」と漏らして眉の筋肉を細かく震わせていたが、腹から降りたお嬢ちゃんに耳元で「ラドレ、ステイ」と囁かれて本当に動けなくなってしまったらしい。しかしバスルームへと歩いて行く彼女の背中に「あとで沢山褒めてくれる?」だなんてほざくことができる程度には余裕があるものだから、白けた心地で今一度彼の腹の上でバウンドしてから俺も立ち上がった。
「おっ、え……なんかいつにも増して当たりキツくない……?」
 弱々しくそう言うラドレのシャツの胸ポケットから、電子タバコのカートリッジボックスを抜き取る。それを彼の目の前で握り潰してからゴミ箱に叩き込むと、喉奥から怒りの感情が溢れ出しそうになったが、俺が怒るようなことではないと自らに言い聞かせて、出かかった濁流を飲み込んだ。怒っていいのは、彼女だけだ。しかし彼女は、怒らない。
 ならそのぶん、俺が笑わせてやればいい。洗面所に鍵をかければ向こうから「なんで鍵かけんの!」とラドレの焦った声がするのを無視して、服を脱いでバスルームへ。そしてシャワーを浴びている彼女を後ろから抱き締めると、「もう一曲どうだい」と野獣なりのアプローチをした。


End.

叩かれた夜は寝やすいのかもしれない。
でもキミは胸が痛くて眠れない。


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