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【SERTS】scene.7 スリーサイド・烙鍋デート


※この話には一部性的な表現があります。



 安徽の省都である合肥から、貴州省の貴陽までのおよそ一千百キロの道程を、二時間と少しのフライトで飛び越えることにした僕たちは、飛行機内で軽く仮眠を取り雨の貴陽に降り立った。
 貴州省は平地の少ない高原地域であり、晴れの日が少ないとは聞いていたが、雨の出迎えにはなかなか気が滅入る。地下鉄に乗り継ぎ市街地へと辿り着くと、一本の折り畳み傘のもとふたり縮こまり、服の裾を濡らしながら予約していたホテルへと急ぐ。まだ昼前なのに薄暗い街にぽつぽつと灯るネオン看板を、鏡のように濡れた石畳があざやかに映し、その常に揺らぎつづける視覚的な感傷が肌寒さを誘発して、どことなく心細い。雨に濡れたくはないのか僕にぴったりとくっついている王の冷えた肩を抱きながら、一瞬立ち止まって眼鏡の視界に広がる地図とアシスト機能で道順を確認していると、王が「あ」と声を上げた。
「どうしたの?」
 マップアプリを一旦閉じてその視線を辿ると、路面と店内との境目を透明なビニールで区切った、開放的な外装をした食堂があった。雨粒が光を拡散して、むわりと明るい看板を見上げれば、店の名前の末尾には『粉館』と書いてある。ワードを検索してみたことには、『粉』とは米粉の麺を表しているらしい。
「米粉麺のお店みたいだね。食べたいの?」
 問うと、王は「ウォーウーラ!」と弾けるような笑顔で僕を見上げた。いつ見ても可愛いその笑顔に、一瞬で絆されて「いいよ、入ろっか」とその背中を押す。

 貴州料理は大枠では四川料理に属するのだが、酸辣(酸っぱ辛い)または香辣(香り高く辛い)という特徴があり、四川料理というワードに抱くようなシビ辛のイメージとは微妙に異なっていると言えるだろう。しかし唐辛子をたっぷりと使い、辛さの種類は八つあると定義している貴州人の辛さに対する嗜好性は極めて高い。
 そして貴州は比較的少数民族が多い地域でもある。折角訪れたからには漢族の料理の他にも、それぞれの民族特有の料理にも注目すべきだろう。特にミャオ族に伝わる民謡には「三日酸っぱいものを食べないと足元が覚束なくなる」というものがあるほど酸味も重要視されている。ここ最近ストレートに辛いものやこってりしたもの尽くしの食生活だったため、今回の滞在はよい気分転換になりそうだ。
 傘を畳んで入った店内は湿度が高く、シャツの胸元を掴んでばたばたと素肌に空気を送りながら席を確保する。壁に掛けてある木札のメニューをチェックし、王にざっと説明して希望を聞き取ってからカウンターで注文を済ませた。
 王が選んだのは牛肉粉ニウローフェンだ。酸味のあるスープのせいで麺が伸びやすいらしく、店員に「早く食べて」と言われたのを王に通訳すると、王はすぐに箸を手に取った。以前より若干まともになった箸の持ち方は、それでも謎に上の箸と下の箸が同時に開いて閉じてを繰り返しているが、器用さは向上したらしい。少なくともパスタで喩えるならヴェルミチェッリ程度の……若干太めの麺を摘んでレンゲに乗せられているので上々と言えよう。それをちいさな唇の向こうにちゅっと収め、もちもちと口を動かしていた王は、次いでトッピングの牛肉のスライスを、そして透き通ったスープを口に運ぶと、うんうんとひとり頷いたあと夢中で食べ始めた。どうやらお気に召したらしい。
 対して僕が選んだのは老素粉ラオスーフェンだ。これは葱やナッツと一緒に、見るからにヤバそうな量の油辣椒──具入りの辣油のようなものだ──が乗っているシンプルな汁なし麺だ。僕には食べ物の好き嫌いが殆どない代わりに、激辛や激甘を好むという悪癖がある。僕を知る人たちに言わせると「ストレス由来だろう」ということなのだが、好きなものは好きなのだから仕方がない。観察が済んだので真白い米粉麺が真っ赤に染まるまで満遍なく混ぜてから、思い切って口に運ぶ。噎せる。「おあっ」と声を上げ、先程まで煽いでいた胸元を拳で何度も叩きながら、水を飲む。カウンターで店員が笑っていた。
 耳下から額の生え際あたりがじくじくと熱を孕んでいる。これは辛い。爆風のような辛味だ。しかし、美味い。トッピングとは別に、この油辣椒のなかにはピーナッツが入っているのだろう。辛さの中に香ばしさがあり、箸が進む。進んだぶんだけ、激辛。視線だけでウォーターサーバーの位置を確認していると、その視界に「あ」と口を開いてニコニコと待っている王がフレームインしてきた。
「辛いよ?」
「あ」
「すごーく、辛いよ?」
「あ!」
 警告をしたにもかかわらず、めげない王の口に、やれやれと呟きながらレンゲに纏めた麺を押し込んでやる。すると王はそれまでと同じくもちもちと口を動かしていたが、こくん、と飲み込んだ直後、ぱっくりと口を開けたまま動かなくなってしまった。笑顔から、徐々に深くなっていく、眉間の皺。ふるえる上下の瞼。「言わんこっちゃない」と水を手渡してやると、それを勢いよく飲んだ王が咳き込み始めた。
「こあっ。こっ、ほ。けっ、けっ、けっ」
 今まで聞いたことのない噎せかただ。僕も笑いながら、噎せる。顔を顰めながら牛肉粉のスープを飲んだ王が「はああ」と高い声を上げてテーブルに突っ伏す。辛味が浸透した口内に、酸味が滲みたのだろう。二段構えの攻撃、しかもスリップダメージにめっきり気力を失くしたのか、王は弱々しく起き上がると、残りの牛肉粉をちょぼちょぼとスローペースで食べ始めた。カウンターで店員が腹を抱えて笑っている。
「ひっひっひ……びっくりしたねえ」
 僕も笑いながらその頭を撫でる。すると王は「赤い、怖い」とちいさく呟いた。怖くないよ、と言って聞かせながら、僕も残りを食べてしまおうと気合を入れて箸を持ち直す。

 ホテルにチェックインすると、背負っていたトランクと手にしていたコンビニの袋をバゲージラックに放り、すぐに王を背中から抱き締めた。トップスの裾から手を差し込み、その嘘みたいに柔らかな乳房を揉みしだいていると、王は「あとで、です」と洩らしながら身を捩る。
「今がいいな」
 個人的な意見を述べながら、そのちいさな顎を掴んで唇を寄せるが、寸前で王は、
「からいから嫌です!」
 と顔を背けようとする。
「酷いな。辛くないよもう」
「それはおまえにはわからないことです」
「確かめてみなよ。ほら、舐めてよ」
「やっ、やだ、やだ、いやです……」
 余程さっきの辛さが堪えたのか、王は暴れて敵わない。活魚のように腕の中で躍るその姿があまりにも必死なので解放してやった途端、ばたばたとバスルームの方へ逃げ込んだかと思えば、少しして王は歯ブラシを二本手にして戻ってきた。
「むん、しゃかしゃかしなさい」
「あ、ほんとに辛いのが嫌なだけなんだ」
 特盛の歯磨き粉に若干引きながら、突き出されたそれを一本受け取って咥える。実際、あのあとデザートも食べたし時間も空いたしで、辛くはない筈なのだが、これで王が納得してくれるなら歯を磨くほかない。王もしゃこしゃこと音を立てながら歯を磨き、片手でテレビのチャンネルを回していたが、直後その手元から、「ばきん」と不可解に大きな音を響かせた。
「……折ったね?」
 手を動かしながら、その硬直した背中に問う。
「おっ、て、な……い、ない」
「どっち」
「……折りました」
 しょぼくれた様子の王が振り返る。手元にはブラシ部分の消え失せた、クリア素材の持ち手のみが握られていた。
「危ないからペッしてきなさい」
 おそらくその膨らんだ頬の中にあるであろうヘッド部分を吐き出すように促すと、王はこくりと頷いてまたバスルームへと駆けていった。
 王は、しょっちゅうモノを壊す。気を抜くとすぐに握力なり顎力なりでモノを損壊させてしまうのだが、最近はその回数がめっきりと減っていた。本人なりに気を張って扱うようになった結果改善したのだろうが、気を抜くとすぐにこうなるので可哀想にも思える。直近だとくしゃみとともにライスボールを圧縮していたし、他にもホテル備品の消臭スプレーのトリガーを粉砕したり、ドアノブを引っこ抜いたりもしていたが、昔に比べれば可愛いものだ。お陰で僕はゴミの分別に詳しくなった。
「口のなか、怪我してない?」
 洗面台で口を濯いでいる王にそう声を掛けると、王は「してません」と言って顔を上げた。そして僕と入れ替わった途端、背中に抱きついてくる。
「なに、積極的だね」
 泡を吐き捨てながら問うと、王は服の裾から手を入れてきた。冷たくて華奢な感触。「なになに、どうしたの」……身を捩りながら口を濯ぎ、使い捨ての歯ブラシをゴミ箱に放り込んだのと同時に、胸のあたりを揉まれた。
「むん。かたい……」その声は、不満そうだ。
「そりゃあ……ねえ、くすぐったいって」
「でも肌はふわふわ。赤子みたい……」
「そうですかー。……ねえ、離してよ」
 やり返しのつもりなのだろうか。王は先程の僕のように、ご機嫌な色の滲む吐息で笑うと、片手を下に下に……。
「えっ、ちょ、へ? 待って待って待って」
 一方的。でも、フェザータッチ。こういうときだけ、妙に器用で。
「待ちませんよ。今がいいな」
「なに、え、怒ってる? やり返し? 鬱憤?」
「ほら、動かないで。わたくし、うっかり壊しちゃうかもしれませんから」
 場違いに「わほほ」と無邪気な笑い声。これは、下手に動けば局部を圧縮されたりドアノブのように引っこ抜かれたりするに違いない。張り詰めた心地のまま硬直していると、王の手がベルトに掛かった。目の前の鏡にうつる光景とリンクする、金属と爪の音。革の軋み。ジッパーの下がる音。「あらあら」……王の、楽しそうな、声。

「雨、やみませんね」
 カーテンを僅かに開けて外を覗いた王は、雨雲の向こうから抜けてくる淡い陽光でその見事な玉体を一瞬だけ照らすと、すぐにそれを閉じた。
 そして先程コンビニで買ってきた軟式甜餅……要はソフトクッキーを齧って「むふん」と僅かに嬉しそうな声を漏らし、リモコンを拾って消していたテレビを再度つけると、天気予報を観始めたらしい。ソファに座って「今日はやまないそうですよ」と一瞬だけ僕を振り返るそのきまぐれな肉体の捻れ。それが眩しくて「服着なよ」と声を掛けると、王は床に散らばっていた僕の肌着のシャツを拾うと頭から被った。クッキーを握ったままで行われたその挙動に、掠れた声で「手は拭いてからにしてよー」と訴えるが、王は曖昧に頷くだけ。
 おおいに、虐め抜かれた。王はその気になれば僕程度の生物は軽々と封殺することができるので、その超パワーを行使され、一瞬たりとも優位に立たせて貰えなかった。ぐったりとしてベッドから動けずにいる僕とは対照的に、王は普段の事後よりは幾らか元気らしく、呑気におやつタイムときたものだ。正直、むかつく。だがもう一歩踏み込んた心情を開示するならば、
「くっ……すげー気持ちよかった……」
 この一点に尽きる。
「それはなにより」
 王はテレビを見たまま僕の呟きに返事をすると、行儀悪くソファの上で胡座をかき、か細い腿に挟んだペットボトルの茶を開けたようだった。それでも王様ですか……と言いかけて、やめる。その傍若無人さは、王たる概念そのものだ。どうしようもなく。
「王、ちゃんといった? してあげるからこっちきて」
 ふたつめのクッキーを袋から引き抜こうとしている王に呼びかけながら、マットレスを叩くと、王はテレビから視線を逸らさずに首をぐるんと傾げて言った。
「わからないのですか?」
「わからないねえ、虚偽申告されたりしたら」
「嘘は吐きませんよ、わたくしは」
「さっき歯ブラシ折ってないって嘘言いかけたでしょ」
「……おまえと今までなんど交接してきたと思っているのですか?」
「交接て。……僕が気持ちよすぎて訳わかんなくなってたから、あんまり気を回せなかったなってこと! わかりますか? だからこっち来てよ。もう一回ぎゅってしたい」
 幾らか弱みを吐露しながら、暗に事後のイチャイチャならびにそれを性的に発展させたいと仄めかすと、王は興味無さげに「むーん……」と発した語尾をしぼませる。どうやら『済んだ』ことを短期間で掘り起こすことに対するメリットを感じられないらしく、案の定「出したではないですか。わたくしの内部に」とフラットに指摘されてしまう。「二度も」
 なんなんだ、この賢者タイム哲学的ゾンビは……と思いながら、ここは王が理解できないであろう感情論で攻め、なあなあでふわっとした曖昧さの奔流で押し流すしかないと、今度は先程よりも強めの語気で「甘やかしたいんですけど!」と主張した。すると王は、
「アマヤカス、してあげましたが」
 と手指を蠢かせながらこちらを振り返った。その華奢な手の動きが示すのは性技であって甘やかしではない。しかしそれをどう説明したらいいのかわからない。そもそも甘やかすのと甘やかされるのは別の事象だ。……僕がどこから説明したものかと頭痛と共に悩み始めたところで、王は言った。
「いれたいいれたいと情けない声で訴えてきたのを許可したではないですか」
「ひぐ……」喉が呻く。
「出したいって言われて、いいですよ、と」
「ひい……」喉が引き攣る。
「あれしてこれしてって、全部してさしあげました」
「ぐぐ……」喉が詰まる。
「マウントを取っておまえの動きを封じたのはわたくしですが、行為の内容についてはわたくしは指示に従っただけであり、事実わたくしはおまえの性的によろこばしい部分を」
「や、やめて……! 冷静にセックスの内容を詳らかにするのはやめて……!」
 勝てない。言葉では絶対に勝てない。そのことを改めて自覚させられながら、枕に突っ伏して恥辱の念を緩和させようとしていると、王はぽつりと言った。
「わたくしはおまえが最近疲れているのではないかと……だからおまえのことを労わろうと思ってみたのですが、どうやら失敗してしまったようです。アマヤカス、よくわかりません」
 その言葉は、王の側に向けていた右耳の奥に、しゅんわりと染みるように落ちていき、からんとさみしげな音を立てて鼓膜に着地した。
「甘える、ということ自体は把握していまますので、おまえが甘えん坊さんなのはわかります。甘えることがスキ。だから、甘えん坊さんという形容を用いる。わかります。なのですすんでくっつくとか、キスを許容するだとか、性行為の際にわたくしが優位を取ることがアマヤカスに繋がるのではと思ってみたのですが、この考察は間違いのようですね」
 そうして王は、かなしい……と、ほとんど息だけの掠れた声で続けた。
 こう言われてしまっては、胸が激しく締め付けられてしまう。無性に王に謝って抱き締めてやりたくなり、僕が身体を起こしたのとほぼ同時に、王はなにやら発信音を鳴らすスマホをソファの肘掛けに置いた。するとすぐに「お嬢ちゃん? どうした?」とスピーカーモードでハリエットの声。なぬ、と思いながらそちらを見遣ると、王はクッキーをもぐもぐと食べながら言った。
「ハリエットさんこんにちは。唐突ですが質問があり、お電話させていただきました。ええと、アマヤカスとはどういうことでしょうか。わたくしさきほど我が使い魔にアマヤカスをしてあげようとマウントをとった性交渉を試みたのですが、どうやら違うようなのです。ハリエットさんなりのご意見をおきかせください」
……僕とハリエットが、同時に同質量の沈黙を発生させたのがわかった。向こうもこの場に僕がいないとは想定していないだろう。彼も確実に気まずさの共鳴を感じているに違いなかったのだが、数秒の無言ののちにハリエットは、
「……差し支えなければ、行為の内容を訊いても?」
 と神妙な口調で王に質問した。
 途端、心の中で「カス!」と叫ぶ。僕に面と向かってカスと吐き捨てきやがったくせに、カスは向こうだ。カスって言う奴がカスだ。
「順を追って解説しましょう。まずは鏡の前で……」
「おわあああ! 順を追わないで! いや違う、ダメだってそもそも話さないで!」
 終始真顔の王の声を遮り、スマホを取り上げ「切るよ!」とハリエットに申し出る。するとスピーカーから「鏡かー、やってんな」と薄ら笑った声が聞こえてきたので「カス!」と吐き捨てて通話を切った。そして「ああ!」と残念そうな声を上げる王を猫にするようにぶらんと抱き上げると、クッキーの粉がついた手指と口元をベロベロに舐めてやってから浴室手前の脱衣所へと連れ込んだ。そして僕のシャツを王の身体から剥ぎ取り、怒りの滲んだ声で「一緒にあったまろうね!」と言って王をバスルームに押し込むと、「クッキーまだたべる」とこの期に及んで食い気を見せ抵抗する王の頭にシャワーを浴びせ、もう濡れてしまうしかなくなって脱力したところを抱き締める。水分を介して密着する肌。きゅっとゴム製品みたいな抵抗がして。
「ねー、王」
「なんですか?」
 そのちいさな頭を胸元に押し付けながら、シャワーノズルを見上げて湯を浴びる。目を閉じて、王の感覚に親身でいてくれて、かつ想像のしやすい人物を思い浮かべた。彼は僕の妄想の中で、今日もきらりと微笑む。
「……王は兄上様にはどうやって甘えてたの。好きな人になにをされたいと思ったの。教えて」
 問うと、王は少し考え込んだようだったが、数秒のうちに口を開いた。
「ぎゅうってしてほしい」
 それはさっきまで賢者タイム哲学ゾンビだったとは思えないほど、切なく甘い声でのおねだりで。
「うん」
「頭をなでてほしい」
「うん」
「お膝に、のせてほしい」
「うん」
「花冠を、つくってほしい……」
「……うん。うん」
 直後ぎゅっときつく引き結ばれてしまった唇に、僕の唇を寄せて解きほぐしながら、呼吸の合間合間に問う。
「……兄上様は、キミにそれをしてくれそう?」
「……うん」
「僕も、王にそれをしたい」
「……う、ん」
「王のこと、大好きだから」
「むん……」
「されたいことと、してあげたいことが、重なったらいいよね」
「むん」
「わからなかったら、訊けたらいいよね」
 すると王はそうか、となにか得心がいったのかちいさく呟くと、最後に僕の唇をちゅっと吸って距離をとり、ニコニコと微笑みながら僕を見上げた。これで諸々のコミュニケーションについて理解して貰えただろうか……と肩を撫で下ろしかけたその途端、王は、
「わたくしはおまえを組み敷くのが存外にスキです! おまえはどうですか?」
 と、溌剌とした声で問うてきた。まるでエウレカ! とでも言いたげににゅっと愉快そうに下瞼を持ち上げ、そして弾けるような笑顔を浮かべながら。
「おおっとお……?」
 一気に雲行きが怪しくなる。今の今までトゥルーエンドに進むルートだったはずだが、一瞬にして道を踏み外したような感覚が否めない。内心焦っている僕の気も知らないで、王は僕の冷えた背筋に腕を回すと、前髪が濡れたことにより露わになったまるい額を僕の胸に擦り付けてきた。
「おまえが屈辱的に感じていそうな、でもちょっと知能が下がっているようでもある顔を見るのが、スキです」
「う、うーん……」
「可愛い声を出すところもスキです」
「かわ……いくはないかと……思うんですけど……」
「わたくしにとってはいっとう可愛いです。むん。理解。ねえ、おまえはスキですか? ねえ」
「ええと……」
「おまえを組み敷くのはおまえに対するアマヤカスではなく、わたくし自身へのアマヤカスなのですね。ふふ、アマヤカス、されちゃいました。うふふ、甘えるのとアマヤカスをされるのは違いますね」
 笑い声を上げる王は、僕にはよくわからない理論を展開してひとり楽しそうだ。その姿はまるで『カイジュウ』……そんな日本製の単語が頭を掠めた。怪異より実体があり、怪物よりも愛嬌がある。しかし言うことは聞いてくれず、望み通りにもならない。今の王は、カイジュウだ……。
 倒す(論破)? それとも、共存(諦める)?
 素早く思考を巡らせて、前者と後者のメリットとデメリットをそれぞれ列挙していく。ニコニコ可愛い笑顔で僕を追い詰めてくる裸の王は、僕の手を取って指先にキスをすると「わたくしにされるの、スキ、でしょ?」と小首を傾げた。
 ああもう。
「好き……だけど、たまに、で……今まで通り……たまにで……」
「どのくらい、たまに、ですか? 一回に一回?」
「それ全部じゃん。こういうのはスパイスであってそんなに何度も何度もするものじゃないの。だからまあ、十回に一回くらいなら……」
「もうひと声! もうひと声!」
 また変な単語を覚えてきたらしい王を大人しくさせるために、咄嗟に持ち込み品のシャンプーと泡立てネットを手に取り、王のすべての発言を聞き流しながら泡立てると、ふわりと膨らんだ白い塊を王の頭に塗りつけた。それを頭皮にわしわしと揉み込み、湯で流し、トリートメントを塗布して、浸透するのを待ちながら僕も髪と身体を洗う。その間にも要求が通らないことに対しきゃんきゃんと不服を口にする王が普段より若干元気なのは、やはり自分が優位に立つ方向性の性行為のほうが心身の負担が少ないからだろうか。
 湯船で温まったあと、再びクッキーを食べ始めた王の隣でタブレットPCを開き、メールのチェックをする。するとゾエから『僕にしか受けられない仕事』……要は顔役としての業務についてのものが届いており、嫌々読んでみたことには、来月香港で弊社と提携している軍需企業のレセプションがあり、それに招待されたため、僕と王に出席の可否を問う内容だった。
「ご検討に感謝します」
 そう結ばれた彼女のメールはいつだって格式ばって丁寧だが、なんとなく僕への当たりが強いような気もするのは、僕の考え過ぎか、或いは僕が彼女に思うところがあるからかもしれない。
「はーあ、めんど……」
 溜め息を吐きながら返信を打っていると、王が「なにが面倒なのですか」と顔を寄せてきた。そのまたしてもクッキーの粉まみれの唇を引き寄せてキスをすると、王は僕がクッキーを食べたいと勘違いしたのか、バラエティパックのうち一枚をくれた。
「……来月こっちでお仕事。王も一緒に行くんだよ」
「ええー。お仕事、ヤです」
 眉を八の字にして、王は唇の先だけを使った不明瞭な声を発した。これは王が駄々を捏ねるときの発声方法であり、要はぐずっているのだ。
「だよねえ。僕もヤ」僕も唇を尖らせ、その発声を真似る。「まぁレセプションだから王はニコニコしてご飯食べてればいいよ……って、それがストレスだよねえ」
「むん。わたくしはおまえとのんびりしていたい……」
 その何気ない様子で呟かれた言葉に、途端、胸がいっぱいになる。そうかそうか、王は僕とラブラブしたいのか……とひとりにやけながら頷き、クッキーを齧る。ゴロゴロとしたチョコチップが嬉しい。
「ねえおまえ、ドレスはお花がついたやつがいいです」
「いいよ。王はお花が好きだねえ」
 ゾエへの返信を済ませてから、スマホでガラシャに「プレタポルテでもいいから、月末までに僕のディナージャケットと、王のドレス(要望:お花)をお願い」と送る。するとすぐに『本当の本当の締め切りを教えてください』と返ってきた。この感じからして繁忙期なのだろう。「来月十日」と送ると『善処します』という言葉と共に猫のキャラクターが「了解!」と喋っているスタンプが送られてきた。
「ねえ、王、なんか気持ちが落ち込んだり、モヤモヤしたり、お腹が変な感じになったりしてない?」
 ふと王の体調について思い出し、スマホを置いて問う。前回訪れた安徽の地で王は初潮を迎えたわけだが、結局出血は一週間弱で止まり、以来一ヶ月ほど経過しているが、僕が見ている限りは次の出血は未だない。
「特には。いつもウォーウーラではありますが」
 本人が気にしていないのは結構だが、下手に水遊びや温泉、登山などのスケジュールを入れてしまうことは、金銭面ではなく心情的に躊躇われる。それに加え、また物語の姫君よろしく誘拐され、万が一にも乱暴されたらと思うと気が気ではなく、ここ最近はべったりと王にくっついて片時も離れられずにいた。勿論、そもそも暴行自体があってはならないし、王の手にかかれば他者を捻じ伏せることなど造作もないとは知ってはいても、とにかく不安で、ホテル近くのコンビニにひとり行かせることや、短時間の別行動ですらさせられず、己のワンオペの辛さよりも王が息抜きできないことのほうが気がかりでどうにかしそうだった。
 そんなどこか疲弊した僕の態度を察知していたからこそ、王は『アマヤカス』に拘ったのかもしれない。
「話変わるけど……王は、僕とずっと一緒で息苦しかったりしないの」
 王の、単に生理の周期が普通とは掛け離れているのか、或いは体型のせいで不定期なのかを判別させづらくしている痩身を抱き寄せながら問うと、王は「息苦しいとは?」と首を傾げた。
「この旅に出る前はさ、別に四六時中一緒だったわけではないじゃない。僕には僕の仕事があったし、王も頑張って働いてくれてたから、同じ家には帰るけど、ずっとくっついてはいなかったよね。だからもしかしたら、現状が嫌だったりしないのかなー……って」
 僕たちには、話し合わなくてはならないことが、たくさんあった。タイムリーな話題から、未来の話。或いは過去の話。すべては人生をよりよくするための建材だ。王はいたいけで可愛くて、ちょっと態度がわんぱく坊主だったりするだけで、もう幼体ではない。仮に即位の時点で成体とみなされただけだったとしても、栄養状態が悪く子供のような骨格だったとしても、いくら初潮が遅かったとしても。王は既に大人になっている。守るべき主君ではあるが、導くべき子供ではないのだ。僕がいくら庇護欲をはたらかせ、キリキリとジェラシーを渦巻かせたとして、それは覆らない。王は僕の子供でも妹でも恋人でもなく、そういえば、きちんとした主従でもない。そんな事実に打ちのめされたところで、王の基本的人権や自由を侵犯していい理由にはならないのだから、僕たちは、心底。
 話し合って、生きていくしかない。
「おまえは、息苦しいの?」
 王は問うてきた。
「いや……全然」
「おまえという子は、いっつも無理をしている」
「してないよ」
 否定すると、王は僕に向き合うかたちに座り直し、いい香りのする手で頭を撫でてきた。
「……アマヤカス、はよくないのかもしれない」
 なにかを決心したようにそう呟いた王は、テーブルの上のスマホに手を伸ばすと、最近はもう見慣れたブルーのポップアップを開き、躊躇いもなくコールマークをタップした。そしてたったワンコールで、向こうが応じたことを示すノイズがスピーカーから漏れ聞こえる。
「……今日は随分と構ってくれるじゃないか、お嬢ちゃん」
 先程聞いたばかりの声の持ち主は、どこか嬉しそうに笑っていた。王はその声を聞いて畏まったように、んん、と軽く咳払いをしたと思えば、徐ろにスマホを胸元にぎゅっと握り込んで、言った。
「……ミスター。わたくしと、デートをしてくれませんか」
 少し気障な抑揚。だが、真摯であり紳士的な言葉。……呆気にとられている目の前の僕を遠く置き去りにして、緊張しているのか王はきつく目を閉じて狼の返事を待っている。

「それで、俺が呼ばれたと」
 男は笑いながら納得した。
「いやああああ! うわああああ!」
 僕はテーブルに突っ伏しながら絶望した。
「あ、最大百連ガチャ無料、今日からですね……」
 王は呑気にソシャゲのアニバーサリーガチャを回した。
「情けねえ。そこで止めるだろ普通。お前ホントに馬鹿だよな」
 円卓を囲むように座った僕と王、そしてハリエットは、ホテルのロビーに反響する人々の靴音を背にして、今日この場に集合するに至った理由の共有をしていた。王はソシャゲに夢中なので好きにさせ、主に僕とハリエットが膝を合わせる形になって昨日の出来事を説明していると、なんだか大失恋でもしたかのような心地になってしまって叫び喚くに至った。
 王は確かに、ハリエットにデートを申し込んだのだ。……よりによって『王にとって初めてのデート』を。
「僕って噛ませ犬だったの? こんな綺麗な顔してるのに? まあ犬なのは事実だけど」
 大きく開いた手指で顔面を揉みくちゃにしながら身を捩っていると、ハリエットは、
「冗談言える余裕があるなら平気だな。よし、お嬢ちゃんは任せろ」
 と、さらりと言って立ち上がろうとしたので、慌ててその膝裏を蹴って着席させる。あぶねえな、と呟いて再びテーブルに肘をついた彼は「欲しいの引けたか?」とどこか甘い声で王に顔を寄せた。それに王は「はい引けました!」と笑って答えた顔のまま、ハリエットと目を合せている。……六秒。正直、お似合いだ。
「今日も可愛いな、お嬢ちゃん」
「え……かわいい……ですか?」
「いつも可愛いけど今日はもっと可愛い」
 彼の幸せそうな反応も当然だ。なにを張り切ってしまったのか、僕は真剣に王のデートルックを吟味してしまったのだから。王の衣装係として大真面目に厳選に厳選を重ね、青地に桃色の装飾が施してあるオールドシャンハイのロマンティックなラインのワンピースを選び、揺れるピアスを選び、爪も桜貝の色に塗り、髪は薔薇のようなお団子にして、残りの毛先を巻いて流した。メイクはカナリアイエローのアイラインに、夕暮れ色のラメアイシャドウ。チークは普段より気持ち多めに乗せ、リップも内容量が少ないくせにアホみたいな値段のする保湿仕様のグロスを重ね塗りしてある。困っちゃうほどお姫様だ。どこからどう見ても世界一可愛い我が王の姿に、ひとりの騎士としての使命を全うしたという一種の達成感を抱いたものの、ひとりの男としてはボロ負けに追い込まれた気がする。それはもう、コテンパンに。
「あ……え……ええ、と……シュエシュエ」
 肩を縮こませ、細い声で彼の賛辞に応えた王は、手を素早くきらきらと捻って振ったと思えば、両手で口元を押さえて俯いてしまった。「可愛い」……僕とハリエットの小声が重なったが、それに反論も糾弾もしない。なぜなら純然たる事実を述べているに過ぎないからだ。
「……ねえ、どこまでする気?」
 口を塞いだ王とは対照的に、僕は目元を両手で覆ってそう問うた。すると彼は「避妊はするんだろ?」とさらりと答えて鼻を鳴らすので、咄嗟にその一張羅と言うにはカジュアルで、だからこそ彼にとてもよく似合っているライダースジャケットの襟首を掴み、
「刺す」
 と凄む。
 盛りに盛らざるを得なかった殺意のせいで、もう僕はいつ死んでもおかしくないほど動悸がしていた。
「ゴム買ったの? ねえ、もうゴム買ったの?」
「さあな」
「言えよ。おい。俺はセックスを期待してますって言えよ。言ったら殺す。おい、言え」
「俺は据え膳は食うぞ。……俺の良識の範囲内で。まあ、お前ほどではないがな」
 今にも彼のジャケットのインナーに向かって吐瀉物をぶちまけそうだ。わざとではなく「おえ」と嘔吐きながら手を離し、「なんなんだよ若い頃のアラン・ドロンみたいな顔しやがってよー……」と漏らしながら再びテーブルに突っ伏す。そうやってふざけたことを口走らないと、情緒が保てないほど頭の中が純粋な嫉妬で満たされていた。
「じゃあなんで止めなかったんだよ、お前は」
「……止める権利なんてないでしょ。王がアンタとデートをしたいって言った。アンタはそれに応じた。そこに許可も拒絶も不要じゃん。大人なんだし」
 この混沌かつ暗澹とした思考にも、やけに理性的な部分が生き残っていて、そこがしぶとく僕に『大人として真っ当』であることを強要する。本音ではもっと暴れ回って泣き喚いて何もかもめちゃくちゃにしたあと王に頭を撫でて貰いたかったが、それは、無理なのだ。
「ねえ尾行していい?」
 突如飛び出した僕の提案に、僕の顔をじっと見つめていたハリエットは当然ながら「はーあ?」と不服の声を上げる。でももうこれが最後のじゃれつきだと覚悟を決めながら、なんとか笑う。笑いながら馬鹿を演じる。こうすることで、ふたりが去ったあと「なにくそ」と可愛げのある克己ができるのではないかと期待して。
「これは僕の権利であり自由だから。半ば義務でもある」
「そんなカスみてえな義務捨てちまえ」
「頼む、頼むって!」
「ひとつアドバイスだけどな。お前みたいなのは尾行したらしたでアホほど病むからやめとけ。真面目に」
 もっともな指摘である。でも駄々を捏ねるときの王のように唇を尖らせて、「はーあ? 病まないし別に」と拗ねてみせる。するとハリエットは静かに、
「……たまにはひとりの時間満喫しとけって」
 と僕の目を見て言った。それはまるで、僕に最後の忠告をするかのようで。その慈悲を与えるような一撃が、僕を一瞬黙らせる。でもだからこそ、もう一度縋り付いてしまった。その余地が敢えて用意されているような、そんな優しい声だったからだ。やはりこの男は、優しい。
「もうさみしいのは嫌だ」……と確かに僕の口から漏れた。滑らかに発したと思いきや、存外に声は掠れていて。
「後悔すんなよ。ありとあらゆる苦情は受け付けないからな」
 ハリエットは大きな溜め息を吐いた。そして王に顔を向けると「ストーカー、いてもいいか?」と問いかけ、僕のことを親指で指した。すると王は、スマホから顔を上げずに、
「……おまえにはしたいことが、あるのでは?」
 と平淡な声を発し、それからスマホの画面を消したようだった。
「え……ない、けど」
「そうですか。今日は帰らないつもりだったので、おまえも好きにしたらよかったのに」
 一体、なんのことだろうか。しかしそれよりも「帰らない」とは聞き捨てならない。胸に蟠る形容し難いなにかが言葉としての体裁を保とうとはたらきかけて、微かな唸りが沈黙へと変化する。だが僕が言いたいことを纏めるより先に、ハリエットが立ち上がった。そして、
「行こうか、お嬢ちゃん」
 と王だけを見て微笑む。優しい顔だった。
「なあ、キミはデートのときは腕を組みたい? それとも手を繋ぎたい?」
 そう問う声も、心底甘くて。
「わ、わわわわわ、わわわ」
 王が酷く動揺さえしなければ、やっぱり僕はその場に座り込んだままふたりを見送っていただろう。
 しかし、わ、としか発しなくなってしまった王が、大きく見開いた目とピアスを揺らしながら、今しがたバッグにしまったばかりのスマホを取り出して「ヘイ、ヴォートラン!」と、自身の大切にしている羊のぬいぐるみと同じ名前をつけたバーチャルアシスタントに呼び掛け、
「デート、手、腕、どっち」
 と検索させ始めてしまったのは見過せなかった。意を決して僕も立ち上がり王の傍に寄ると、その震える手からゆっくりとスマホを引き抜く。そうせざるを得なかったのだ。
「かえして、かえして!」
 検索結果を確認するより前にスマホを取り上げられ、王は不安そうに瞳を左右に揺らしながら僕の腕に縋り付いてくる。その異様に怯えた姿に、心を鬼にして「……王?」としずかに呼び掛けた。途端に王は「はい」としょぼくれた様子で大人しくなったので、その前にしゃがんで下から目を合わせた。
「今日は、ハリエットがアマヤカスをしてくれる日です。でもハリエットは他人だし、僕みたいにキミとずっと一緒にいた訳じゃない。なにをしてほしいのか。なにをされたくないのか。ちゃんと自分で伝えてください。意見がぶつかったら、話し合って。検索はダメ。僕に聞くのもダメ。スマホは預かります。写真は撮ってあげるけど……わかりましたか?」
 しっかりと噛んで含めるように言い聞かせると、王は「むん」といつもの鳴き声を上げてから、それを「はい」と訂正した。
「よしよし。大丈夫だから。ね? ……いってらっしゃい」
 そしてその背中を押して促すと、王は待っていたハリエットにちいさな声で「手を繋ぐのがいいです」と意見した。
「……ん。じゃあ、ほら」
 そして、王は彼が差し出した手を握った。大きさのまったく違う手と手が重なり合うさまが、妙な感動を誘発するものだから、僕は。
「うわあああああ! きっつ! やばいって!」
 お得意の躁鬱ジェットコースターで、いつも通り病んでしまう。顔面を揉みくちゃにし、髪を振り乱して。死ぬほどしんどいが、実はちょっと楽しくなり始めてもいて。
「うるせえ! 苦情も病みもお断りだっつってんだろ!」
「病みは禁止されてなかったじゃん!」
 元気よくハリエットに噛み付ける程度には、気持ちに晴れ間が差していた。

「ハリエットさんはなんだかいい匂いがしますね」
「そうか? 香水はワンポイントだけだからそんなに香らないと思ったんだが」
「どこにつけてるの?」
「どこだと思う?」
「あててみせます。ええと……失礼しますね」
「おっと、そんなにくっついたら……」
「むん? あら、ここですね」
「……正解」
 イチャイチャしやがってよ……と、まだデートの序盤も序盤であるにもかかわらず、何度思ったかわからない。その幸せそうに輝く光景を目にするたびに、嫉妬心と連動した頭部の血管がはちきれそうになっており、溢血しないように気を張って、リラックスのため深呼吸をするというこの矛盾。僕の悟りを急ぐ瞑想を嘲笑うが如く、ちらりと僕を振り返って口角を持ち上げるハリエットに向かって、思いっきり中指を立てると、周囲の乗客がくすくすと笑って茶化す。そんな、観光地へ向かうバスの中。やめておけばいいのに、僕はふたりの真後ろの席に陣取ってしまった。
「ねえ。デートのとき、他の人を気にするのはエチケット違反なのですって」
 シートの背凭れで見えないが、王はハリエットの身体のどこかに触れてそう言ったようだった。しかもその発言の内容は僕が以前火鍋の店で教えたことであり、もっともな指摘であるものだからつい舌を巻く。ともすると、王のこのハリエットに対する距離感の近さの学習元は、僕である可能性が高い。つまりこの灼熱地獄は自業自得なのだ。
「……そうだな? ごめん、あまりにも後ろが煩くて気にしちまった。許してくれ」
「ふふ。どうしましょう」
「頼むよ。もうキミだけしか見ない」
 歯の浮くことを言いやがって、と思うものの、それがやけに似合ってしまっているのがこの男のムカつくところだ。王も高速鉄道に乗り、それからバスへと乗り継ぐ間に幾らかリラックスしたらしく、時折飲み物や菓子を分け合って楽しそうにしている。初めてのデートのくせ、長距離移動とは……とスマホに送られてきた行先を見て顔を顰めたのだが、なるほど、これは初デートだからこそ道中ゆっくりと話せて、しかし移動中であるという状況設定ゆえに景色を眺めたりと無理に話さなくてもよいという、彼なりの気遣いなのだろう。要は車窓からの景色が素晴らしいという環境を利用した、『映画館』と『水族館』の合わせ技なのだ。これは確かに初デート然としていると言えなくもない。
「もっと景色を見たらどうだ? こっちばかり見てないで」
 ふと聞こえてきた彼の指摘に顔を上げると、確かに窓側の席に座った王の膝はハリエットのほうに向いているようだ。普段の王なら窓に齧り付き、飽きたら寝るかソシャゲをするというのがお決まりの流れだったのだが、今日はその意識が彼に集中しているらしい。ハリエットの言葉にはっと目を見開いた王は「え、ああ、そうですね」と頷き、ぎこちなく車窓を振り返ろうとする。
「でも俺のことが気になるなら勿論、歓迎する」
 しかしそれを引き留めるのは言い出しっぺであるこの男。その抑揚の効いたフリに、王の視線はより一層彼に釘付け。あーあ、と言うべきか、舌打ちが最適か。白目を剥きたくなるのを堪えながら、手元のスマホで弊社のグループチャットに、
【悲報】王ちゃん、馬の骨のどの部分ともわからぬ男とデート。
 と送信する。すると即座に、
「朗報の間違い」「訃報の間違いかも(社長の)」「どうせ馬は馬でもアハルテケ」「フリージアンでは?」「社長はシマウマ」「オール・オア・ナッシング思考って言ってやるなよ。可哀想だろ」「社長ってメンヘラなのバレてないと思ってる節があるよね。めちゃめちゃメンヘラなのに」「無理しないでほしいよね」「ね」「しゃちょー! 生きて帰ってこいよー!」
 と、いつも通りのやりとりで画面が埋まる。普段なら怒りの感情を表すスタンプでも送ってやるところだが、今日はじんわりと心あたたまるようで、「生きて帰れたら皆の好きなもの奢るよ」と返せば、「あ、これ死んだわ」「弊社初の社葬」「こういうときってどの部署が動けばいいの? 経理?」「減価償却すな」「私はやりませんよ」「くじ引きで担当決めとくか」「『葬儀課』ってカッコよくない? 黒手袋しようぜ」と、完全に僕を軽んずる流れが形成された。
「くそー。帰ったら覚えてろよ」
 そう息だけで呟きながらも、口元で噛み殺しきれない笑いが蠢く。こうなったら絶対に生きて帰ってパワハラBBQ会を催してやる……と決意を固めて顔を上げると、ふたりが僕になにも言わずバスを降りるところだったので慌てて追いかけた。

 まだ顔を合わせるのは二度目にもかかわらず、非常に仲睦まじいふたりを嫉妬と羨望の眼差しで追いかけて辿り着いたのは、西江千戸苗寨シージャンチェンフゥミァオジャイだ。ここは一応、元々旅程に組み込んでいた寨(村落を意味する)であり、一石二鳥かと気を取り直し僕も幾らかリラックスして景色に向かってスマホを構えた。
 ここは世界最大のミャオ族の村であり、貴州の代表的な観光地でもある。高低差のある険しい地形の上に、吊脚楼と呼ばれる古い建物が並んだ、砦のような外観の街が自然な状態で保存してあり、人々の生活様式もクラシカルなものだと聞く。その歴史はかなり長いが、貴州自体の経済発展が非常に遅かったこともあり、観光地化されたのは二〇〇〇年代に入ってからだ。地域に根付く伝統的な生活様式が体験できることに加え、貴州は国内有数の避暑地でもあるがゆえに夏場は観光客でごった返すと聞いていたので、こうして来訪に秋を選んだわけだが、それにも関わらず人が多い。見たところ、国内からの旅客が殆どだが、それは村落に入るのに外国籍の人間には幾らかの手続きが必要だからかもしれない。
「いい風……」
 目の前の王が、秋風に目を細めて鼻を効かせている。この村落の背景は秀麗な大自然。緑の風が秋の薫りを孕んで路地を吹き抜けるその肌感覚は、確かに快い。このままふらりと散歩にも出かけたいような陽気だが、今は王とハリエットから目を逸らすわけにはいかない。こんな山の中に連れ込み宿などあろうはずもないが、万が一、万が一を考える。万が一あったとしたら、ふたりがふっと姿を消すかもしれない……と思ってしまうのは、ハリエットの立場に僕を当て嵌めているからだろうか。
 石畳の道を歩いて少し。商店の立ち並ぶエリアへとやってきた。食べ物や土産物の屋台がひしめくなか、王が足を止めたのは、看板に糕粑ガオバーと掲げた屋台。パッと見ではなんの屋台かは分からないが、漢字からしておそらくはスイーツなのだろう。店員が手慣れた手つきで粉に湯のようなものを注ぎ、練り上げてはスライムのようなゲル状のなにかを作り上げている。
「食べたいの?」と僕が問うよりも先に、王の視線に気がついたハリエットが「買おうか」と足を止める。すると王はぱっと目を輝かせ「いいのですか?」といつもの笑顔……よりも幾らか恥じらった表情で答えた。
「いいに決まってる。欲しいものはなんでも言ってくれよ。……お姉さん、それふたつ。あとヤマモモジュースもふたつね」
 さりげなく、しかし素早く支払いを済ませたハリエットは、その不思議なスイーツが手早く練られていく様子に魅了されている王の姿に、微笑ましそうに目を細めている。正直白けるが、王の前では誰だってそんな優しい表情をしたくなるというものだ。「わほほ」と嬉しそうに両手でちいさな拳を作っている王に動画カメラを向けていると、ハリエットはちらりとこちらを確認してから店員に尋ねた。
「お姉さん、これはどういう小吃だ? 初めて見るんだ」
 確かに半年ほどこの国に滞在しているにもかかわらず、一度も見たことのないものだ。それはハリエットも同様なのだろう。
 すると、店員の年若い女性は粉と湯量の調節をしながら言った。
「貴州のローカルスイーツみたいなものです。材料はゴルゴンの種の粉末、それから蓮の種の粉末を混ぜたものですね。あっさりしているので朝に食べる人が多いですよ」
「ほう。聞いてみても想像がつかないな」
 確かに、その味は僕にも想像ができない。最後に黒いソースと数種類のナッツが振りかけたそれをハリエットに手渡した店員は、そこで初めて彼の顔を視認したらしい。「あらイケメン……」と洩らしてぼうっとしてしまった。そんな彼女の反応に、王は危機感を覚えたようだ。にもかかわらず「ヤ」とちいさく遺憾を漏らすだけなものだから、堪らなくなってしまってその背後から近付くと、その肩をわざと押し退けるようにして、ハリエットの脇腹に王の身体を押し付けた。そしてその動作のまま、別の店員がプラカップに注いだヤマモモジュースを僕が受け取れば、たちまち店員ふたりの視線は僕に釘付け。……計算通りだ。
「え、なにかの、撮影ですか……?」
 あえて前髪を避けるように顔を揺らし、眼鏡を視界からずらすように顎を引いて彼女らを見れば、彼女らの目は催眠状態よろしく、霞む。ちょろいな、と思いながら、しかし笑顔で、
「そう、撮影。どこかに座って食べる場所はある?」
 と問うてみれば、操られているかのように彼女らはふたり同じ動作で店の奥を指さした。
「あ、あっち、です……」
「あっちね。シュエシュエ」
 牽制を済ませ、ついでに席情報も確保して、そのイートインスペースを顎で指すと、ハリエットは「サンキュー」と軽い調子で言って僕の先を進んだ。そのすぐ隣を、さっき期せずしてハリエットに抱き着くかたちになったことが恥ずかしいらしい王が、おずおずと進む。斜め後ろから見るその耳はほんのり桃色に染まっており、歩きながら王は「あわわ」とその色づきを手で擦っていた。
 そしてふたりは並んで店内の窓辺にあるカウンター席に腰を下ろしたので、僕は王の隣からひとつ空けた席を選ぶ。すると例の糕粑のカップとふたりの前に置いたはずのヤマモモジュースがひとつずつ、目の前に滑ってきた。
「こちらのお客様からです」
 僕の目を見ずにそう言ったハリエットに、
「僕の方は見ないんじゃないの」
 と返す。すると彼は「見てねえだろ。それに、デート相手の飼い犬にも一応敬意は払うだろ? 可愛ければ撫でるし」と不敵に笑った。
「ワンワン。今日の僕はトイプードルの妖精さんだワン。おやつ嬉しいワン」
 肩を竦めながらそう言ってやると「スタンダードの間違いだろ。詐称すんな」と吐き捨てられた。そこで待ちきれなくなったのか、王が「食べていいですか?」と彼の袖を引いたので、反論を諦めて口を閉じる。
 僕の目の前で糕粑を食べさせあってイチャつくふたりを肴に飲んだヤマモモジュースは、香りがとてもよく、酸味も強めで美味しかった。そして糕粑。ソースとナッツを全体に行き渡らせるために、店員の手つきを真似てスプーンで練ってから口に運ぶと、味は予想よりもずっとさっぱりしていた。味は黒蜜だろうか。とろんとした口当たりに、ナッツ類の歯応えと香ばしさがちょうどよく、食欲がないときにも重宝しそうな軽さだ。他の地域にもあるのなら、間違いなく見掛けるたびに買うだろう。
「さっきから、気になってたが……お嬢ちゃんは間接キスは平気なんだな」
 ふと、そんな不穏な言葉が聞こえてきたのでスマホに落としていた視線を上げる。はっとしたのは王も同じらしく、途端に糕粑を練っていた手を止めて固まってしまったようだ。……処理落ちである。しかしそれは致し方ないというか、そんな質問は、する方がバカなのだ。大馬鹿者だ。こういうときはなにも言わずに楽しめばよいものを、この顔面ハリウッド俳優はそんなことも弁えないのか。……やれやれと呆れていると、がくがくと硬い動きで再起動したらしい王は、唐突に「ヘイ、ヴォートラン!」と声を張り上げた。どうやら大声の声紋認証で無理矢理バーチャルアシスタントを起動させようとしたらしく、僕のポケットの中で「はい、どうされましたか?」とスマホが反応する。
「ちょっ、ダメダメ! ルール違反だよ! ていうか検索しても出てこないって! ……だ、ワン!」
 今日の僕はトイプードル型の黒子なのだ……と意識しながら窘め、王のスマホを取り出す。そして画面上に浮き出た羊のキャラクターをドラッグして家のオブジェクトに引っ込めていると、王は「だって……」とそのちいさな背中を震わせた。その表情は窺い知れないが、ちらりと見えた耳がさっきよりも赤い。鬱血しているのではないかと思われるほどに。
「今日は少し硬いな、お嬢ちゃん。どうした? いつもみたいに笑ってくれ」
 白々しくそう宣ったハリエットは、どこか愉しそうだ。その姿はまさしく、うら若き乙女を翻弄する危ない二枚目。この男、役者である。伊達にハンサムじゃないというか、これで脇腹か背中に刺し傷がなければおかしい。
「ごめんなさい……なんだか、今日は、緊張してしまっていて……」
「どうして?」
「よく、わかりません……。なんだか未知のことがたくさん起こっていて、勉強したはずなのに……落ち着きません」
 この告解も、勇気が必要だったに違いない。赤い耳を何度も何度も両手で揉みながらそう吐露した王の、初心な可愛らしさに胸を打たれていると、ハリエットはその両手に手を伸ばした。そして怯える指を耳から外させると一纏めに大きな手で包み込んで、優しげな顔のまま、ゆっくりとその薄い唇を開く。
「あとでキスしようか。ちゃんと覚えておいてくれ」
 そして発せられた大胆な宣言に、王が「ひ」と細い声を上げるのと、僕が「ぎいい!」と野太く唸ったのは同時だった。唐突な奇声を聞いた周囲の人々から視線を向けられるのを感じながら、王の安否を確認すると、どうやら駄目らしく完全にフリーズしてしまっていて動かない。窓から吹き込む風が、その長い髪だけを揺らしている。その顔がどんなに表情を浮かべているのか非常に気になるが、それを見るのはハリエットの特権なのだろう。そして彼はただ、
「その顔、可愛いな」
 と言うと、握っていた王の手を離したようだった。
「……ハリエット、さん」
 ようやく回線が繋がったらしい王が、弱々しく彼を呼ぶ。
「あまり、いじめないで……」
 しかしその哀願は「真剣なんだけどな」という呟きで一蹴される。僕なんかはそれを見ていて「弄びやがって」と苛立つのだが、王からはどう見えているかわからない。しかし、掌の上でころころ転がされている感覚はあるのだろう。唐突に王が顔を上げたと思いきや、「いじめないで!」と語気強く訴えたものだから、驚いて目を剥く。
「わたくしが可愛いわけがない……!」
 続けて発せられたその言葉は、睦み合う雰囲気のそれではなく、間違いなく悲痛な色を浮かべていた。僕がぽかんと呆けているなか、ハリエットは恐らく僕に向けて「深刻だな」と呟くと、再び王の両手を握ったようだった。
「俺は、キミを可愛いと思うよ」
 彼の優しく諭すような声に、王は大きな声を出したことを恥じたのか、途端に肩を落とした。しかしそれでも、
「ちがう、格好が可愛いだけ」
 と普段より幼げな口調で反論して、どこか怯えているようだった。
「どうしてそう思うんだい」
「わたくしは可愛くないから。みんなラドレの選んでくれた服とか、アクセサリーとか、わたくしの乳房とか、そういうのが可愛いだけ。顔なんて可愛くない」
 そんなことはない、と言いたかった。しかし、今この場で、それをするのは僕ではないということは、ハリエットから僕に向けられた強い眼差しから察せられた。なにかが恐ろしい予感がしたが、今の僕はただ、息を潜めてその成り行きを見守るしかない。
「それももちろん可愛いと思うよ。キミの性格も、話し方も、顔も、みんな可愛い。キミが可愛い。中には格好が可愛いとか、身体の造形が可愛いって、それだけ思う人もいるかもしれない。でも俺は、キミのぜんぶが可愛いんだ。否定しないで貰えると嬉しい」
 その言葉は正しく、優しかった。きっと僕も同じことを言ったと思う。だがしかし、それを聞いた王は「ちがう……」と苦しげに漏らして身体を折った。実際に、苦しいのだろう。
「ちがう、わたくしは可愛くない」
「それはなぜ?」
「可愛くて、綺麗なのは、兄様だから」
 ハリエットの膝に縋りつくようにしながら王が吐き出した言葉に、ただの傍観者である僕の胃がひっくり返りそうになった。食べていたものが糕粑でなければ吐き散らかしていたかもしれない。
「お兄さんがいるんだな。……でもそのお兄さんが可愛くて綺麗でも、キミがそうじゃないことにはならない」
「ちがう。兄様が、兄様だけが可愛くて綺麗なの。兄様はなんでもできる。兄様は優秀なの。兄様が一番正しいの。わたくしなんか一個も、なんにも、できない。なにもない」
 決壊していく喉。その震え。痛々しくて目を逸らしたくなるが、こんなの、見ていないわけには、聞いていないわけにはいかない。ここ最近、特別王の様子がおかしかったのは、なにかくるしいものを溜め込んでいたからか。
「兄様はうつくしい。うつくしいものは正義です。絶対的に正しいものなの。うつくしくて正しいからみんな兄様のことが大好きなの。わたくしも大好き。愛してる。だからぜんぶ肯定するの。したいの。兄様はわたくしの神様なの。だからわたくしのことを殺してもいいの……!」
 信仰。寄る辺。叫ぶようにして王が何度も呼んだ彼は、もういない。それを想うと切なく、叫びの意味を察知しようと記憶を手繰り寄せると苦しい。意図せず恐慌の鉱脈にぶつかった音が、風の音しかしない空間に響いた気がした。
「王……」労わるように其を呼ぶ僕は、確実にその信仰心という名の猜疑心を誘発してきていたに違いない。
 嘘みたいに引いていく血の気に、視野がぎゅっと狭まって、揺れて、気持ちが悪い。しかし、今一番つらいのは、尋常ではない様子でパニックに陥っている王だ。そんな王に、ハリエットは静かに「手を繋ごう」と言って指を絡めると、もう一方の腕で王の縮こまった背中を覆うように抱擁した。それは「庇護」という言葉に最も肉薄しているように思える仕草で、彼は王のお団子ヘアを崩さないように気を遣った様子でその頭を撫でると、言った。
「……キミは、お兄さんのことを幾らでも肯定してもいい。お兄さんは素晴らしい人なんだろう、きっと。でもその肯定のために自分を否定する必要はない。キミはお兄さんに似て、可愛くて、綺麗で、たぶん自分なりに正しくあろうとしている。でもキミの命の価値は相対的に決まるものではないんだ。天秤に載せなくていい」
 祈るような声だ。切実であればあるほど、重みを増して、低く響く。……刺さってくれ、と僕も祈る。心に刺さってくれ。僕の言葉でなくとも。
「じゃあなんで……なんで……」王はなおもその居心地の悪い場所で粘っているのか、膝の上で拳を握っているようだった。
「……なんだい。言っていいよ」
「なんで……わたくしは……とじこめられなきゃ、いけなかったの。どうして」
 その疑問は、正しかった。王は世界に対して、もっと怒ってもよかった筈で。
「…………」
「屠肉に選ばれた理由が、ほしい」
 あまりにも痛々しい希求。
 ハリエットは目を閉じた。
「……わからない。わからないな。でも」
 彼がすっと息を吸う音が、雑踏のなかやけに響いた。
「……キミが、屠肉にならなかった理由が、誰かの愛のおかげだということは、わかる」
 彼の言葉は、今、間違いなく。王を救った。どれだけの負債を救えたか、どれだけの重荷を解かせたかはわからないが、この何気ない観光地の、けして世界を救うに値するほどロマンティックとは言えないこのイートインで、彼は王の世界に、立ったのだ。
「愛……?」王はこわごわと呟く。
 そうだ。その処理場に、目を向けろ。
「愛されたことのない子が、人とものを分け合ったり、食べさせたりしないさ。……もう一度食べさせてくれるかい」
 そんなハリエットの『お願い』に、王は顔を上げた。この子は人にお願いをされると、なんでも応えようとしてしまう。普段は切なく思っていたその癖が、今はいくらか心の推進力になったはずだ。王は予想通りにまだカップに残っていた糕粑をおずおずと掻き混ぜ、スプーンで掬うと、それを彼の口元に運んだ。そして徐ろに立ち上がると、僕の目の前にやってきてまたひとさじ、突き出してきた。死ぬほど嬉しかった。だがしかし、ここで数秒の沈黙が発生する。
「……これ、関節チューでは」
 どうしても、指摘せざるを得なかった。
「食えよ。食うしかねえだろ。空気読めよカス」
「カスって言うなし」
 そんな応酬の最中も、王は下唇を噛んで、顎にぎゅっと皺を寄せて言葉を発しない。そんな切ない顔をされては、堪らない。意を決してひとくち。その瞬間、ぱっと笑顔になった王は、ニコニコしたままハリエットの傍に戻ると「ふへんへ」となにやら新しい笑い声を上げてから「くちびる、やります」と言ってバッグの中からコンパクトミラーを取り出した。その頭をもう一度撫でたハリエットが「ゴミ捨ててくる。外で待ってるな」と言って空容器を回収したので、その後に続いた。
「……ありがと」
 路地の端で王を待っている最中、悩んだ末にそう口にした。すると彼は指で目元を押さえて「いやー、効いた」と漏らして溜め息を吐いた。「夢に見そうだ。あんなに怯えて……可哀想なことをしたな」
「でも、いつか通らなきゃいけない道だから」
 本音。それは、いつも一緒にいる相手にこそ言えないのかもしれない。
「お前にも効いたな? あの子の言葉。効いたならいいんだよ」
「……あの子、僕にはそういうこと言わないから、一段とね」
 僕に言えないことがあるという、その言葉自体はけして愉快なものではないが、実際にはそんな事実が嬉しかったりもする。真にプライベートな部分を外から見えないように抱え込み続けるのはつらいが、誰にでも普通にあることだ。そんな当たり前が、王にもあるという実感が今は嬉しい。
「……いつからとは言えないが、お前らを監視する命令が下りたときから、ずっと気になってたんだ。あの子、ちょっとおかしいぞってな」
 彼はそう言いながら、上着の懐からタバコを取り出し、そして禁煙エリアで吸えないことに気が付いたのかすぐにそれを元の場所にしまい込んだ。
「おかしい、って?」
「……いや、言わん。あの子のプライベートだからな」
「教えてよ」
「お前にはその権利がないから無理だな」
「なんだよ、ストーカーのくせに」
「任務でやってるだけだ」
 僕の揶揄にハリエットがぶっきらぼうに返したところで、王が店から出てきた。その瞬間、僕も彼と同時に手を挙げたが、位置を知らせるのは彼の役目だと思い直して手を下ろす。王はハリエット(と、僕)の姿に気付くと、こちらにぱたぱたと駆け寄って来た。どうやらいくらか落ち着いたらししい。そしてその唇は王に持たせていたグロスによる繊細なパール偏光を帯びており、なんだちゃんとできるじゃないか、と思いながらふたりに続く。その瞬間、王宮にいた頃の王はしっかりと化粧をしていたことを思い出し、人間界に来てからの王は化粧を『ひとりでできなかった』のではなく『進んでやらずにいた』のかもしれないことに気がついた。

 西江千戸苗寨は金銀細工師村としても名を馳せている。特に銀細工の繊細な冠が有名で、他の装飾品と合わせてレンタルをして街歩きや撮影を楽しむ人々の姿が多く見受けられた。特に立ち寄った資料館に展示されていた巨大な冠は圧巻で、繊細なパーツが継ぎ合わされて構成されているという事実がどこか信じられないほどのスケールだった。
「まあ、わたくしの冠より大きい」
 ガラスケースの中を覗き込み、どこそこが特に綺麗だと指差してはしゃぐ王の肩を抱きながら、ハリエットは「首が折れそうだな」と風情のない相槌を打っている。そんなふたりの写真を撮り、掲示されている資料を読んでいると「ねえおまえ、わたくしの宝冠はどうなったのですか?」と王に声を掛けられた。一瞬、誰に向けたものなのか解らずにびくりと肩を震わせてしまったが、その問いは僕に対するものでしか有り得ないと思い振り返ると、王の睛はやはり僕に向いていた。どうやら先程の「あーん」で僕も黒子を卒業させて貰ったらしい。依然として王と『ラブラブする権利』はハリエットにあるようだが。
「……知らないな。僕も帰ってないし」
 少し考えて、そう答える。あれを最後に見たのはいつだったか……思い出したくもないが、王のために誂られたその宝冠は、いま思えば客観的には素晴らしい芸術品だった。
「ご実家と連絡は?」
「取るわけないでしょ。取りたくもないよ。そもそもお取り潰しになってるんじゃない」
 予期せず不機嫌な声が漏れたが、王は僕の気持ちを汲んでくれたのか、
「そうですか……わたくしの宝冠、溶かされて銃弾にでもなったかしら」
 とただ歌うように言って僕の右手の小指を握った。
「なんだ、実家と仲悪いのか?」
 僕と王とハリエット、三人で手を繋ぐようなかたちになっていることに、彼は特に文句はないらしい。ただそんな雑談の雰囲気を醸し出しつつ、展示物に見入っている王の羽毛のような睫毛の辺りを見下ろしている。
「実家と言うか……まあ父とね。母親似で本当に良かったよ」
「へえ。お母さん美人なんだな」
 そうさらりと言って、ハリエットはなにやら壁に貼られていたポスターに添えられていたコードを読み取ったようだった。どうやらそれは銀細工衣装のレンタルショップの一覧らしく、なるほど、彼は王を着飾らせてやろうというつもりなのだ。
「そうそう。おまえの御母堂さまは本当にお美しくていらっしゃいますものね。わたくし、思わず求婚してしまうかと思いました。ガマンして、えらいぞわたくし」
 不意にひとりガッツポーズをしてそう言った王の言葉に、思わず目を剥く。初耳だった。
「え、母に会ったことあるの」
「ありますよ。すこしおしゃべりをしました」
「いつ? なに話したの?」
「内緒、です」
 普段なら「えー教えてよー」と王を追いかけ回すところだが、今はどうしてか憚られた。そして同時に「父でなくてよかった」という安堵が沸き上がる。彼は……王のことを、酷く嫌っているようだった。一体一で会わせることなど絶対にできない。
「仮にお嬢ちゃんとその美人お母さんが結婚したら、お前はお嬢ちゃんの息子になるんだな」
 ふと、そんなことを言ったハリエットは、展示物を眺めながらもその意地悪な表情を僕に向けているつもりのようだ。しかし「おお」とどこか楽しそうに彼を振り返る王の前では、すぐに柔らかな眼差しに戻って笑いかけている。好きな子の前でだけ甘くなる男なんて大嫌いだが、僕も人のことは言えない。誰の恋愛模様も、他人からしたら気色が悪くて当然なのだ。
「やめてよややこしすぎる」
 文句の語尾を溜め息へと転換する僕を他所に、「わっほっほ。息子よ、肩たたき券を寄越しなさい」と、王は胸を張ってなぜか得意げだ。
「肩たたき券って要求するものじゃないでしょ」
 僕がそう指摘すると、王は頬をふくらませて「ほしいのに」と呟いた。いつものジャイアニズムが戻ってきていることに安心していると、
「お嬢ちゃん、肩なら俺が揉んでやるよ」
 と図々しくハリエットが割って入ってきた。
「ほんとうですか? やった」
「ちいさい肩だからすぐに揉み終わるだろうな」
「では腰の辺りまでお願いしていいですか? このJがおもたくて腰にくるのです」
「……J、だと?」
 王の開示したパーソナルなアルファベットに、途端に顔を険しくしたハリエットは王から見えないようにして、その手の指を折り始めた。そして両手の指がすべて折られたことに「十番目……?」と驚愕しているが、僕も過去にそれとまったく同じ動作をしたことがあるので咎めることはできない。
「……お義父さん、肩たたき券いる? 回数無制限なんだけど」
 いかがわしい思考を隠しきれずにいる狼を押し退けて提案すると、王は「ちゃんと紙のチケットでくださいね」と微笑み、それから「お財布に入れて仕事の最中に時折眺めたりするのです。はぁ、あと一時間がんばるぞ……とオフィスで凝り固まった身体を伸ばすのです」となにかで見聞きしたのかやけにリアルなシチュエーションを口にした。
「すみません、肩たたき下請け業者ですが、施工の日程についてご相談を……」
 またしても割り込んで来たのは、その厚い面の皮の内側では鼻の下が伸びているであろうハリエットだ。それを聞いた王は、はっとした顔で僕に縋り付き、
「ピンハネ! いくらピンハネしたのですか! お義父さんは悲しいですよ!」と厳しく追求してくる。「お義父さん、ストを起こしますよ!」
 なんなんだこれは……と思いつつも、そんな奇天烈なやりとりに、すこし凝りが取れたような、じんわりと温感が広がるような肌感覚がして目を細めていると、不意にハリエットのスマホが鳴った。
「お、順番が回ってきたみたいだ。行こう」
 どうやら貸衣装屋から連絡が来ようだ。首を傾げる王にハリエットは「お嬢ちゃんは何色が好きなんだ?」と甘い声で問いかけて腰を抱こうとしたので、それはまだダメだと彼の手を掴んで制する。するとそれを見た王は「まあ、おてて繋いでなかよしですね」と嬉しそうに両手を合わせると、「どっちがどっちですか?」と僕が教えていないはずの知識を思わせるような疑問で以て、僕のメンタルを削ってきた。

 店に着き、数ある候補から衣装を選んだあと、老齢の女性店員に「どっちが彼氏だい」と問われ、僕とハリエットはつい黙り込んでしまった。すると「彼氏じゃないと手伝いは駄目だね。外で待ってな」と突き放されてしまったので、店前に広がる円形の広場で待つこと二十分弱。
「なあ、Jってどんな感じだ」「……もうこれ以下の子は無理ってなる」「嘘吐け」「顔埋めてみなって。多幸感がヤバい」「埋めていいのか?」「ダメに決まってるでしょ」……そんな、王には聞かせられないやり取りをしていると、ふと花束の香りがして彼と同時に顔を上げる。
 シャラシャラと繊細な金属音をさせながら、ミャオ族の伝統衣装に身を包んで店から出てきた王は、浮世離れした優美な佇まいで、神々しかった。
「ええと……どう、ですか」
 大きな冠に両手を添えた王の、はにかんだ顔の愛らしさを引き立たせる銀飾の数々。三日月を思わせる首飾りには魔除けの意味もあるというが、確かに魔除けを願ってしまうほどに身に付けた者の手脚をほっそりと見せる造りだ。今日のデートウェアと似た色合いのベアトップワンピースは、幾何学的な刺繍がオリエンタルな風情を醸し出し、その上に羽織ったワンピースと同系色の上着は、七分袖で絶妙な活発さと可憐さを演出していた。全体的にキュート寄りの系統ではあるが、これを身につけているのは他ならぬ王である。やはり冠を初めとした豪奢な装飾品を身に纏うと、凄味と神々しさが増し、息を飲むほどの威圧感すら感じさせるものだから、つい膝を折りたくなった。
「ねえ、どう、ですか?」
 言葉を失っている僕とハリエットに、王は痺れを切らしたのか「むん!」と可愛らしい威圧をしてくる。しかし心のままに「可愛い」だと「綺麗」だのと言ってしまうことは、先程の出来事からも憚られ、僕と彼は示し合わせたように拍手をすることしかできない。そんな僕たちを見て、王は不満そうに口をへの字に曲げると、ぷいとそっぽを向いて幼子のように両手を背に肩を揺らした。
「容姿への賛美をゆるす。かわゆい我がパピーたちよ。余のかわゆさは、相対的に決まるものではないのだろう? 余、かわゆいのだろう? なあ。なあ……」
 冠に引っ張られた口調になっていることに、王自身は気付いていないのだろう。唐突な懐かしさに破顔しながら、「イエス・ユア・マジェスティ」と返事をする。そして目を見て真っ直ぐに「可愛いよ」と伝えれば、王はにっこりと笑顔になって自身の頬に両手を充てた。
 ハリエットは、そんな僕たちのやりとりを無言で見つめてなにか物思いに耽っていたらしい。僕が「ほら、アンタも可愛いって言いなよ」と促すと、はっとして肩を跳ねさせ、それから王の前に膝を折った。先を越された……と僕が思ったその瞬間、案の定彼は王の指先にキスをして、「お美しいです、陛下」と微笑んだ。するとたちまちのうちに王の頬は薔薇色に。ちくしょう! と内心嘆きながらも、そんなふたりの姿が麗しくてついスマホのカメラを向けた。

「おっきいツノ。かっくいいツノ。のびろのびろツノツノ。ツッツノツッツノ」
 長年の呪縛から王が解き放たれたかどうかは分からないが、枷を外して心が軽やかになったらしい。僕とハリエットと手を繋いで、王は風雨橋と呼ばれる、古風な屋根付きの木造橋をずんずんと進む。この寨には古くからの風雨橋が五つ残っており、民族衣装を着てそれらを巡るのが最もポピュラーな観光ルートだ。
「ツッツノツッツノ」
 王の歌に合いの手を入れていると、ハリエットが「ツッツノとは」と問うてきた。今までストーキングをしていたのなら、王のソウルを感じて雰囲気を受容してほしいところだが、いきなりのご機嫌ソングには常人は驚いてしまうらしい。
「考えるな、感じろ。……でもまあたぶん角のことだよ。王はまだ角がちっちゃいから、冠におおきな角の飾りがついてるのが嬉しくて堪らないんだと思う」
「解説どうも。……ツッツノ!」
 ハリエットまで合いの手を入れてくれたことが嬉しいのか、王は「ふへんへ」と笑いながら駆け出した。それに引かれて速歩で続く。
 少しして、アクセサリーを売る露店の前で再びイチャつき始めたふたりに背を向け、辺りの店を見渡してみる。土産物屋や茶葉、酒の店が目立つが、特に数が多いように思えたのは唐辛子を扱う店である。その殆どが用途にそれぞれに合わせた粒度の粉末の量り売りをしているらしく、他にも生、干し、揚げなどの選択肢があり、オマケに『貴州の辛味の種類』ごとにも分けられていた。店先に並べられたそれら壺の数は非常に多く、視界に入るだけで舌が辛味に縮むようだ。
 その中でも気になったのは糟辣椒ザオラージャオである。眼鏡でテキスト検索をしてみたところ、発酵唐辛子とある。材料は一般的に大蒜、生姜、塩、白酒。これは色々な料理に使えそうだぞ……と店に近付いて一瓶買ってみる。スープや煮込みの隠し味にもよさそうだ。
 人間界にやってきて、ホテル住まいを脱して住居を手に入れてからも暫くは仕事が忙しく、深夜帰宅が多かったため、僕には自炊の習慣が身についた。ひとりならば食わずに寝るという選択肢を取ることができるのだが、なんせ僕には王がいる。最近まで買い物すらひとりでできなかったほど生活能力の低い王にひとり外食をさせるのは当時も不安で、遅くなる日は社員に食事の面倒を見て貰ったり、僕が作って食べさせたりしていた。僕の料理の腕については客観的な判断はできかねるが、王はいつもニコニコしながら料理を食べてくれていた。拙い手つきでスプーンを握って。あの笑顔から得られる安らぎといったら、他のなににも替えがたい。「おいしい?」と問えば、その感覚はまだよくわからないのか首をくるんと傾げていたあの頃の王が、今は「ハオチー」がわかるようになった。小さくて大きな一歩。着実に前に進むいのち。僕がいなければ生きていけないと思っていたあの可愛い王が、今日はなんとデートをしている。僕以外の男と。その男にまた新たな一歩を後押しされて、王はぐんぐんと、まだまだ進む。
「なんて顔してんだお前」
 戻った僕を呆れ顔で迎えたこの男は、王に必要な存在だ。ふたりだけの閉じた世界でなんて成長できない。お揃いのブレスレットを買ったらしいふたりに羨望の眼差しを向けながら「いいね、似合ってる」と笑った顔は上手いこと整っていたかはわからない。まだまだ僕は、王とふたりでいたいと思ってしまう。願ってしまう。その想いが胸につっかえて苦しい。
「おそろい、いいだろ」
「わほほ」
 楽しそうなふたりに「いいなあ」と言おうとして、声にならない。狭まった気道から漏れた微かな吐息は、僕を情けない顔で笑わせて、理想の格好良さや包容力とは掛け離れた情けなさを滲ませる。そんな僕をちらりと見て、ハリエットは「お嬢ちゃん、がんばれ」となぜか王に声を掛けた。すると王は「ほあっ、ほあっ」と言いながら体側に添えたガッツポーズを上下に動かす。これは王がなにかを奮起するときに行うモーションである。そして僕の傍まで数歩の距離を駆けてきた王は、僕の手首になにかをぱちんと嵌めた。
 見るとそれは、彼らと揃いのデザインのブレスレットだった。
「お前の分はお嬢ちゃんが買ったんだぜ」
 ハリエットはそう言うと「お前とおそろいは嫌なんだけどな」と余計なことを付け足してそっぽを向いた。
 王は「オソロイ、はおんなじ、のことですね」とニコニコ笑顔で僕を見上げる。「知っていますよ、デートではオソロイ、するのです。合ってますか?」
「……合ってる」
 外気に触れた頬の内が震えたのは、嬉しさからだ。おそらく王は、僕を世界に置いてくれている。そんな弱気な確信で、僕の心は星へ落ちるようだ。見あげた星にすっと吸い込まれてしまうような、錯覚。或いは希望。この夢想的な感覚を、恋と呼ぶことくらい僕は知っている。好きだ、と思った。あらためて、王のことが好きだと。
「ありがとう」
 なんとかお礼を言うと、王は、
「わほほ」
 とまた笑って、僕の提げていた袋を覗き込んだ。
「なにを買ったのですか?」
 そう言った王の肩が、瞬間、強張った。逃げようとするそのうなじを即座に捕まえて「ちゅーする?」と問えば「ヤです!」と細い腕がハリエットに向かって伸ばされる。そして「どうしたどうした」と寄ってくるハリエットにしがみついて「たすけてください!」と喚く王は、心底唐辛子というものに怯えているようだった。あれが特別辛かっただけであるのに、警戒レベルが一気に上がったのだろう。僕の手を振りほどき、驚いた猫のようにハリエットの肩に登ってしまった。それを片腕で抱くように支えたハリエットの頭に、王の身に付けていた首飾りが乗るような形になり、まるでヘイローのようだ。彼は「なんなんだ、マジで」と漏らす最中に、自身の横顔に押し付けられているのが王のご立派な胸元だということに気が付いたらしい。途端、目を剥いたまま動かなくなった。
「ちょっとハリエット、ラッキースケベやめて。紳士でしょ。離れて」
「……なんだこれ、水? 水か?」
 その気持ちは理解できる。
「乳ですね」
「……いい匂いがする」
「嗅ぐな。殺すぞ」
 そして風呂を嫌がる猫よろしくフーフー言っている王をなんとかハリエットの上から引き剥がし、風雨橋巡りを再開する。王の写真を撮り、ふたりの写真を撮り、風景や人々の営みも写真に収める。時折ハリエットが僕と王の写真を撮ってくれているのを感じるたびに、僕のスマホが震えるのは、おそらくメッセージアプリのアルバム機能を使っているからだろう。
 村の中を流れる浅い川の飛び石に乗って遊ぶ王に「転ばないようにね」と声を掛けて動画カメラを向けていると、川面に足を浸したハリエットがフレームインする。どうやら靴と靴下、それから上着を脱いで躊躇いなく水に入ったらしい。捲ったズボンの裾から覗く筋肉質な脛が、瑞々しく水を弾いている。僕なら、タオルの有無や上着の汚れない置き場所を確認してからでないとできない行為で、心底羨ましい。
 遠くを指差してなにか王に囁いているハリエットの胸に、王は半身を預けながら目を細め、それから笑う。貴重な晴れ間と、陽光を受けプリズムのようにきらめく水の飛沫も手伝って、なんとも眩く、尊い光景だ。そして彼を支えに靴を脱いだ王が、彼に手を取られてざぶんと川に入る。ぎゅっと適当にまとめられた衣装の裾にヒヤヒヤしながら、僕はその美しい絵を記録に残すことに勤しんだ。
 そして珠玉の一枚とムービーを、王とハリエットにそれぞれ共有しようとして、間違えて直近の履歴にあった会社のグループチャットにもチェックを入れてしまって。
「やっべ」
 慌てて取り消そうとするが、昨今の通信は山の中でも爆速である。キャンセル処理が間に合わず、送信されてしまった。みるみるうちに増える閲覧数。たちどころに集結するコメントの数々。
「陛下の可愛さがカンストしてますね」「誰だこのイケメン。若い頃のマスミ・オカダ?」「喩え渋すぎねえか?」「作画が緻密なタイプの少女漫画だ……」「πがパツパツ」「どっちの」「どっちもなのでこれは百合の可能性がある」「陛下、こういう系がタイプなんですね。わかるー」「恋する乙女の顔してますねえ。応援しちゃうわあ」「社長! なにしてんすか! 撮ってないでグイグイ行きましょうや!」
……騒がしい。その騒がしさに、呆れ半分、傷付き半分で「噛ませ犬だけど質問ある?」と送信する。すると経理担当のツェリスカから「ねえ、いまどんな気持ち?」と送られてきて、それに大量の賛同スタンプがついた。
「これが案外、悪くない」
……本音だった。
「噓吐け」だの「危機感持て」だの、叱咤激励のコメントで画面が埋まってきたところで、ハリエットが王を腕に抱えて戻ってきた。
「足拭いてやってくれねえか」
 そう促されて、王のちいさな足をハンカチで拭いてやり、ハリエットが指に引っ掛けていた靴を履かせてやる。そして王を下ろした彼が自らの足を拭いているのを眺めながら「随分と楽しそうでしたねえ」と悪態吐けば、「この子がいたらどこだって楽しいだろ」と返された。
「……確かに」
「ふわふわしてるようでなんでもよく見てる。お前、気をつけろよ」
 彼の言葉がなにを指しているのかわからず、どういうこと? と漏らしたタイミングで、彼のスマホが鳴った。彼が言うには衣装返却のアラームらしく、いそいそと先程の広場へと戻り、名残惜しく写真を数枚撮ったあと、貸衣装屋で返却手続きをした。そして再びロマンティックな服装に戻った王が「肩が凝りました……」と漏らすので、後でマッサージをしてあげるよと約束をして、帰りのバスへ乗り込んだ。

「セクハラはしないでよ」
「しないし、してないぞ。一度も」
 一番後ろの席に三人並んで座り、真ん中に座らせた王のマッサージをふたりで半身ずつ担当する。あの銀飾は総重量が約十キログラムもあったらしく、その重さの大半を占める冠を長時間頭に載せていれば、凝って当たり前だ。肉体的にも精神的にも負荷があった一日で、幾らか疲弊している様子の王だったが、僕たちに揉みくちゃにされながら「左右でぜんぜん違います」とひとり喜んでいる。
「……骨だなー。脂肪も無ければ揉む筋肉も少ししか無いぞ。折れそうで怖い」
「ところがどっこい。僕らとは強度が違う」
「にわかには信じ難いな……ああ、肩甲骨ちみっこいな……」
 沁々とそう呟くハリエットの手が、王の腰に伸びる。マッサージなのだから致し方あるまい……と僕がぎゅっと眉間に皺を寄せたそのとき、王が「ひゃっ!」と高い声を上げた。その声に驚いたのは僕とハリエットだけでないらしく、王も目を丸くして固まっている。
「な……なんだか、ハリエットさんにそこを触られると、むずむずします……」
 そう語尾の消えそうな声で言われて、僕が触ってみるが特に問題はないらしい。彼に目配せをして肩を担当して貰うことにして、マッサージを続行する。
 そしてものの数分で、王は寝落ちてしまった。しかし王が枕にしたのは僕の胸で、思わずガッツポーズをして喜んでいると、ハリエットは左手を軽く挙げて王がその小指を握り締めているさまを見せつけてきた。その得意げな様子にケッ、と興醒めな気持ちを吐き捨てつつも、徐々に顔が笑みに歪んでくる。それはハリエットも同じらしく、彼は、ふ、と喉を鳴らすと窓の外に顔を向けその表情を隠したようだった。
「あのさ、王さ、多分キミのこと好きだよ」
 王のちいさな耳に指で触れながら、そう言ってみる。すると景色を眺めたままの彼から「かもな」と短く返事があった。
「……でも、キミって好きな子がいるんでしょ。香水の子」
 初めて会ったとき、彼はその身に纏うパルファムの、甘酸っぱく香る苺について「好きな女の好きなモノ」だと言ったのだ。
「……昔の話だ」
「なに、フラれたの」
「いや。……会えなくなったんだ」
「……ごめん」
 死別だろうか。どうにも彼からは、そんな憂鬱さを抱え込んでいるような気配を感じる。……僕と同じように。
「別に。俺がまだひよっこだった頃の話だ。もう折り合いはつけてる」
「そっか。……乗り越えてるの、凄いな」
 山間から射す西日が僕らを照らす。それは春のように熱く、眩しい。王の頬を指の背で撫ぜた彼は、ちいさく「あついな」と呟くと、窓のブラインドを下ろした。

 貴陽へ戻ると、日はすっかりと落ちていた。晩秋のしんみりとした冷えが這い上がってくるのを感じながら、王の肩に僕の上着を掛けてやる。「むふん。ありがとう」と笑顔になった王の頭を撫でていると、ハリエットが「メシ、食うか」とスマホを操作しながら提案してきた。
「え、僕はまだご相伴にあずかれるワンか?」
 そういえば僕はトイプードルの妖精だった……と口元にでかい拳をふたつ寄せて首を傾げると、彼は「キモ」と呟いた。人には呟かれるとそれを本音だと受け取ってしまう心理があり、褒めるときは呟くことで人心を掌握する……というビジネステクニックは僕も多用しているが、いざディスりでそれを使われると本当に傷付くのだという知見を得た。
「お嬢ちゃん、好きな食べ物と苦手な食べ物を教えてくれるか?」
「はい! 好きなものはおにくと、桃缶と、いちご! 苦手なものは、葉っぱと砂のような歯触りの林檎です!」
 少し寝たからか、王は元気である。
「ああ、ザリザリの林檎は嫌だよなあ……」
 その『砂のような歯触りの林檎』を僕は食べたことがないというか、気にしたことがないので、渋い顔を見合わせて頷きあった彼らの気持ちはわからない。
「ええと、野菜は嫌いだけどナスと芋は好きみたいだよ」
「わかる。実と根っこはまだ葉っぱ感ないからな。野菜にカウントしてない」
「そうですそうです」
 食べ物の好みが似ているのか、またハリエットと王は顔を見合わせて頷きあっている。それから彼は「じゃあ烙鍋ルゥオグゥオにするか」と言って僕にスマホを手渡してきた。見るとその画面には、喩えるならヤキニクに似た様式の料理の画像が映し出されている。
「これってこの写真のイメージ通りの食べ方?」
「そうだ。この間アンダーソンたちと食ったんだが……俺が奉行をやらされてな。ロクに食えなくて恨んだ。だから、頼むな。スタンダードプードルの妖精さん」
 そう言ったハリエットに肩を叩かれた意味は、その後すぐにわかった。
「眼鏡に油が跳ねる……」
 何度もおしぼりで眼鏡を拭きながら、中央部分の凹んだ、ひっくり返したストローハットのような鉄鍋をお玉で掻き回す。その大鍋の凹みに溜まっているのは熱々の油だ。匂いからして鶏油もブレンドされているのだろうか。そこに食材をくぐらせ、火が通ったものから凹みの周りの鍔の部分に引き揚げていき、それを皆でつつく料理が烙鍋だった。確かにヤキニクに近いが、食材に火を通す役割を担うのは鉄鍋と油である。要は中華鍋そのものなので、短時間で火が通ってしまうのだ。
「はい、このお肉大丈夫ですよー」
 言いながら、王の前のスペースに肉を何切れか置いてやる。するとハリエットが「母ちゃん俺にも肉」と思春期の子供よろしくぶっきらぼうに言ってきたので「そんなんじゃ女の子にモテませんよ!」と返して同じだけの肉を置いてやった。そしてすぐに消える肉を見て、食うなあ……とその健啖ぶりに感心もする。彼は体格そのままに食べるタイプなのだ。
「ねえ、今調べたんだけど、パエリア鍋みたいなやつとか山型の鉄板とかで本当にヤキニクみたいにするタイプもあるのねこれ。そっちだったら僕も楽だったね?」
「楽じゃなくても楽しめ」
「楽しんでるのはアンタたちだねえ」
 せっせと食材に火を通し、油から引き揚げる行為を繰り返しては腹が減ったという怨念を募らせていると、唐突にハリエットが吹き出した。そして、
「俺も途中で気が付いたんだけどな、火を弱くして置いておけばヤキニクスタイルでイケる」
 と言ってビールを飲み干した。
「はよ言えや!」
 大声で叱責しながら、言われた通りにコンロの火を弱め、椅子にどっかりと腰を下ろす。そして彼が追加注文していたらしい生ビールのジョッキを引ったくり、一気に飲み干した。ぶは、と大きな吐息が漏れる。
「はは、こき使ってみたかったんだ。俺もやられたからな」
「別卓でのキレをこっちに持ち越すなよ」
「すまんすまん。ありがとな、母ちゃん。好きなもの食え。酒もな」
「カチャン、がんばりましたね。葉っぱあげます」
「野菜はちゃんと自分で食べようねえ、王」
 王がニラとモヤシを僕の皿にさりげなく移そうとしてきたのを突き返し、先程焼きあがったばかりの肉を取る。そして数あるつけダレのうち、オススメ品なのか一番容器の大きなものを手に取り、肉を浸して食べてみる。油でこってりとしているかと思いきや、存外に口当たりが爽やかなのは、辛味と香味が絶妙なつけダレのお陰だろうか。さっぱりと食べられるがその旨味は複雑で、材料の数は数種類という範囲に収まらないだろう。少なくとも二桁は使われているはずだ。
「うん、うまいね。……でもなんだろ、このハーブっぽい感じ」
「ああ、多分ドクダミだな」
「ドクダミ? そういえばアジア圏だと食べるみたいだよね。こんな感じなんだ……パクチーより癖が強いね」
 他のつけダレも試してみるが、どれも美味い。メニューと照らし合わせて見てみると、麻辣ベースのものや、海鮮ベースのものが人気らしく、ページの上部に記載されている。他にも発酵トマトベースや、豆鼓ベース、味変用に腐乳もあり、食材との組み合わせを考えるだけで楽しい。貴州はつけダレ(蘸水ジャンシュイ)文化が発達しているとは聞いていたが、これは殆ど無限の可能性があるのではないだろうか。
 それから、臭豆腐と洋芋粑ヤンユゥバーというマッシュポテトでできた餅のようなものが運ばれてきたので、両方をこんがりと揚げ焼きにする。僕は犬だからか臭豆腐はかなり苦手なのだが、貴州のものは臭くないらしく、安心して口に運ぶことができた。ネギが多めの辛味ダレで食べると、美味い。
「王、お芋だよお芋」
 カリッと揚がった洋芋粑を王の皿に乗せてやると、王はそれを冷まさずに口に運んで、元気よく口から湯気を漏らした。そしてニコニコ笑顔でビールを飲んでいるので、気に入ったのだろう。そんな王を見てハリエットが「それにはこれがウマいぞ」と大量の唐辛子パウダーが盛られた小皿を差し出した。その途端、王はガタンと大きな音を立てて椅子ごと後退ると「苦手なもの、スゴイカライノヤツもありました……」と弱々しい声を上げた。
「あれが特別辛かっただけだって。刀削麺も火鍋も平気だったじゃん」
「ですが見た目ではわからないのです……」
「なんだ? 唐辛子が苦手だったのか?」
 王の態度を疑問に思っているらしいハリエットに、きのう老素粉ラオスーフェンを食べて王がびっくりしてしまったエピソードを伝える。すると彼は声を上げて笑って、「アレはちょっとヤバいよな」と酒を煽った。そして空のジョッキを店員に渡すついでに、追加のビールを頼んでからこちらを振り返ると、
「ちょっと一服してくるわ」
 と椅子から立ち上がった。
「ああ、吸うんだったね。今日キツかったんじゃない」
「まあな。お前は?」
「……いや?」
「ふーん……お嬢ちゃんは?」
 まさか自分に話を振られるとは思ってなかったのか、王は「おいも、おいも」と振り付けつきで揺らしていた身体をぴたりと止めて首を傾げると、ハリエットが煙草のジェスチャーをしたのを見て「ああ」と目を伏せた。
「……あまり、好きではないです」
「そうか。じゃあ、やめる」
 唐突にそう言い切ったハリエットは、本当に禁煙するつもりなのか近くにあったゴミ箱に懐から取り出した煙草を放り込んだ。その行動の思い切りの良さがどこか怖くて、僕は半ば狼狽えながら「……マジ?」と漏らすことしかできない。
「これはお嬢ちゃんにあげるよ」
 そして彼は手の中に残った年季の入っているらしいジッポを、今度は王の手に握らせた。
「え。そんな……」
「俺が禁煙できるよう祈っててくれ。……火遊びはするなよ?」
 そう言って王の頭を撫でたハリエットは、椅子に座り直して「よし、飲もう」と新たに届いたビールのジョッキを掴んだ。僕の記憶に間違いがなければ七杯目である。
「口さびしさに飲んでたら太るんじゃない」
 貰ったジッポを、ぽうっとした眼差しで見つめている王を横目にそう言ってやると、彼は「太らん。動けばいい」とそれだけ答えてまた肉を食らい始めた。確かに彼の筋肉はよく食べよく動く者のそれだ。隣にいるだけで熱が伝わってくることがあるので基礎体温も高いのだろう。手首も太く、骨密度も見るからに高そうだ。生まれつき筋肉のつきやすい体質に違いない。
「……王、もういいの?」
 ふと、王がなにやらもじもじとしてあまり食事に手をつけていないらしいことに気がついて声をかける。普段の半分も食べていないその様子が、ジャオと水席を食べたときの姿とリンクして、「ははん、おしとやかぶっているのだな」と思い当たる。ポテトに喜んでルンルンと踊っていたくせ、一応はそういう意識が働いているらしい。ホテルに戻ってウォーウーラだと鳴き始めたらラーメンでも食べさせればいいか……と、ここは花を持たせてやるつもりで「デザート食べる?」とメニューを差し出した。そして一緒に覗き込みながら、メニューを訳して読み上げてやる。
「むん……いちごアイス……」
 そわそわと視線をさまよわせながら、王は一番可愛い印象のものを選んだらしい。本当はトッピング盛り盛りの豆花やゴマ団子の三つや四つを食べたかったに違いないが、それを茶化したりはせずに店員を呼んだ。そして「母ちゃん、俺もいちごアイス」と手を挙げたハリエットの分も含めて三つ同じものを頼むと、烙鍋を熱していた火を止めた。

 腹ごなしに夜の甲秀楼へつづく遊歩道を歩く。これは明の時代の楼閣で、南名河に浮かぶ巨石の上に建てられた歴史的建造物だ。省都のビル群に囲まれた名所であるにも関わらず、周囲は水を打ったように静かで、ライトアップされたその姿が黒々とした水面に映るさまとあわせて非常に幻想的だ。この夜に閉じ込められたいと思えてしまうほどに。
 手を繋いだふたりの背中に続いて受ける夜風は、心地好いのになんだか変な感じがする。でもきっとそれは、初めて僕以外の男と手を繋いで夜を歩く王も同じに違いなく、王の些細な所作から「どきどき」と音が聞こえてくるようで、もどかしい。頑張れ。いや、頑張るな。ありのままのキミが素敵なのに。だけど、装ったキミも愛らしい。しかしいま彼を見上げるその嘘みたいに可愛い顔は、どっちの顔なんだ。だがどちらにせよ……食べちゃいたい。そう思った瞬間、その横顔に欲情しかけていることに気がついて動転する。寝盗られの趣味はないはずだが、無自覚の素質でもあるのだろうか。……首を左右に振る。
「じゃあ、俺はここで」
 楼閣の前で、ハリエットはそう言った。煽っておいて結局手を出さないところを評価しながら、ほっと胸を撫で下ろす。別れの挨拶は既に済ませたのだろう、王はすこし切ない顔をして、顔の横でちいさく手を振るだけだ。可哀想だが、仕方ない。夜は有限だ。どこかのタイミングで、必ず終わる。
「来月の件、検討しといてよ」
「ああ。あとで書面でくれ」
 最後に仕事の話を少し交わして、ハリエットは背を向けた。……だが、すぐにくるりと踵を返して王の肩を掴むと、唐突にその唇を奪った。
 絶句。絶叫を、堪える。堪えきれなくて「は?」とは呟いた。でもそれだけしか、僕はアクションを起こせなくて。
「ちゃんと覚えてたか?」
 ゆっくりと王から離れたハリエットは、そう言って笑った。王は言葉が出ないらしいが、そのぶんその感情は目から読み取れる。きょう一番まるくなったその睛は、きょう空に浮かぶ満月よりもまるい。それも当然だ。王は僕以外とキスをしたことなんてないのだ。
 そして、ハリエットは今度こそ去ろうとした筈だ。しかし再び踵を返すその動きは、王の手によって止められた。思い切り後ろ髪を引くように、王はハリエットの頬を強く両手で引き寄せると、
「もっと。して……」
 とまっすぐに訴えた。
 今度はハリエットが動揺したことだろう。だがすぐにふたりの唇が重なる。さっきよりずっと深いところでふたりがリンクしていくさまを目の当たりにしながら、僕はただ立ち尽くすことしかできない。いや、僕にはまだできることがあるはずだ。しかしそれは、叫びながらふたりのあいだに割り入ることでも、ハリエットを殴り飛ばすことでもなくて。
「……ちょっと自分、走り込み行ってきます!」
 僕にできることはただ王のためにこの夜を引き延ばすこと。自分でも訳のわからない宣言をしてふたりに背を向けると、僕は来た道を走り出した。……くそ、くそくそくそくそ! 叫びたい気持ちを堪えようと思った瞬間、実のところ叫びたい気持ちなんてないことに気づく。悔しさはあれど、胸はどこか晴れやかで、それが不可解で。数百メートル走ってから楼閣を振り返ると、そのかがよいが目に痛かった。
 僕は少し悩んだあと、ラーメンでも食ってから戻るかと繁華街を目指した。鉄板で肉を焼いたあとは、やっぱりラーメンだ。今日のところは、吐きそうなほど食ってから寝よう。


End.


タンゴを踊るにはふたり必要。
けれど三人で踊ることだって不可能じゃないはずだ。


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