見出し画像

「ゴーシュ、ハンガリーに渡る ~ 思い出のアルバム」

 以前住んでいた長野県上田市の、隣のそのまた隣ぐらいの所に、上山田という温泉で知られる町がある。その上山田に住む銅版画家の若林文夫氏がハンガリーの工房で作品制作を行ったことがきっかけとなり、ハンガリーのヴェルーツェっていう小さな町との交流が続いている。その流れに乗って、上山田文化会館を拠点とするアマチュア劇団が1997年、ヴェルーツェに渡り、すべて日本語で演劇を披露するという大胆な企てを実行した。
 僕は劇団員ではないが、役者の動きに合わせてピアノの即興演奏を行うという面白い役目を仰せつかり、音楽監督という形で同行するという幸運に恵まれた。
 演目は、宮沢賢治原作の『セロ弾きのゴーシュ』。台本と役者を見ながらピアノを弾くなんていう体験は、もちろん初めてのこと。台本と役者の動きを同時に視野に入れながら、動きに合わせて即興で弾くなんて、稽古初日は、脳内がてんやわんや状態だった。まるでサバイバルゲームのような余裕の無さも、繰り返し稽古することによって次第に快感となり、その不思議なゲームを楽しむようになっていた。
 ハンガリーは、ご存じのように東欧圏でもアジアに近い位置にあり、DNA中にもアジア人との共通点があり、赤ちゃんには蒙古斑があるそうだ。言語もアジア系であり、姓名の表示が、名字が先に来ることなどから、人々は日本に親近感を抱き、アジアで最も発展した国として、尊敬の念を抱いているという。
 ハンガリー滞在中、自由行動の時間に街中での散策を楽しんだ後、集合時間を待っている最中、現地人らしき青い目の白人男性が興味深げに日本語で話しかけてきたときにそれを実感した。
「どちらからこられましたか? 私は日本が大好きです。日本は高い」
 日本は高い? 一瞬戸惑ったが、国力や文化がハイレベルだという意味かな?
 2週間のハンガリー滞在は、地元の人々との交流や異文化体験は、新鮮な驚きや感動の連続だった。

 出発の朝、参加者全員が上山田文化会館に集合し、JR信越線でまず東京へと向かった。成田からパリまでの約13時間のフライトの後、ブダペスト行きの便に乗り継いだのだが、これがまず最初の衝撃的な体験だった。乗り合いバスを少し大きくした程度の小さなプロペラ機で、大型のジェット旅客機に比べ揺れや機体の軋みがなんともダイナミックで、フライト中一瞬たりともリラックスできなかった。劇団員の女性など恐怖心も顕わに、目を見開き口をパクパクさせていた。
 やがてブダペストの大地が眼下に見えてきた。立て込んだビル群ではなく、小さめの建物やこんもりとした林がゆったりとした広がりを感じさせ、その日本とは違うおおらかな眺めと、恐怖のフライトから間もなく解放される安堵感との相乗効果で、縮み込んでいた体から力がスーッと抜けて行き、異国への期待感に胸が膨らんだ。
 ブダペスト空港で流れていた物悲しい旋律や、全体に漂う飾り気のない雰囲気が異国情緒に満ちており、それが一種独特の歓迎のセレモニーであるかのように感じられた。
 ヴェルーツェの人々が笑顔で出迎えてくれ、そこから小型のバスで目的地へ向かった。道路の右側をえらいスピードでぶっ飛ばすのに驚きつつ、外国映画の一場面に紛れ込んだような爽快な違和感を楽しんでいた。
 演劇の発表は2回。一度は、ヴェルーツェの公民館。もう一回は、センテンドレの屋外の小さな舞台。この屋外の舞台は、あまり日本では目にしたことのない自然に溶け込んだロケーションが新鮮だった。当日、観客には、マジャール語であらすじが書かれたイラスト付きのパンフレットを配布。パントマイム的要素が多かったことも、言葉の通じない国での上演を可能ならしめ、小学生ぐらいの子供も喜んで見ていた。
 そして、劇が終わって、最後のカーテンコールでの拍手と歓声。これが何とも温かく、嬉しさで胸がいっぱいになった。演技をしていた劇団員は尚の事で、若い女の子など、涙が溢れ頬を伝ったと言っていた。
 拍手の音が、これまで国内で聞いたものと明らかに違っていて、それが何とも温かく胸に響いた。はるばる日本からやってきたことに対する歓迎の意も加味されてのことかとも思ったが、同じ公民館で行なわれた、地元のアマチュアによるチェロとピアノの発表会でもその温かさは同じだった。
 演奏自体も、日本における発表会と何か違う。ピアノもチェロも技術的な欠点が無いわけではないのだが、それが気にならない。音そのものになんとも表現し難い生き生きとした魅力が確かに感じられた。受け取る側も、「批評する」という態度ではなく、自分たちの演奏家を温かく受け入れ楽しんでいる。日本の演奏会で感じられる過度に生真面目な緊張感が無く、終始楽しげで温かい空気が漂っていた。たった一夜の音楽会体験だったが、舞台の上と観客席が、向かい合っているというより、共通の空間を楽しみ、“自分たちの音楽家”として大事にしている様子が伝わり、心温まる時間を過ごせた。
 舞台の無い日は、ヴェルーツェの人たちが、連日あちこち案内してくれ、ドゥナをモーターボートですっ飛ばしたり、緑の丘でバーベキューを楽しんだり、白い石灰石の小山に湧き出る幻想的な風情の温泉に水着で浸かったり、イシュトヴァン大聖堂の巨大さに驚き、パイプオルガンの荘厳な響きに感激して涙を流したり(全員見事に泣いた)、毎日毎日が珍しく刺激的な体験の連続だった。
 夜は夜で、庭の大きなお宅に集まってのパーティー。町全体がみんな親戚みたいな雰囲気で、料理を持ち寄り、ハンガリーの民俗音楽を奏でるバイオリニストさんが呼ばれ、ワインを飲み、歌を歌い、深夜までの大盛り上がり。
 ある夜、白髪の画家の方(名前が思い出せないのが残念)に気に入られてしまい、その友だちの女性と、その息子さんに僕を加えた4人で、ずっと話し続けていた。
 女性の方は、僕と同い年だったので、それを告げると、首を大袈裟に左右に振りながら、
 「わお!信じられない。チルドレンズ・フェイス!」
 なんて、大喜びしていたが、正直こっちは、ちっとも嬉しくなんかなかった。東洋人は若く見えるというが、その中にあっても、ぼくは童顔だと言われる。だからと言って、42歳の僕に「チルドレンズ・フェイスは無かろう」とは思ったが、向こうさんは心から喜んでいるようだったので、まあ、そこは一緒になって喜んでいる振りをするしかなかった。
 宴も竹縄となり、皆で日本式の万歳三唱をしようということになったが、画家さんはそちらに向かおうとする僕の腕を掴んで引き止めた。
 「お前はアーティストなんだから、そんな通俗的なことには加わらなくて良い」
 そう言われたときは、幾分戸惑いながらも、ふっと心が楽になるのを感じていた。実は、慣れない集団行動に、かなりストレスが溜まっていたのだ。たぶん、画家さんにもそれが伝わっていて、気遣ってくれたのかもしれない。
 その夜は、他の日本人たちがホテルに帰ってからも、
 「あとで私が車で送るから、お前はまだゆっくりしていけばよい」
 と言われ、実際にそうしたのだが、いざ帰ってみると、ホテルに施錠してあり、これには画家の方も大慌て。そこからどこに向けて車を走らせたのかは酔っていて思い出せないが、運転しながら、しきりに、
 「気の毒なことをした」
 と繰り返していたので、
 「これは、あなたの問題ではない。私の問題なのだ。なぜならあそこに残ることを決めたのは自分だからだ」
 とつたない英語で伝えると、「お前が気に入った」と大笑いしていた。
 結局は、どこから借りてきたのかは思い出せないが、鍵も見つかり、静まり返ったホテルの中を自分の部屋に向かい、一件落着。しかし、正直言って、翌日はかなり辛かった。
 準備されたプランの中には、2人ずつに分かれて、それぞれ別の家庭にホームステイする2日間というのもあった。僕は舞台美術担当の造形作家さんとのコンビだったのだが、彼の下の名前が「仁(じん)」だったため、ステイ先の奥さんから「ジン → ジミ→ ジミ・ヘンドリックス」という連想ゲーム式にたどり着いたニック・ネームを頂戴し、ぼくもそれを面白がって、旅の間中“Jimi Hendrix!”と英語式の発音で呼んでいた。
 で、ボクのニックネームは何になったかと言うと、これがまた気恥ずかしいことに「マエストロ」。苗字の「まえ○○」をもじったもので、「巨匠」を意味するイタリア語であり音楽用語である。やめて欲しかったのだが、慣れというものは恐ろしいもので、「マエストロ」という過ぎた呼び名も単なる音の組み合わせとして気楽に受け止めるようになっていた。
 そのお宅で、洗濯機を貸してもらい、それぞれ自分の下着類を洗濯したのだが、奥さんが、色物と白いものは別けるようにと助言してくれたときは、そのご婦人に「日本のおばちゃん」みたいな親しみを感じた。
 また、食事中、日本の経済力の高さが、よく話題にあがった。あなた方は飛行機に乗ってやってきたけれど、とても自分たちには無理だというようなことを言われたが、実は、海外渡航費と滞在費は、国際交流基金から全額支給されており(そう、只でハンガリーまで行けたのだ)、だからこそ、貧乏な自分でもやってこれたのだし、物価が違うから額面的には稼ぎが多いように見えても、あっという間に消費に消えるというのが現実であり、実際、広い庭に囲まれた生活様式を比較すると、ヴェルーツェの人たちのほうが豊かにさえ思えた。が、それを説明するだけの英語力の無さがもどかしかった。
 その他、様々な情景がフラッシュバックされるのだが、20年以上も前のことになってしまい、細かいことまでは思い出せなくなっているが、そんな中でも、特に印象に残っている思い出と言えば、センテンドレの町を歩いたこと。スケジュールの中に、単独行動の時間枠がとってあったので、ただボーッと歩き回って、町の空気を楽しんだ。赤い屋根、黄色っぽい土壁、レンガ道など、昔からの古い姿を保ち、町全体が一つの芸術作品のように統一が取れていて、平穏な静けさに包まれている。芝生の広がる広い公園の木陰にのんびりと身を横たえ休日を楽しむ若い夫婦の姿。そよ風に揺れる葉のやさしい音。遠方から聞こえるスプリンクラーの回る「カシャ、カシャ」という音とともに、きらきらと輝く粒を撒き散らしているのが見える。
 湿気の多い日本の夏とは一味違ったさわやかな夏の、幸福な思い出の1ページ。

 あれから25年。ゴーシュやたぬき、かっこう、野ネズミなどを演じた劇団員の方、関係者の方々、そしてヴェルーツェの人々…、今ごろどうしてるかな?

この記事が参加している募集

夏の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?