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わたしのAからZまでの人たち。

翻訳家・岸本佐知子さんのエッセイ「なんらかの事情」を読み終えた。正直、後半は彼女の妄想っぽい話が多くて若干飽きつつあったのだが、『ありがとう、元気で』という話にハッとさせられるものがあった。

それは、
『生粋の日本人なのに必ずインド人に間違えられるので怒ってボリビア人と結婚してしまったF』
『妹と並ぶと母娘に間違われ父と並ぶと兄弟に間違われたP』
というように、彼女がこれまでに出会った人物や、知人などから聞いた変わった人物を、AからZまで列挙していく話だ。そして最後に、実はAとBが同一人物だった、CとDには実際に会ったことがない、というようにちょっとした種明かしがある。その種明かしのラスト二行がわたしの心を鷲掴みにした。


もう会わないG。
もう会えないX。


ここでわたしは、やはり岸本さんはすごい作家さんだなあと舌を巻いた。この短い文章だけで、岸本さんと”Gさん・Xさん”との関係性の奥行きが端的に表されているからだ。と同時に、ものすごく切ない気持ちにもなる。

ちなみに、”Gさん・Xさん”はこんな人物。
『空腹を極度に怖れバナナを一房つねに紙袋に入れて持ち歩いていたG』
『同じ車に三年で二度ひかれたX』
Gさんは喧嘩をしたり、どちらかが遠くへ引っ越してしまったりと、それこそ”なんらかの事情”があって会わなくなってしまったのだろうか。
Xさんは二度目に車にひかれたときに亡くなってしまったのか、それとも全く別の理由でこの世にいないのだろうか。

来週10月27日はわたしの大切で大好きな友人の二周忌だ。岸本さん風に言うと、友人(Tという名前だ)は『もう会えないT』である。やはり、これほど端的でさびしいワードはこの世に二つとないかもしれない。だけど、彼が亡くなり二年を迎えるにあたって、わたし去年とはまた違った気持ちでこの日のことを考えている。”彼はここにはいないが、いなくなったわけではない”というような、一種前向きな気持ちだ。それは、母がこの詩を教えてくれたからだ。

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「いっしょに生きる」
-アイルランド、ウォーターフォードのカルメル会修道院作-

死は全く何でもない――私はただ
次の部屋にそっと入っただけです。
私達がお互いに対して持った関係は
 今でもまだ続いています。
私の親しい名前を呼んで下さい。
気楽に話しかけてくれたように今も
 話しかけて下さい。
ちょっとした冗談をいっしょに楽しみ
 笑ったように笑って下さい。
遊び、微笑み、私のことを思い、
 私のために祈って下さい。
私の名前がいつも皆の口から出たように
 今でも呼んで下さい。
私の名前を無造作に言って下さい。
生命の意義は過去も今もあります。
過去に存在したのと同じく
決して断たれない継続があります。
私が見当たらないからと言って
私は忘れられるべきでしょうか?
私はあなたを待っています、長い事、
あなたのすぐ近くで。すべて大丈夫です。
何も過ぎさらず、何も失われません。
短い時間のあと、すべてが
以前と同じ――もっと良く、
 無限により幸せで、
永遠に――私達は一つになるでしょう、
キリストと共に。

―――――――――

わたしは今でも彼を思い出して泣くし、彼の名前を口にしたいし、思い出を反芻したい気持ちがなくならない。そうして良いのだし、わたしたちの関係性は終わることなく続いていくと、教えてくれた作品だった。この詩は、誰かを亡くしたり、何かつらいと感じている方に、ぜひ読んでほしい作品です。

わたしはまだまだ友人とのことを思い出し、書いていきたい!だから来週、彼と最後に会ったときのこと・カレー居酒屋に行った話でも書いてみようと思います。

では、読んでいただきありがとうございました!

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