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一個の命として生きるってどういうことやろ

一個の命としての幸せって何やろ?
そもそもなんで数えるんやろ?
みたいなことを、考えながら生きてます。

答えはわからないし、スッキリするのはあの世へ行ってから?
かもしれないけど
試験問題に用意されたんじゃない、自分で立てた問いを大切にすると、なんか元気が出てきます。

自分で立てた問いって、当事者のことやから、それを頑張るとか、あるいは手を抜くとかなくて、私の一部として息づいてる感じ。
人生は、自分が当事者のことを普通にやってくしかないなーと思う。

私は一個の命として生まれたけど、気づいたら身体に「いい子」「優等生」「自慢の娘」など、イメージのシールが貼ってありました。気づいたら近くにいる2個の命に「お父さん」「お母さん」というイメージのシールを貼って甘えていました。これらは、もし私が蝉とかに生まれていたら、起こりえないことです。土の中で独りで目覚め、自分は本当は何者なのか?とか考える暇なく、一個の命のまま、鳴きまくって天寿を全うする。

やっぱ人間て特別なんかな?でも哺乳類は授乳の必要があるから、犬や猫も近くの命に「愛しい我が子」ていうシールを貼って育てるのかな?シールを貼るとかは私の勝手な見方で、人間も犬も猫も、本能のまま動いてるだけか?産みっぱなしでは死んじゃうから、種の存続につながる行動を常にする、という本能。

犬や猫で、私のように「子供を作らないことにしました」ていうスタンスの個体はいるのだろうか?てか、私って種の存続という使命を放棄してるけどええんか?→全然ええし、問題ない。なぜならば私はヒトという種である前に、まゆこという一個の命なので、一個の命としての自由がある!

ふと思い出したけど、若い頃に彼氏と旅行に行って、泊まったホテルのシャンプーを使おうとしたら、「女の子なんだから自分のシャンプー持ってこなきゃだめじゃん」と言われたことがある。私はへこんで、今後は気をつけようと反省した。あの頃の私に言いたい、あなたは女の子である前に一個の命なんだから、一個の命として備え付けのシャンプーで満足するんやったら、それを貫いていい!

気づいたら貼られてた「女の子」のシールは、私においしい体験をたくさんくれたけど、窮屈なことのほうが多かった気がします。窮屈だ、というのは今の私の感想であり、当時の私は愛されるために相手に合わせることは常識と思ってました。でも我慢した状態でかわいがられることに限界がきて、その彼とは別れました。

一個の命として嬉しく生きようとする時、「女の子」「我が娘」「よき妻」「よき母」などのイメージを求める人とは、合わなくなってしまう。イメージを求める人も、一個の命として好きにやってるからそれでよくて、あとは何をどこまで我慢するか?自分で決めて、自分で距離を調整するということが、私の幸せの一つだなと思いました。


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