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松野志部彦
2024年1月24日 15:53
ほかのすべての生物と同じように、ワタネズミもまた、熾烈な生存競争をくぐり抜けてこの世に存在する。それはつまり、生命と呼ばれるものがみな暴力に呪われている証だ。いかにも争いと無縁そうなこの生物でさえそうなのだから、有史以来の人間が殺戮をやめられないのもしかたない話かもしれない。 とは言いつつ、僕はまだワタネズミたちの争いを目にしたことがない。周囲の状況を観察し、恐らくここで殺し合いが繰り広げられ
2021年6月8日 06:46
タカくんが死んだ。享年十五歳。死因は後頭部を強く打ったことによる脳挫傷。階段を踏み外して起こった事故。あっけなく、誰にも責任を求められない死だった。 実弟が死んだことについて、わたしがいま、どういう態度を示せばいいのかわからない。実感がまるで湧かないのだ。哀しめばいいのか、途方に暮れればいいのか、それとも最後まで間の抜けた彼の、残酷なほど短い生涯を笑ってやるべきなのか。十八歳のわたしはこれまで
2021年5月12日 08:55
好きな人の好きなものを、心から好きになれない自分が腹立たしい。 日の明けきらない薄暗い砂浜を、叔父がサーフボードを抱えて歩いてくる。黒のラッシュガードが、年齢のわりに引き締まった上半身を彫像のように強調していた。彼の背後に広がる海は、煌めきを失い、空との境目を曖昧にしている。夏が過ぎたあとの海は、いつもこんな感じだ。たとえ波があっても、どことなくのっぺりとして、弾みを失くしている。 濡れた
2021年5月11日 08:39
保科リアンが宇宙人であることを知っていたのは、全校生徒約五百名を抱えるこの学校で、僕だけだった。 気づいたのはまったくの偶然だ。 その日の美術の授業中、下書きを終えたばかりの版画版へ、恐ろしく不器用な手つきで彫刻刀を突き立てていたリアンが、誤って左手に刃先を滑らせた。ちょうど教師が席を外し、美術室が猿山のように騒がしくなっていたときのことだ。昼休みのあとの五限目であり、そんな時間帯に美術の授
2021年5月7日 09:11
明里が、隣町の山にはツチノコがいる、とあからさまな嘘を言い出したのは、ジュニア・テニス・スクールのレッスンを終え、いつもの三人で買い食いしながら帰っているときだった。「熱でもあんのか」「光也には言ってない」彼女は冷ややかに俺を睨む。「ツチノコって?」 冬樹がきょとんと訊ねると、待ってましたとばかりに明里が得意気に説明した。「ツチノコっていうのは未確認生物の一種。ヘビが太くなったような形
2021年5月5日 11:42
頭上に繁る枝葉が、満月の光で蒼々と煌いている。ちらちらと覗く夜空はまだ夜明けが遠いことを示して、澄みきった紫色を湛えていた。 踏みならされた山道から逸れ、月の燐光を頼りに草葉をかき分けるその男は、やがて木立の先に現れた断崖からの眺望に胸打たれた。眼下には淡く光る森林が雲海のように広がり、男から見て左手、南の方角には、遠い京の町の燈火が星の瞬きのようにちらついている。北の鬱蒼とした山中には、篝火
2021年5月4日 10:24
そうだ、ミカ先生のことを話そう。 彼女について語ることは、すなわち僕がこの道を歩むきっかけになった出来事を語ることでもあるからだ。 ◇ ミカ先生は、僕が小学校四年生から五年生までの間、アルバイトの家庭教師としてうちに通っていた女性だ。 彼女は当時まだ二十歳の大学生で、つまり現在の僕と同い歳だったわけだが、なんとなく年齢にそぐわない感じの人だった。子供っぽく見えるときもあれば、大人っぽ
2021年5月3日 18:45
療養所から続く野道を歩いていると、行く手に広大な麦畑が現れた。 金色の穂が丘陵を渡る風で一様になびき、さわさわと囁くような音を立てている。雲が散った空とのコントラストで地上はくっきりと輝き、まるで見事な油絵の中にいるような心地がした。「見て」わたしは麦畑を指さした。「風の通り道が見える」 斜め前を歩く彼も目を細め、風に撫でられる麦畑を眺めた。「いつ見ても、ここはすごい。まるで海みたいだ