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【短編】センチメンタル本能寺

 頭上に繁る枝葉が、満月の光で蒼々と煌いている。ちらちらと覗く夜空はまだ夜明けが遠いことを示して、澄みきった紫色を湛えていた。
 踏みならされた山道から逸れ、月の燐光を頼りに草葉をかき分けるその男は、やがて木立の先に現れた断崖からの眺望に胸打たれた。眼下には淡く光る森林が雲海のように広がり、男から見て左手、南の方角には、遠い京の町の燈火が星の瞬きのようにちらついている。北の鬱蒼とした山中には、篝火を焚いた本能寺の影がおぼろげに佇んでいた。

 ノブナガは墨染の頬かむりを解き、山間を吹き抜ける夜風に髻をさらした。百姓の野良着を身に纏う彼は、草の茂みへ尻を下ろし、ぼんやりと溜息をつく。
 あー、疲れた。
 京の町がまだあんな遠くにあるわ。
 途方に暮れた彼の目が、森を縫うように進軍する甲冑姿のもののふたちを捉える。かなりの大軍だ。べつの山道にも大隊が蠢いているのが見える。ここから見下ろすと、まるで蝮の群れのようだった。
「きおったか」とノブナガは独りごちた。
 ――ってことは、ミツヒデが謀反を企てている噂はまことじゃったか。
 ノブナガは無意識に息を潜め、山道をゆくアケチ軍をしばらく睨んでいたが、再び溜息を吐くと、万感の思いで草を枕に寝転んだ。目にうっすらと涙の膜が張り、視界の中の満月が散り散りになって映っていた。

 わし、これからどうしようかな。
 畑でもしよっかな。
 あ、無理だよね……、もう土地持ってないし。
 どうしようかな。

 精悍な皺を刻んだ目尻から、涙が一筋、伝い落ちる。その生涯で、ついに誰にも見せることのなかった涙であった。
 思えば、わしの人生って、羅刹じゃったな。
 魔王と名乗ったこともあったっけ。
 しかし、本心から羅刹や魔王として生きたかったわけではけしてない。群雄割拠、いつ寝首をかかれるかもわからぬこの戦乱の世にあって、絶対的な恐怖こそが天下統一への近道だと信じていたのである。その前人未到の覇道を成すためには、ある程度の残虐も不可欠な振る舞いであると、何度も自分に言い聞かせた。それでけっこう上手くやってきたつもりだった。
 だが、ここにきて、信頼していた部下の一人に謀反を起こされるというのは、さすがの魔王もへこむ。ミツヒデは頭が良いから、ノブナガの本音も心得てくれているものだと思っていたのに……。
 洟を啜って、「あああ」とノブナガは意味もなく呻く。
 こみ上げてくるものを振り切るように体を起こし、腰に提げていた瓢箪の酒を一口飲んだ。めちゃくちゃ沁みた。これほど上等な酒を呑める機会は、もう二度とないかもしれない。そう思ってもうひと口呷ると、酔いが思いのほか回った。酔うと無性に寂しくなってしまうのが、ノブナガの知られざる酒癖のひとつであった。話し相手が欲しい、と彼は切に思った。

 ――そういえば、わしが本当に腹割って話せたのって、ルイスくんだけだった気がする。
 ルイスくん、元気かな。
 また飲む約束したけど、わしのこと、憶えてくれてるかな。
 まだこっちにいるのかな。
 布教、頑張ってるのかな。

 数年前、ノブナガは、西欧の国からやってきたルイスという宣教師と面会したことがあった。奇妙な話だが、日本語が片言で、境遇も天地ほど違うこの外国人の男と、彼は意気投合したのである。ルイスが語る異国の風俗や宗教観、発達した技術と文明を窺わせる土産物など、眼から鱗の連続だった。かつて寺を焼き討ちしたこともある自分と違い、ルイスは非常に朗らかで、寛大かつ敬虔な人柄だった。
「わしさぁ、殿様やってるのがときどきしんどいんだよね」
 そう、うっかりこぼしてしまったことがある。彼と二人きり、行燈の灯を頼りに、座敷で静々と酒を酌み交わしていた夜である。
 ルイスはきょとんとした。
「しんどい、はどーゆういみですか?」
「つらいとか、難しいとか、嫌になるとか……、ええっと……、ネガティブって意味かな」
「おー、ネガティブ」得心したように彼はうなずいた。「よくないですねー」
「なんかこうさぁ、あ、わし無理してるなぁって、ときどき感じるんだよね。倅や家臣からも怖がられていてさ……、妹の旦那の土地を攻めたこともあって、自分で自分が嫌になる日もあった。ぶっちゃけると、わし、本当は殺し合いとかしたくないんじゃよ。能とか踊ったり、歌をうたったり、絵とか描いて過ごしたい。天下は欲しいけど、それも戦乱を鎮めたいっていうのが本音じゃ。家族も部下も農民も、みんな怯えることなく歌ったり、踊ったり、絵描いたりして過ごせたらいいのになぁって思って、兵を起こしたんじゃよ」
「トノは、りっぱです」ルイスは微笑む。「それに、ほんとは、やさしい」
「お、そうかい?」ノブナガは照れ笑いをする。「初めて言われたなぁ」
「カミサマも、トノとおなじこと、かんがえます」
「はは……、でも、わし、魔王じゃからなぁ」
「ワタシのクニ、くればいい。エもダンスもできる。ソングもできる」
「えー? そりゃ無理だよ。わし、殿だもん」ノブナガは苦笑した。「ここまできたら投げだせんって、さすがに」
 ルイスは杯の酒を飲み干すと、座敷の隅に置かれていた土産物のひとつを持ってきた。それはまだ包みを解かれていない品物で、なにやら薄く角ばった形の代物である。ルイスはそれを慎重に畳へ置き、ノブナガのほうへと差し出した。
「これ、あけてみて」
「なんじゃ?」ノブナガは包みを開き、そして驚嘆した。「おぉ、これは……、なんとも……」
「きれいでしょ」ルイスがにっこりとする。
 それは異国の、とある画家によって描かれた宗教画だった。かつて人民を率いた聖人の、磔にされた光景である。本来悲愴であるはずのその絵面は、しかし、壮麗な色彩と緻密な筆遣いによって、神々しく描かれていた。
 ノブナガは息を呑み、額縁の中の絵画に深く見入っていた。
「すっげぇな」
「アートは、クニも、コトバも、ランクもちがうヒトどうしを、むすびます」ルイスは柔らかな眼差しでノブナガを見つめた。「トノは、アートにむいてる。ワタシ、そうおもいます」
 友人の言葉を思い返し、ノブナガは寂しく笑った。あの気さくな外国人ともう一度会いたかった。もっと早くにあの男と出会えていれば、自分の人生もだいぶ違っていたものになっていたかもしれない。

 そのとき、山の静寂を打ち破り、遠方から鬨の声が上がった。
 アケチ軍が本能寺へ攻撃を開始したのである。
 追想にまどろみかけていたノブナガは飛び起き、攻め入られる本能寺を見つめて胸を痛めた。どう転んでも、家臣たちに勝ち目はなかった。今頃、わしの影武者も覚悟を決めているところに違いない。
 胡麻のような人影が、あちこちで転がるように入り乱れている。アケチ軍の威勢や兵たちの末期の声が、ここからではすっかり遠く、茫漠とした音の膜のようにしか聞き取れなかった。血道をあげて突き進んできた乱世が、いまや遠くの彼方にある。覇道も、羅刹も、魔王も、すべててが儚く散っていくかのよう。わしの頑張りも、こんなものに過ぎんかったか、とノブナガは哀しく自嘲した。
 ――しかし、ミツヒデの裏切りは見抜けんかったなぁ。
 ノブナガは、自分を慕っていたはずの好青年の顔を思い浮かべた。
 やたら意識高いやつだなぁ、とは思っていたが、まさか主君を討つのも厭わない男だとは夢にも思わなかった。きっと、わしの羅刹と魔王が過ぎたのだろう。人世の為に己の命を捧げてきたはずだったが、人心を顧みなかったのは、ちとまずかった。ミツヒデも狡猾なところがあるものの、もともとは正義感の強い若者である。魔王に反旗を翻すのもしかたない。武士として風上に置けないが、人間としてはまっとうな感性の男だったといえよう。
 誰が天下とるのかな。
 やっぱ、ミツヒデかな。
 でも、ほかの家臣も黙ってないだろうしなぁ。
 ハシバのヒデちゃんとか、無茶しそうだもん。
 また戦じゃろうか。
 マジ、血の臭気絶えぬ修羅の世なり。
 まぁ、わしが言えたことじゃないんだけどね……。
 瓢箪の酒をまた一口飲んだ。喉を通り、腹の底でぽっと温かくなる。今宵の酒はいつもと味わいが違うように思われた。
 わし、これからどうしよっかな。
 影武者置いて逃げてきたけど、行くあてないしな。
 もう疲れたし、いっそ、死んじゃおっかな。
 懐には短刀を忍ばせてある。柄に記されたオダの家紋は、もはやこの世において何の効力も発揮しないに違いなかった。ただ腹をかっさばくためだけの道具。鞘から抜くと、白刃が夜闇の中でも鋭く光った。
 やだなぁ、痛いだろうなぁ。
 言えた義理じゃないけど、死にとうないな。
 でも、影武者なのがあいつらにバレたら追っかけてくるじゃろうし、捕まったらどうせ打ち首じゃし、遅かれ早かれの問題かなぁ。
 しかし、なぁ……。
 こんな終わり方は、やだなぁ……。

 そうして短刀を見つめて煩悶としていると、突然、本能寺から火の手が上がった。火矢が放たれた様子はない。恐らく味方が、自決の覚悟で放ったものだろう。みるみるうちに火炎は渦と化し、澄明とした夜空へ向かって震えるように柱を立てた。
 あ……、綺麗だな。
 ノブナガは束の間、我を忘れてその炎を見つめた。
 本能寺を、魔王を焼く炎は、夜の帳へ陽光のごとく金色の光を放ち、この世のものとは思えぬ荘厳な眺めを生み出していた。アケチ軍はすでに勝鬨を上げていて、森閑とした大気をびりびりと震わせている。
 得も言われぬ見事な調和を、そのときノブナガは感じた。
 うわぁ、すごいなぁ。
 すごい光景だなぁ……。
 ふいに、彼はくすくすと笑いだす。
 ――それにしても、かつて寺を焼き討ちしたわしが、寺で焼かれるというのも因果な話じゃの。
 そう考えると、天へと昇ってゆくあの煙火に、魔王のドス黒い霊魂が混じっているように思われた。これにて魔王ノブナガは正義の使者ミツヒデによって討たれたのであった、めでたしめでたし……、ってか? 悪くない。巻き添えを食った家臣や兵たちには申し訳ないが、ノブナガという稀代の悪漢には、これ以上に望めぬほどふさわしい幕引きに思えるのだ。
 炎に焼かれて、魔王はこの世を去った。
 あの猛烈な勢い、影武者の遺体はきっと骨も残らんじゃろうて。

 ――あれ?

 それなら、もしかして、追手が来ることもない?
 だって、ノブナガ、死んだって思われてるわけなんだし。
 もうこの世にいないって、思われてるわけなんだし。
 あれ……?
 彼はしばらく呆然として、それからまた静かに微笑んだ。
 やっぱり、生きてみようかな。
 逃げ切れるかどうかわかんないけど、やってみる価値はあるかもしんない。
 そういえば、「人生五十年」って歌が好きだったけど、わし、いま四十九。
 あ、なるほど……、こりゃちょうどいいね。
 彼は焼け落ちる本能寺を肴に、ぐいっと最後の酒を飲み干した。それから短刀を振りかざし、自分の髻を未練なく切り捨てた。ほどけて垂れた後ろ髪が、首筋を撫でてくすぐったい。
 短刀を鞘に納めると、彼はそれを崖下に向かって放り投げた。
 よーし、決めた。
 もうノブナガはこの世におらん。
 刀も持たん、馬にも乗らん。
 兵も持たん、名前も持たん。
 今日からわしは、すっからかんの、生まれたての男じゃ。
 立ち上がると、東の空が薄く白み始めているのに気づいた。未だ燃え盛る本能寺の炎は、昇ってくる陽に向かって、誘うように身を捩らせている。いまの彼にとって、それはどんな祝詞よりも饒舌な門出の祝言に感じられた。一刻もしないうちに炎は鎮まり、かわりにお天道様がこの地上を照らすだろう。それが、彼にはとても象徴的で運命的な事柄に思われたのだった。

 ――この絶景、誰かに見せてあげたいな。

 そう考えて、彼はまた閃いた。
 あ、そうだ。
 わし、絵描きになろう。
 そんで、ルイスくんの船に頼んで乗せてもらって、外国に行って、絵の勉強をしよう。
 そうだ、それがいいな。
 よし、そうと決まれば、早いとこ逃げちゃお。
 もう決めたもんね。
 男はふふ、と息を漏らし、また頬かむりを被る。そして、悠々とした足取りでその崖を後にしたのだった。

 男の居た崖には、切り落とされた髻が、清々とした様子で残されている。やがてその場所に清らかな曙光が訪れ、草の根にあるその黒髪の束を照らして洗った。
 男の行方は杳として知れない。
 しかし、それは乱世の魔王と恐れられた男の、新たな旅の始まりだった。



<了>



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※2017年頃執筆。(改稿)
 見出し画像:みんなのフォトギャラリー(ノラ猫ポチ様)

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