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【短編】許しのライセンス

 タカくんが死んだ。享年十五歳。死因は後頭部を強く打ったことによる脳挫傷。階段を踏み外して起こった事故。あっけなく、誰にも責任を求められない死だった。
 実弟が死んだことについて、わたしがいま、どういう態度を示せばいいのかわからない。実感がまるで湧かないのだ。哀しめばいいのか、途方に暮れればいいのか、それとも最後まで間の抜けた彼の、残酷なほど短い生涯を笑ってやるべきなのか。十八歳のわたしはこれまで人の死に、それも肉親という身近な存在の死に、真正面から向き合わされる状況に陥ったことがなかった。
 悲嘆に暮れる時間がこれから山ほど訪れる、という予感はあった。まだまだわたしは主観で物事を見つめていない。どこまでも客観的、まるで他人事のように思っている。人の死とはそういうものだと聞く。混乱を抜けた先で、ようやく頬を打つ雨に気づくのだ。喪失感ほど遅れてやってくるものはない。熱したフライパンのように、この身をじりじり焦がしていくに違いない。
 そんな予感が、タカくんを喪った夏の昼下がりに、たしかに潜んでいた。

 ◇

 わたしたちは四人姉弟だった。
 タカくんが末っ子の長男で、彼の二つ上の姉、つまり三女がわたし。さらに五つ上で大学生の次女と、東京でデザイナーの仕事をしている七つ上の長女がいる。子供の頃からいがみ合いや喧嘩が絶えなかったが、それはわたしたち姉妹の間に限った話で、タカくんはいつも険悪な女たちの傍らでふわふわと平和に漂っているばかりだった。そのために彼は、ひときわ厚く父母の愛情を注がれていたように思う。いま思えば羨ましい立ち位置だ。
 長女が上京し、次女も大学のために独り暮らしを始めると、当然姉弟はわたしとタカくんだけが残される。歳の近いタカくんにそれほど嫌悪を感じていなかったので、これはわたしにとっては好都合だった。もっとも、弟はわたしだけでなく、次女と長女にも懐いていたので寂しそうではあったが。
 タカくんはだいぶ間の抜けた性格ではあったけれど、その分、愛嬌のある子だった。他者から与えられる愛情と対等なものを、鏡のように返すことのできる素直さを備えていた。だからこそ、両親や祖父母は彼を寵愛したのだろうし、わたしも姉弟のうちで一番親しみを抱いていたのだろう。学校でも、教師からは可愛がられていたようである。友達もたくさんいたらしい。気の抜けた性格が祟って、仲間内から笑いの種にされたり、不良の暇潰しの餌食にされたりすることもあったようだが、本人はいたって平然としていた。
 タカくんについて、印象深い思い出がある。
 わたしが中学二年、彼が小学六年生の時のことだ。
 ある日、部活を終えて帰路についていると、行く手の空き地からなにやら子供の騒ぎ声が聞こえた。まだ声変りしていない男の子たちの、甲高い声だった。そのうちのひとつに聞き覚えがあって覗くと、やはりランドセルを背負ったタカくんがそこにいた。
 タカくんはやんちゃそうな男の子たちに囲まれ、髪を引っ張られたり、服を掴まれて引き倒されたり、雑巾のように足蹴にされていた。相手が多勢な上、小柄なタカくんに勝ち目があるはずもなく、彼は野蛮な少年たちのなすがままにされていた。パンチの一つも打ち返そうとはしなかった。
「こらっ!」とわたしが飛び込んでいくと、悪ガキたちは水槽を叩かれた金魚のように逃げていった。あとには土埃にまみれ、情けなく尻餅をついている弟だけが残された。
 タカくんはわたしに気づくと、けろりとした顔で「マミ姉ぇ」と笑った。まるで何事も無かったかのような笑みだった。
 わたしは彼の頭を小突いた。
「あんた、なんでやり返さないの」
「なにが?」彼は打たれた額を押さえ、小首を傾げる。
「とぼけんな。さっきの悪ガキどものことだよ」
「マミ姉ぇが来てくれて助かった。いつまで続くのかなぁって思ってた所」
 拳骨を息で温めると、タカくんは腕を上げて身構えた。
「ごめんって」
「あんた、悔しくないの? いつも馬鹿にされてさ」
「だって、俺、本当に馬鹿だし。さっきのも、俺が学校であいつらに迷惑かけたせいだし」
「なにがあったのかは知らないけど、だからってこんな目に遭う道理はないでしょ」
「大丈夫。俺、許しのライセンス持ってるから」
 鼻を擦って誇らしげに言う彼に、思わず呆けてしまった。
「なんじゃそりゃ」
「俺、偉いから、たいていのことは許せる」
 またなにか、映画か漫画の影響を受けたのだろう。足許から脱力しそうになった。
「馬鹿か。情けなっ。男らしくない。もやしチビ野郎」
「マミ姉ぇの、俺への暴言を許そう」
「なんじゃそりゃ」
 わたしは思わず噴き出し、また彼の頭を小突いた。タカくんも、音もなく迫る夕闇の中でふんわりと笑った。なんの苦労も知らないおめでたい笑顔。夕焼けの空に滑るカラスの影が、どこまでも日常だった。
 その四年後に彼が死ぬなんて、誰にもわかるはずがなかった。

 ◇

 通夜には大勢が訪れた。親類はもちろん、学校の同級生や教師、中学の後輩、バイト先の人々、近所に住むおばさんたちの姿もある。わたしの親友のカコも参列してくれた。
 わたしは家族と共に座敷の前列に座り、僧侶の剃髪された頭と、タカくんの遺影を夢心地に眺めていた。読経の間、啜り泣く声が周囲から絶えなかった。母が一番酷い。息子の死を知らされた日から、母は木偶のようになって毎日を送っていた。少しやつれたように思う。そこまで酷くはないが、父と二人の姉も、おおむね同じような状態だった。
 タカくんは見てくれこそ平凡だったけれど、どこか変わったところのある少年だった。それはもう、もっとも身近なわたしたちですらそう感じていたのだから間違いない。どこがどう変かと問われれば答えに困るのだが、きっと、彼と顔を合わせて二、三言葉を交わせば誰にでもわかるだろう。いまではもうそれも叶わないのだけれど。
 基本的にはのらりくらりとした性格だったものの、これと決めたことには意固地になる節が弟にはあった。たとえ自分に不向きであっても、決心すればその心根をたやすく折るようなことはしなかった。保育園の演劇の配役、小中学校時代のサッカー、飲食店のバイトで興味を抱いた料理。すべて、愚直なまでに身を捧げていたものだ。
 そして、恋愛に関しても、彼は真っ直ぐだった。
 追想をやめ、わたしは周囲の参列客を見渡す。最後尾に近い列に、親友の慎ましい姿があった。
 制服に身を包んだカコはうつむき、肩を震わせていた。「笑いをこらえているのかな」とわたしは不謹慎なことを考える。そんなタチの悪い冗談を考えられるくらい、わたしの胸にはまだ空洞が残されていたのだ。この穴が塞がり、悔恨の涙と痛みで埋まっていくのは、いったいどれぐらい先のことなのだろう。
 彼女は握ったハンカチを目許まで持ち上げると、嗚咽を押し殺すように体を震わせた。

 ◇

 弟が恋に落ちたことを知ったのは、陽気な春も過ぎ、街に夏の気配が漂い出した季節のことである。わたしやカコと同じ高校に進学した彼は、入学式を終えたばかりのばたばたした期間を終えると、なにやら上機嫌な顔で毎日を送るようになっていた。
「マミ姉ぇ、俺、好きな人ができた」
 リビングでカルピスを飲みながら、タカくんが弾むような声で言った。それまで彼が色恋沙汰に夢中になったことは一度もなかった。わたしは意外に思いつつも、受験に向けての勉強が忙しいこともあり、「知らん」と刺々しく言い返した。
「マミ姉ぇはこの頃、ずっと勉強してるね」
「そういう時期なの。あまり気を散らさせないで」
「たまには息抜きしたほうがいいよ。俺みたいに、素敵な恋に胸をときめかせるのも大事だよ」
お前は気が抜けすぎなんだよ、と言い返したくなったが無駄だと悟り、自室へ閉じこもった。壁越しに伝わる音程の外れた彼の鼻唄に苛立ちながら、わたしはせっせと勉強を続けた。馬鹿は気楽なこっちゃ、と心底羨んだ。
 事情が判明したのは、その翌日の昼休みである。
「ねぇ、タカくんのことだけどさ」
 向かいの席で弁当を開けながら、カコが打ち明けた。
「びっくりしないでね。あたし、タカくんに告られちゃった」
 死ぬほどびっくりした。危うくお茶を噴くところだった。
 わたしとカコは保育園からの付き合いである。竹馬の友というやつで、なにをするにも一緒、どこに行くにも一緒という仲だった。もちろん、わたしの弟とも面識があるし、子供の頃にはよく三人輪になって遊んだものだ。
「ちょっと詳しく聞かせてもらおうか」
「言われんでも話すわい」カコは顎を突き出して語り始めた。
 最近の彼女は、自習のために遅くまで学校に残っていたのだが、帰り際にタカくんと昇降口で顔を合わせることがよくあったらしい。まるで見計らっているかのようなタイミングで、二人で下校することもちょくちょくあったが、あまりに頻度が多く、怪訝に思った彼女がそれとなく理由を尋ねると、「好きで好きでしょうがない」と直球な返事を寄越されたそうだ。戸惑うカコに「付き合って欲しい」と弟が申し込んだ、というのが顛末だった。
「やるなぁ、あいつ。ちょっと怖いけど」わたしは思わず感心した。「で、どうすんの? 付き合うの?」
「あんたの弟だよ」カコは信じられないという顔をした。
「関係ないよ、姉も弟も。わたしには知ったこっちゃない。だけど、結論と成り行きだけは知りたいお年頃」
「いい性格してるよ、ほんと」カコは顔を渋くする。「付き合うわけにいかないじゃん。いや、べつにタカくんが嫌いってわけじゃないけどさ、そういうのじゃないでしょ。昔からの仲でもあるわけだし」
「まぁ、そうね」
 その心理はわたしにもなんとなく理解できた。
「それに勉強も忙しいし、受験終わったあともなんやかんやあるだろうし」彼女は弁解じみた口調で言う。「それになんというか、タカくんには悪いけど、恋人としては見れないっていうか……、あんたの弟ってことを抜きにしても」
「だろうねぇ」
「たとえるならよ、厭味に聞こえるかもしれないけど、付き合うんならもっと逞しい人がいいの。訓練されたシェパードみたいな人がいいのよ。シベリアンハスキーでもいいけど、ポメラニアンはちょっと無理って感じ」
「人の弟を犬にたとえるなよ」
「とにかく、そういうわけだから断ろうと思うんだけど、どう言えば傷つけずに断れるかなぁって考えてるところ」
 言い寄る男子が多いのに、彼女がそんなことで頭を悩ませているのは意外だった。軽くあしらっているものだと思っていたが、もしかしたら相手がわたしの弟だから、余計に気を遣っているのかもしれない。
 しかし、どれほど手酷く振っても、タカくんは笑って許すに違いなかった。なぜなら彼は許しのライセンスの保持者なのだから。
 ふと、夕暮れの空き地で聞いた弟の台詞を思い出し、わたしは笑いをこらえなければならなかった。
「なに、いきなり笑いだして」
「なんでもない」わたしは首を振った。「べつに難しく考えないで、ストレートに振っちゃえばいいと思うよ」
「いいよなぁ、気楽で」
「大丈夫だって」そこまで言ってから、わたしは思いついた。「そうだ、あいつ呼び出してさ、いま言った通りに断っちゃいなよ。小型犬は無理だって。わたし、物陰からその様子見てるからさ。それで、あいつがぐちぐちしつこいようだったら、わたしが飛び出して喝入れてやるから。いや、それより、あんたがOK出してあいつが浮かれたところに、わたしがドッキリでしたって飛び込んでいくのはどう?」
「よくそんなこと考えつくよね。冷血女」
 そう言いながらも、カコは興味が湧いたように忍び笑う。所詮はわたしと同種の人間なのだ。
「あいつ、馬鹿だから多少からかっても気にしないって。ね、やろうよ」
「さすがに怒るだろぉ。一応、あっちは真剣っぽいんだから」
「大丈夫、大丈夫。あいつ、許しのライセンス持ってるから」
「なんじゃそりゃ」
 今度は噴き出すようにカコが笑った。

 ◇

 じんわりとした熱気を纏って夜が訪れた。時刻は八時半。住宅街は閑静としている一方で、なにかが起こるのを期待する不穏な大気だ。わたしもちょっとした刺激を待っている。退屈な日々を紛らわしてくれる、なにか面白い出来事を。
 カコは公園のベンチに座っている。タカくんを待っているのだ。時折落ち着かなさそうに、わたしが潜む遊具のトンネルへ目を向ける。わたしは目立たぬよう暗闇から手を振り返した。それだけの動作で額に汗が浮かぶ。蒸し暑くてしょうがなかった。
 やがてタカくんが現れた。足取りだけで緊張しているのがまるわかりだった。
 わたしは「タカくんの鼻唄が耳障りだから」といちゃもんをつけ、ファミレスで勉強する旨を母に伝えていた。母伝いに聞いたその嘘を、弟は不審もなく受け止めただろう。姉の厭味にかかずらっていられるほど、心に余裕がなかったに違いない。
「ごめん、待った?」
 彼は昔からの馴れ馴れしい口調で尋ねる。先輩後輩の壁などまるで眼中にないようだ。
「ううん、いま来たとこ」カコの声からも緊張が伝わる。「呼び出してごめんね」
 気まずい沈黙が降りた。暗くてよく見えないが、どうやら互いに目を逸らし合っているようだ。数メートル先で展開されている青春の一ページを、わたしは興奮しながら見守った。残酷な運命が鼻先に迫っていることも露知らず、タカくんはそわそわと、期待の入り混じった仕草で肩を揺らしている。
「あのね」先に口を開いたのはカコだった。「タカくんが告白してくれて、すごく嬉しかったよ。ほかの男の子と違って、タカくんは子供の頃から知ってるから、少しびっくりしちゃったけど」
 背筋を這うゾクゾクに耐える。自分は真性のサディストかもしれないと思った。
「俺、カコちゃんのこと好きなんだ。昔から」弟はいい気になって恥を晒す。「本気だよ、俺。ずっと、付き合えたらいいなって思ってた。カコちゃんって綺麗だし、大人っぽいし、優しいし。受験で忙しいだろうから、いますぐじゃなくてもいいけど、付き合って欲しい」
「ありがとう」カコは微笑んだようだった。「でもね、やっぱり、タカくんとは付き合えない」
「え、どうして?」弟の声に戸惑いが滲んだ。
 どうしてもなにもないだろう。動揺するタカくんの様子がますます滑稽で、わたしは必死に笑いを噛み殺さなければならなかった。
「タカくんはマミの弟だし、昔からの仲だから恋人として見れないっていうか」
「マミ姉ぇなんか関係ないよ」タカくんは言い縋る。「それに、子供の頃からの仲だからこそ、俺、カコちゃんのことよく理解してると思うし、きっと、付き合えたら楽しいと思う。俺、こう見えて料理上手いし」
 弟が見当違いなことを言っている傍らで、カコはうなだれていた。よく見ればその影が小刻みに震えている。罪悪感かい、とわたしは胸の内で問いかけた。もちろん、そんなはずがない。彼女もまた、笑いを堪えているのだ。
「違うの」彼女は首を振る。「あのね、あたし、シェパードが好きなの。シベリアンハスキーでもいいんだけど」
「へ?」予想通り、弟は間抜け面を晒した。
「タカくんはね、たとえるならポメラニアンなの。可愛いけど、それだけじゃあたし、だめなの」
「ポメ……、え、なに?」混乱しているのが手に取るようにわかった。
「タカくんは犬、詳しい?」
「犬?」彼がきょとんとする。
「タカくんはね、小型犬なの」
「俺、人間だよ?」
「たとえだってば」
 タカくんはしばし言葉を失って、まじまじとカコを見つめる。そして、たっぷりと時間を消費してから、ぼそっと訊ねた。
「犬、飼いたいの?」
 もう我慢できなかった。
 横隔膜が爆発し、トンネル内にわたしの高笑いが響き渡った。
 ひぃひぃ喘ぎながら遊具から這い出ると、タカくんが仰天してあとずさった。「マミ姉ぇ」と悲鳴のように叫ぶ。わたしはまだ笑いが治まらず、体をくの字に折りながら手を挙げて応えた。
「なんでそんなところに」彼は、隣のカコがくすくす笑っているのにも気づいていないようだった。
「ごめん、もっと聞いていたかったけど、耐えられなかった」
「勉強してたんじゃ」
「だって、こんな面白いことあるのに、勉強なんかしてられないし」わたしはようやく息を整える。
「ごめんね」カコも言った。「マミが仕組んだことなの」
「あ、わたしだけに押しつけるんじゃねぇ。あんたも乗り気だったでしょうが」
「悪いとは思ったんだけど」
「よく言うよ。人の弟を小型犬呼ばわりしてさ」
 わたしたちの会話をタカくんは黙って聞いていた。いや、聞いていたかどうかわからない。途方に暮れたような、呆然とした顔つきだったからだ。
 怒るかな?
 わたしは横目で弟を観察する。カコも多少心配そうにちらちらと窺っていた。許しのライセンスが発動するかどうか、見物だった。
 タカくんは我に返ったように身じろぎすると、すぅっと深呼吸した。
 そして。
 信じられないことに、わたしたちに笑顔を向けた。
 あの気が抜けた、どこまでも呑気な笑みを浮かべたのだ。
「俺、馬鹿だから、気づかなかったよ」歯を見せて微笑み、弟は気恥かしそうに頭を掻いた。「振られちゃった上に、マミ姉ぇにも聞かれていたとは。すげぇ恥ずかしいや」
 わたしたちはあっけにとられて彼を見つめる。
 弟は頭を掻きながら、ポケットから小さな包みを取り出した。言葉を失っているカコの手に素早くそれを押しつける。
「振られても付き合えても、それ渡すつもりだったから。忙しそうだからなにか手伝いたかったんだけど、俺、馬鹿だからそれくらいしか思いつかなくて……、受け取ってよ、カコちゃん」
 カコは戸惑った顔で、渡された包みとタカくんの顔を交互に見た。
「だけど、ほんと、参ったなぁ」その声が少し震えていた。「マミ姉ぇ、ひどいよ。振られるだけでも相当ショックなのにさぁ」
 わたしは言葉を返せなかった。彼のはにかむような顔を見ても、震えて崩れそうな声を聞いても、なにも詫びることができなかった。
「まぁ、面白かったなら良かったよ。これでつまらなかったら最悪だもんな」タカくんは鼻を擦る。「ごめん、俺、もう帰るね。ちょっと、散歩してから、帰ろうかな」
 彼は背を向け、逃げるように公園から去っていく。わたしたち二人は声を掛けられずに、その背中を見送るばかりだった。公園を包む夜の静寂が、心なしかいつもよりも重苦しかった。

 ◇

 それから、わたしは最後までタカくんと話すことができなかった。彼は帰宅するなり部屋に閉じ籠ってしまい、出てこなかった。わたしもどう話しかければいいのかわからなかったから、扉をノックしなかった。翌朝には、彼がいつもより三十分以上も早く学校に行ってしまい、顔を合わせる機会さえなかった。
 わたしはいつも通りの時刻に家を出て、駅前でカコと合流し、電車に乗った。構内の階段で人だかりができていたので、わたしたちはそちらを迂回し、いつもと違う車両に乗った。
 前夜の出来事について、カコとはなにも語らなかった。公園で別れたあとも連絡を交わしていなかった。いつもと変わらぬ世間話をしながら、なんとなく気まずい空気がわたしたちの間に流れていた。
 タカくんはそのとき、病院に搬送されていたらしい。わたしたちが迂回した駅構内の人だかりは、階段から転げ落ちた弟を取り囲むためのものだったのだ。わたしがそれを知ったのは、ホームルームを終え、一限目の準備をしている最中、父からの着信に応答したときだった。タカくんが息を引き取ったのは、それよりもっと前だったかもしれない。

 ◇

 たった三日前の出来事が、もう遠い昔のことに思える。そうだ、あれからまだ三日しか経っていないのだ。弟を喪ったという実感が湧くはずない。わたしはその数百倍もの月日を、彼と共に過ごしてきたのだから。
 大学生の姉はタカくんが死んだ日の夜に実家へ戻り、長姉のほうは昨夜になってようやく東京から帰って来た。もっと早くに帰れたはずだった。それほど怒りを感じたわけではなかったが、彼女に嫌味の一つでも言ってやろうと思って、わたしは待ち構えていた。だが、タカくんを納めた棺に顔を押し当て、崩れるように号泣する姉たちの姿を見ると、結局なにも言えなかった。平然としているのはわたしだけのように思えて、なんだか疎外感すら感じていた。
 葬儀を終え、弔問客の相手をあらかた終えたあと、わたしは庭に出て、なんとなしに夜空を見上げた。分厚い雲が垂れこめている。旅客機かなにかの轟音が、遠い空から低く響いていた。
 タカくんが死んだ日の夜、わたしは彼の部屋を訪れた。
 主を失った部屋の調度品は、どれもこれも暗い影を背負い込んでいるかのように見え、存在自体が虚しく思えた。そのくせ、まだどこか日常の余韻を残しており、無造作に放られたシャツやハーフパンツを見たときには、いまにも弟が階段を昇ってくる気配さえ感じた。
 勉強机の引き出しに、わたしは見覚えのある白い包みを見つけた。カコに渡していたものだ。変だな、と思いつつ手に取ると、ボールペンの走り書きで『マミ姉ぇ用』と書かれていた。包みを解いて中身を確認し、わたしは頭を殴られたようなショックを受けた。その包みはいまも、わたしのポケットに入れっぱなしである。
 スマートフォンが振動した。先ほど帰ったはずのカコからだった。
「もしもし」電話越しの声には疲労が滲んでいた。
「どうしたの?」わたしはいつも通りの声で答える。
「帰り際に会えなかったから……、あの、大丈夫?」
「大丈夫だよ」わたしは微笑む。「そっちこそ大丈夫?」
「うん、あたしは……」カコの声が力を失くした。「だめだ。やっぱり、大丈夫じゃないかも」
「明日、学校休めば? わたしもあと二日くらいは休むつもりだし」
「うん、そうだね」
 わたしたちは躊躇うように沈黙した。
 お互いに話したいことが沢山ある。そんな確信がある。だけど、それがすべて音になり、声になり、言葉になるには、まだまだ時間が必要な気もした。
「急だったよね」カコが言った。
「うん」
「あのときは、こんなことになるなんて考えられなかった。考えるはずないもんね。次の日には死んじゃうなんてさ」
 幾度となく繰り返された会話を、わたしたちは再び始める。独白するカコと、ただ頷くわたし。罪を共有する二人。懺悔室のような関係が、この三日間で出来上がっていた。わたしの懺悔は、いったい誰が聞いてくれるのだろう?
「あのとき、タカくんがあたしに贈り物してくれたの、覚えてる?」
「覚えてるよ。白い小さな包みでしょ」
 それと同じものがわたしのポケットにあることを、彼女は知らない。まだ誰にも話していなかった。
「あたしね、あの包み、すぐには開けられなかったんだ。タカくんに申し訳なくて、遊び半分で断った自分が嫌で、家に帰ってもポケットに入れっぱなしだったの」
「うん」わたしは頷く。
 洟を啜る音。泣いているのだろう。
 わたしは素直にカコを羨ましく感じる。もう涙を流せるなんて、それだけ優しい人間なのだろう。皮肉ではない。心の底から嫉妬できる。泣くべきときに泣けないなんて、ただ苦しいだけだ。
「だから、タカくんが死んじゃったって知らされて、頭真っ白になっちゃってさ。昨日まであんなに元気だったのにって。あんな仕打ちが最後だったなんて、考えたくなくて……、そう考えたとき、贈り物のこと、思い出して」とうとうカコの声に涙が滲んだ。「そんなつもりじゃなかったのに、あたし」
「わかってるよ」わたしは掠れた声で応える。
 カコもきっと、同じものを手にしているだろう。わたしもポケットから取り出していたそれを眺めた。
 僅かな重み。
 学業成就の文字。
 合格祈願の御守だった。
 いったいどれほどの祈念が、この小さな巾着に込められているのだろう。いつの間にか旅客機の轟音が途絶え、辺りに静寂が戻っていた。
「あたしさ、男見る目、なかったよね」カコの声は割れている。「馬鹿だよね。なんでさ、いまさら気づいちゃうんだろうね。ほんと、馬鹿だよね、あたし」
「うん」わたしは溜息をつく。「馬鹿だよ、わたしたち。ほんと……、最低の馬鹿だ」

 ◇

 電話を切ったあとも、わたしは庭に佇み、ぼんやりと夏の夜に同化していた。住宅街では虫の音も聞こえない。時折、どこかで靴音や車の排気音が聞こえるのみだ。
 弟は、わたしを許してくれるだろうか。
 許しのライセンス、それを持つ唯一無二の弟。
 あの気抜けた人懐っこい笑顔を見られることは、もうない。
 彼が階段を踏み外した理由は、もしかしたら、前夜のショックからまだ立ち直れていなかったせいではなかったのか。毎日通っている駅の階段で足を踏み外し、ましてや転落するなど、そうそうないことだろう。きっと、心ここにあらずの状態だったのだ。
 そんな考えが浮かんだのは、タカくんが死んだ翌日だった。
 もしそうなら、弟を殺した張本人は、姉であるわたしということになる。理屈が生まれる前から、もう罪の意識は充分にあった。カコもきっと同じように考え、胸の痛みに苦しんでいるのだろう。
 どこまでも無神経で。
 どこまでも呑気で。
 彼は、そんな姉を許してくれるだろうか。
 許しを得られないことが辛いのではない。
 許しを乞う声すら届かないのが、辛いのだ。
 わたしはカコやほかの家族たちをまた羨ましく思った。打ちひしがれ、悔恨の涙を流し、罪と真正面から向き合うことが、わたしにはまだできない。実感はずっと遅れている。
 でも、きっとわたしは、ほかの誰よりも膨大な量の涙を流すことになるだろう。それがいつのことになるかはわからないが、その痛みがやってくることだけは、はっきりと、冷淡すぎるくらいに理解していた。
 夜の住宅街は静まり返っている。
 なにかを待つような静寂。
 だけど、もうなにも起こらない。
 タカくんを喪った日常には、そんな予感がいつまでも続いている。




<了>



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※2015~2016年頃執筆。(加筆修正)
 見出し画像:みんなのフォトギャラリー(もとき様)

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