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【短編】ミカ先生のこと

 そうだ、ミカ先生のことを話そう。
 彼女について語ることは、すなわち僕がこの道を歩むきっかけになった出来事を語ることでもあるからだ。

 ◇

 ミカ先生は、僕が小学校四年生から五年生までの間、アルバイトの家庭教師としてうちに通っていた女性だ。
 彼女は当時まだ二十歳の大学生で、つまり現在の僕と同い歳だったわけだが、なんとなく年齢にそぐわない感じの人だった。子供っぽく見えるときもあれば、大人っぽく見えるときもあって、じつにあやふやな印象だった。まぁ、小学生が大学生に抱く印象なんて、だいたいがそんなあやふやなものなのかもしれないけれど。
 その頃の僕は、世間一般の小学生のご多分に漏れず、勉強が大嫌いな子供だった。勉強嫌いである以前に、ただの阿呆だった。教科書に向かってウンウン唸っているならまだ可愛いが、鼻に鉛筆をさして踊り、授業を妨害するような手合いの子供だった。当然、成績など良いわけがない。クラスではいつも最底辺。そんなわけで、見兼ねた母が家庭教師を雇ったのである。

 冬の始まりの季節に我が家を訪ねたミカ先生は、角砂糖のように白いダッフルコートを着て、頬を林檎みたいに赤く染めていた。
「は、はは初めまして、冴島ミカです! よ、よよよよろしくね、セイくん!」
 あんなに緊張した大人を見るのは初めてだった。
 なんか頼りないな、と思ったのをいまでも憶えている。
 ミカ先生は毎週火・木・金曜日にやってきて、僕が特に嫌っていた算数を教えてくれた。四年生の算数といえば、前年にはまだ慎みのあったかけ算わり算が小数や分数になって暴れ始め、平行四辺形や面積という未知の世界の住人が来襲する暗黒時代である。鼻に鉛筆をさして踊る僕が敵う相手では到底なかった。
 案の定、授業は出だしから暗礁に乗り上げた。
 僕の算数能力の基礎が、覚束ないどころか更地に等しいことが判明すると、ミカ先生は唖然として黙り込んだ。隣の僕はというと、ものの五分で飽き、消しゴムのカスを丹念に練り始めていた。
「よし、じゃあ、こうしよう!」ミカ先生は健気にも僕を見捨てなかった。「二年生でやったとこから、また始めよう。九九からやろう。ね? わからないとこがあったらわたしが……、せ、先生が、教えてあげる! ほら、ねりけし作らない! 一本集中!」
 僕は早くもうんざりした。
 なんかメンドクサイ人が来たな、と憂鬱に感じた。

 それから週に三日、僕はミカ先生と机に向かい、苦手な数字と睨めっこさせられた。それは苦痛以外の何物でもない時間だった。座って問題を解かされる苦しみはもちろんだが、僕はやたらとプライドの高い子供だったので、二年生の問題で手間取る姿を晒すのが癪だった。つまり、阿呆のくせに阿呆と思われるのが屈辱だったのである。
 しかし、そう苦しいことばかりでもなかった。
 ミカ先生がやってきてすぐ、彼女がじつは、おちょくり甲斐のある面白い人だとわかったからだ。
 そうなると、僕は勉強をそっちのけに、彼女への悪戯を考えることだけに知恵を注いだ。窓辺に積もった雪を油断した先生のうなじへぶっかけたり、ゴキブリそっくりのゴムの玩具を机に仕込んだりした。その度に、ミカ先生は「うぎゃあああ」と絶叫して椅子から転げ落ちる。母が血相を変えて飛んでくるほどのリアクションだった。
 ミカ先生の偉いところは、どんなにひどい悪戯をされても、笑って許してくれるところだった。「しかたないよね、勉強ってつまんないもんね」と優しく微笑むときのミカ先生は、明らかに子供《こちら》側の大人だった。でも、「それはそれ、これはこれ!」と計算ドリルを突きつけるときの先生は、完全に大人《あちら》側の大人だった。『お姉さん』と『女の人』の中間にいるような人だったのだ。まだ親と教師以外の大人を知らなかった僕にとって、そんな彼女はとても新鮮でトリッキーな女性に思えた。

 いつしか僕は、ミカ先生を好きになっていた。
 本当に、自分でも気づかないぐらいのいつの間にかに、自然とそんなふうになっていた。
 先生が熱を出して来られなかった三月のある日、唐突に僕は自分の気持ちに気づいたのである。あの感覚は、どう言い表せばいいのだろう。いままで味わったことのない、むず痒くて恥ずかしいような感覚に戸惑い、体がぎくしゃくするようになってしまったのだった。

 そうは言っても、勉強はやはり苦行である。
 ミカ先生のおかげで、分数計算や小数計算への道はだんだんと拓けていたが、それでも問題を解き続ける時間は耐え難いものだったし、五年生の授業では円周率という怪物まで出現し始めていたので、僕は前年と変わらずに鼻鉛筆の舞を教室でやっていた。
 ミカ先生との授業でも、僕の態度は概ね同じだった。急に真面目にやるのは照れ臭いし、静かな部屋の中で先生を意識してどぎまぎするよりは、馬鹿をやって困らせたほうが遥かに気楽だったのだ。それに、彼女が笑ってくれると、無性に嬉しかった。そんなことばかりしていたので、僕の算数の成績は依然として最底辺のままだった。

 並木道の桜が残らず緑に染まった五月のある日のこと、計算ドリルをやっている僕の隣で、ミカ先生は頬杖をついて物思いに耽っていた。
「どうしたの」と訊くと、彼女は「なんでもない」と慌てて言った。
「少し、疲れただけだよ」
 授業が始まる前、ミカ先生が母と話し込んでいたことを僕は思い出した。
「さっき、母さんとなに話してたの?」
「べつに、ただの世間話だよ」彼女はなんでもなさそうに答えて、計算ドリルを覗いた。「できた?」
 僕はすまし顔でドリルを差し出した。途中まで真面目に解いておき、後半は下品な落書きや言葉を書いておいた。ミカ先生が赤面して言葉に詰まる類のやつだ。内心でニヤニヤしながら彼女のリアクションを待った。
 ところが、先生は静かに溜息をついただけで、しばらくなにも言わなかった。
 拍子抜けしている僕に、やがて彼女は口を開いた。
「セイくん、どうしていつも真面目にやらないの?」
「だって、つまんねぇんだもん」僕は口を尖らせる。
「つまらなくても、ちゃんとやらなきゃだめ。そんなんじゃ、いつまで経ってもできないままだよ」
「べつに、できなくてもいいし」
「だめ。いつかそれができなきゃいけないときがきて、そのときにできなかったら、後悔するのはセイくんなんだよ」
「知らねぇよ」
 反撥心から言い返し、説教されたことにも腹を立て、ゴキブリの玩具を投げつけた。「うぎゃあああ」と先生が飛び退き、僕はげらげら笑った。
 ミカ先生はなにか言いたげに口を歪めたが、「もう」と息を吐くと、いつもみたいに「しかたないなぁ」と笑うだけだった。
 あのとき、ミカ先生の置かれた立場をほんの少しでも理解できていたなら、どんなに良かったことだろうと思う。

 ◇

 六月になって、父が二年間の単身赴任から帰ってくると、両親は夕食の後によく話し込むようになった。他愛もない世間話がほとんどだが、ときには僕の成績や家庭教師のミカ先生のことにまで話題が及ぶときもあった。そのたびに僕は、居間でアニメを観るふりして、両親の会話に耳をそばだてていた。内容の如何によっては僕の身の振り方にも関わってくることだから、聞き逃すわけにはいかなかった。
 ミカ先生を辞めさせるつもりだ、と母が打ち明けたのを聞いた瞬間、僕は、自分でも驚くほど激昂して、両親に食ってかかっていた。
 一人息子のいきなりの憤激に、両親は目を丸くしていたが、すぐに母が応戦した。父がなんとか宥めようとしたが、僕がクッションを投げつけたことに母は血を上らせ、したたかに僕の頬をぶった。僕は自室に逃げ込んで泣くしかなかった。
 母は、お金を払って家庭教師をつけているにも関わらず、僕の成績が一向に上がらないことが不満だったらしい。
 もっともな道理である。つまり、僕が不真面目だったせいでミカ先生はクビになるわけだ。阿呆でもわかる理屈。しかし、それゆえに僕は、どうしようもなく情けなく、どうしようもなく後ろめたかった。そんな阿呆でもわかる理屈すら、僕は親に叩かれる瞬間まで気づけなかったのだ。

 翌日にやってきたミカ先生の顔を、僕は直視できなかった。いままでの照れ臭さとはほど遠い、タールのように暗澹とした気分で、いつもの悪戯をする気も起きなかった。
 ミカ先生は、いつになくしょげかえった僕を怪訝に思ったようだった。
「セイくん、どうしたの? 今日、元気ないね」
「なんでもない」僕はむすっと答えた。「話しかけないで。集中できないから」
 鉛筆を握って四年生用の計算ドリルを睨むうち、僕はだんだんと悔しくなった。そこに書かれている問題が、まったくわからなかったからだ。僕は何度も何度も式を書いては、ほとんどやけくそのように消しゴムをすり減らし続けた。
「セイくん?」先生が心配そうに覗き込んだ。「大丈夫? わからないところがあったら、先生に訊いていいんだよ?」
 その優しさが神経を逆撫でた。
 気づけば僕は、消しゴムを彼女に投げつけて怒鳴り散らしていた。
 頭が真っ白になって、自分でもなにを言っているのかわからないくらいだったが、ひどい言葉を投げつけていたのはたしかだ。先生が悪いんだ、先生のせいで集中できないんだ。憶えているのは、そんな自分勝手な言葉だけである。
 ミカ先生はびっくりした顔で固まっていたが、やがて肩を落とすと、「ごめんね」と悲しげに笑った。
「そうだよね、わたしの……、先生の、教え方が悪いんだよね。ごめんなさい。先生もね、本当はあまり要領が良くないほうなの。いつも、人からそう言われるんだ」彼女の笑みはいまにも壊れそうだった。「ごめんね……、問題が解けないのは、セイくんのせいじゃないよ」
 僕のせいに決まっていた。
 どんな知識も、どんな訓練も、本人がその気にならなければ、身につくことなどけしてないのだから……、どれだけ相手が真摯にやってくれても、自分が真摯に受け止めなければ、それはなんの意味も成さないのだから。
 時間がきて、先生はとぼとぼと帰っていった。結局、僕は一言も謝ることができなかった。夜道を去っていく彼女の背中を窓から見下ろしていると、泣きたくなるほど胸が痛んだ。
 ミカ先生はその翌週の授業を最後に、僕の家庭教師をやめてしまった。自主的に辞める意向を伝えたようだが、僕の母からなにか言われたのは明らかだった。
 ――後悔するのはセイくんなんだよ。
 先生がいなくなってから、僕はやっと彼女の言葉を理解した。先生の言う通りだった。できなければいけないことをできなくて、誰よりも後悔しているのは、ほかならぬ僕自身だったのだ。

 ◇

 それから、僕はすっかり塞ぎ込んでしまい、友達や両親とあまり話さなくなってしまった。算数の授業中に踊ることもしなくなった。算数の時間を馬鹿にしていると、なんだかミカ先生まで侮辱しているような気分になったからだ。
 ミカ先生がいない日々は、自分で考えていたよりもずっと深い痛手を僕に与えた。なにをしても楽しくなくて、アニメを観てもゲームをしても、必ずミカ先生の悲しげな笑顔が脳裏にちらついた。時間だけが無意味に過ぎていくようで、無力感というのか、もはや自分にはどこにも行き場がないように感じた。自分が正真正銘の馬鹿であったこと、自分が先生に対して不誠実であったこと、その事実をあそこまで痛感したのは初めてだったと思う。
 算数の授業中、教科書を眺めては胸が苦しくなった。それは相変わらず暗号の羅列に等しく、眺めれば眺めるほどに堅く閉ざされていく鉄の扉を思わせた。
 ミカ先生は、その重い扉を、僕の為にちょっとずつでもこじ開けようとしてくれていた。袋小路に立たされる苦しみから、僕を助けようとしてくれていたのだ。先生は本当に一生懸命にやってくれた。それなのに僕はその努力に応えようともせず、ミカ先生を悲しませた挙句、こうして扉の前に立ち尽くしているのである。自分をぶん殴りたかった。悔しくて、情けなくて、何度も涙が滲んだ。
 先生に会いたくて、たまらなかった。
 会って、たくさん謝りたい。
 会って、たくさん教えてもらいたい。
 でも、先生はすでに扉の向こうへ行ってしまった。重く冷たい鉄の扉の向こうへと去っていってしまったのだ。
 誰かに会いたいのに会えないということ、謝りたいのに謝れないということ、教えてもらいたいのに教えてもらえないということ、それがこんなにも苦しいとは思いもしなかった。そして、僕がこうして立ち尽くし、馬鹿みたいに後悔している間にも、彼女はどんどん遠ざかっていくのである。

 まだ、追いつけるだろうか。

 ふとそれを閃いたのは、もう梅雨も終わりかけの季節だった。
 扉を自力でこじ開けて、全速力で駆けていけば。
 まだ、ミカ先生に追いつけるだろうか?
 それはほとんど現実味のないアイデアに思えたけど、失意のどん底にあった僕は、もうどんなアイデアにでも縋りつくしかなかった。
 逸る気持ちを押さえつけながら、僕は自室でほったらかしにされていた問題集を開いた。いままで鼻にさしていた鉛筆を右手に持ち替えて、難解な四年生の算数問題にぶつかり始めたのだった。

 勉強の遅れを取り戻すのは、やはり困難な道のりだった。独力の限界は早々に訪れ、僕は何度も癇癪を起こしかけたけど、そのたびにミカ先生の言葉を繰り返し思い出して齧りついた。
 わからないことがあれば訊けばいい。
 僕はその言葉に従い、算数の得意な同級生を片っ端から捕まえて、半ば脅迫する態度で教えを乞った。その通り魔的な行為が担任教師の目につき、職員室に連れていかれても、僕は必死に算数を教えてくれと迫った。
 算数ができるようになりたいんです。
 満点を取れるようになりたいんです。
 担任は僕の豹変ぶりに面食らっていたが、最後はなんだか嬉しそうに笑って、僕のために算数のプリントを何枚か刷ってくれた。

 その後の中学高校でも、僕は幾度となく学問の壁にぶち当たってきたわけだが、あのときほど集中して勉強したことはないと思う。
 休み時間も問題の式を解き、家に帰れば、失神するように寝てしまうまで鉛筆を動かし続けた。冗談抜きで、指にタコができたほどだ。両親は、別人のようになった息子を医者か霊媒師に診せようと相談していたらしく、あとで打ち明けられたときには僕も思わず笑ってしまった。しかし、当時の僕は言うまでもなく真剣だった。まさしくなにかに憑りつかれたように、傍目には映っていたことだろう。
 僕が死に物狂いで計算の基礎を脳みそに叩き込み、ようやく円周率の問題に着手し始めた頃、小学校は夏休みを目前に控えて浮足立った雰囲気だった。でも、僕は夏休みではなく、その直前にある算数のテストだけを一心に睨み続けていた。

 ◇
 
 テストの答案結果が配られた日、教室は僕を中心にしてお祭り騒ぎになった。数か月前まで鼻に鉛筆をさして踊っていた阿呆が、満点の成績をとるという奇跡を成し遂げたからだ。
 よく頑張ったな、と担任に褒められるのはまんざらでもなかったが、僕の心境はまだ達成感とは程遠かった。僕のゴールは、満点とはべつのところにあったからだ。これはまだ通過点のひとつに過ぎない。本当の正念場はこの先に待ち受けている。気を抜ける状況ではなかった。
 次にやるべきことはもう決まっていた。
 僕は最高得点が記された答案用紙を持って家へ帰り、狂喜した母に向かって、千円の臨時ボーナスを要求したのだった。

 翌朝、いつも通りに家を出た僕は学校をサボり、切符を買って電車に乗った。ミカ先生が通う大学の所在は知っていたので、あとは彼女が籍を置く教養学部の棟を上手いこと見つけられるかに懸かっていた。
 大学構内を、子供がランドセルを背負ってうろついていたのだから、大層目立ったと思う。僕はくすくす笑って行き交う大学生たちに慄きながらも、教養学部の棟の場所を聞き出すことに成功した。警備員にはかなり怪しまれたが、家族に用事があるのだと告げ、ミカ先生の名前と学部を並べると、なんとか信用してもらえた。するすると計画通りに事が運んで、少し怖いくらいだった。
 棟の昇降口の脇で待つ間、時間がとてつもなく長く感じられた。
 会えたらなにを言おうかと、必死に考えていた。まずは謝るべきか……、いや、それとも、再会の場を和ませる為にギャグの一つでもやってやろうか。しかし、学校をサボって大学にいるという状況の深刻さをじわじわと自覚し始め、そんなことを考えるゆとりはなくなった。早鐘を打つ自分の鼓動にじっと耳を傾け、運動靴の爪先で地面を叩くことに集中していた。
 一向にミカ先生の姿が見えず、いよいよ心細くなった頃、背後から懐かしい声が届いた。
「セイくん?」
 振り返ると、ミカ先生がそこにいた。
 少し見ない間に彼女は髪を短くしていて、いつも持っていた肩掛け鞄を斜めに掛けていた。あとは服装が違うだけのはずなのに、僕の部屋にいるときのミカ先生よりも、彼女はずっとずっと大人っぽく見えた。
 当然ながら、ミカ先生は心底驚いていた。
「ど、どうしたの? 学校は?」
 僕は安堵のあまり震えを起こし、夢の中のようにもどかしい手つきでランドセルを開けた。事前に用意していたどんな言葉も、綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
「ほら、先生、これ」
 テストの答案用紙を差し出すと、目を通した彼女がさらに驚きを浮かべた。
「先生のおかげで取れた」僕は早口に言った。「先生のおかげで、満点、取れたんだよ」
 先生はあっけにとられて声も出ないようだった。
「ねぇ、先生、戻ってきて。戻って、また算数教えて。先生の授業じゃなきゃ、俺、嫌だ。先生はだめなんかじゃない。要領悪くなんかない。俺が真面目じゃなかったのがだめだったんだよ。だから……」
 言いながら、僕は思わず泣きそうになった。
 ミカ先生が、目尻からぽろぽろと涙を零していたからだ。
 それが、とても切なくて、胸に堪えた。
 違うんだ。
 僕は、先生を泣かしたくて勉強したわけじゃない。
 彼女に笑って欲しくて、彼女の笑顔がもう一度見たくて勉強したんだ。
 震える唇を懸命に動かして、僕は続けた。
「先生、戻ってきてよ。また、勉強、見てよ。俺、今度はちゃんと、勉強するから」
 ミカ先生は洟を啜るように顔をくしゃくしゃにし、それから、泣きながら微笑んだ。
「よくできました」彼女の手が僕の頭に触れ、太陽で熱くなった髪を撫でた。「本当に、よく頑張ったね……、先生は、とっても嬉しいです」
 でも、僕は先生に頷き返せなかった。
 返事を聞く前から、声の響きでもう直感していた。
 遅すぎたのだ、と。
 扉の先にいたミカ先生は、もうすでに、ずっと遠いところまで行ってしまったのだ。
 先生は大きく息を吸ってから言った。
「先生は、ずっと、セイくんのことが心配でした。それは、先生も昔、セイくんと同じように勉強ができなくて、勉強を嫌いになりかけていたことがあったからです。勉強だけではありません。教えるのも出来が悪くて、セイくんに上手く算数を教えることのできない自分に、自信が持てなかったんです。だけど、セイくんは、こうしてしっかりとやってくれました。わたしは……、先生は、理由があって、もうセイくんの先生には戻れないけど、でも、きみが勉強をしてくれたことがわかって、いま、とても安心しています」
 先生は頬を伝う涙を拭いもせずにまた笑う。小さな顎の先から雫が降り、僕はそこに、虹の橋が架かるのを見たような気がした。
「セイくんが満点を取れたのは、先生のおかげではありません。セイくんが、自分の力で頑張ってくれたおかげです。わたしは、道があることを教えただけで、その道を進めたのはセイくんが自分の脚で踏み出したからなんです。わたしがいなくても、きみはもう大丈夫。歩き方を知ったんだから、もう大丈夫です。セイくんはわたしの、一番自慢の教え子です」
 僕は言葉を返せずにうなだれた。
 自分とミカ先生の間に横たわっている距離が悲しくて、涙がちっとも引いてくれなかった。それはきっと、この先いくら満点を取っても、もはやどうにもならないことなのだ。満点を取ってもどうにもならないことがあるという事実が、僕を打ちのめしていた。
 だけど……。
 僕は、ミカ先生とこうしてまた会えた。
 それは必死に勉強して、希望を繋ぐことのできる点数を取って、突き動かされてきた結果なのだ。ゼロじゃない。僕がやってきたことは、絶対に無駄ではない。
 だって、ほら、見ろ。
 ミカ先生が笑ってくれているじゃないか。
 これが、僕が手に入れたもの。
 これを得るために僕は勉強したんだ。
 だから、目を逸らすなんて、馬鹿なことをするな。
 ちゃんと見ろ!
 僕は目を擦り、まっすぐに先生を見上げる。そのとき、ある言葉が閃いた。それはきっと、僕らの関係を永遠に区切ってしまう類の言葉だったけれど、もう迷っている場合ではなかった。ほかにどんな言葉も浮かばなかったし、言うべきときに言わなければならないものだと、とっくにわかっていた。
「ありがとう、ございました」
 そう言ってまた泣きだした僕を、彼女は優しい微笑で見つめていた。
 泣きながら笑えるなんて、大人はずるいな、と思った。

 ◇

 ミカ先生は大学を早引けし、僕を家まで送り届けてくれた。駅までの道のり、電車に揺られる時間、そして家へと歩くまで、僕たちは沈黙を恐れるようにたくさんのことを話した。その中には受け入れがたいお話もあったけれど、僕は先生を困らせたくなくて、絶対に悲しい表情を浮かべないように努めていた。
 僕が学校をサボっていたことはすでに連絡が行っていたらしく、母は蒼褪めた顔で玄関の僕を出迎えた。それから傍にいるミカ先生を睨みつけたが、僕は必死に彼女を庇い、ほとんど逆上しながら事の経緯を説明した。
 責任なんてないのに、ミカ先生は深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして申しわけありませんでした」
 母も、ようやく頭を冷やしたらしい。気まずそうに詫びを返し、それから丁寧に礼を言った。
「息子が勉強するようになったのは、きっと、あなたのおかげね」母は言った。「ごめんなさい。必死にやってくれていたのに、きついことを言ってしまって」
「いいんです」先生は慌てて首を振った。「それに、セイくんが勉強するようになったのは、彼が努力したからです」
「本当に大学辞めちゃうの?」
 母が遠慮がちに尋ねると、先生は寂しい笑みで頷いた。
「実家に暮らしながら、また向こうの大学に通うつもりなんです」
 来月、ミカ先生が故郷に帰るというのは、僕もすでに聞かされていた。家の事情によることで、詳しくは聞けなかったけれど、先生にとってそれはとても重大な決断のようだった。彼女が家庭教師を辞める直接の原因は僕になかったということになる。もちろん、それで胸が軽くなるほど僕は馬鹿ではない。
「先生」別れる段になって、僕は縋るように言った。「俺、これからも勉強する。勉強して、また満点取って、先生のとこに送るよ。だから、先生も頑張って」
 ミカ先生はまた目を潤ませたけれど、最後まで笑顔を崩すことはなかった。
「うん。セイくんも頑張って。また、いつか会おうね」
 そう言って、先生は手を振りながら夕暮れの道を去っていった。
 そのとき、僕は不思議な胸騒ぎがして、彼女が角を曲がるまで、目に焼きつけるようにしてその華奢な背中を見送った。彼女は道を曲がる前にもう一度だけ振り返り、僕へ向かって大きく腕を振った。微笑んでいるようだった。僕も大きく手を振り返し、笑い返した。

 それが、最後に見たミカ先生の姿だ。
 大学を辞めた彼女は、実家のある東北地方の海沿いの町に戻り、その翌年に起こった大震災の津波に飲まれて帰らぬ人になった。
 地元の大学への入学試験に合格し、教養学部生として再び教師への道を歩み始めようとした矢先の悲劇だった。

 ◇

 僕がそこまで語り終えると、ベッドの端っこで膝を抱えていたリエちゃんは、窺うようにして僕を見た。僕が話を始める前まで苛立って泣き腫らしていた目許が、いまは心配そうな表情を浮かべていた。
「先生は、ミカ先生のことが好きだったの?」
「好きだったよ」僕は微笑んで頷く。「あんなに人を好きになったこと、ほかにないな」
「ミカ先生が死んだとき、泣いた?」
「うーん、どうかなぁ。あんまり突然だったからね」僕は映画俳優のように肩を竦めてみせてから、リエちゃんの睨む眼差しに早々に観念した。「いや、すいません、泣きました……、めっちゃくちゃ泣いたよ」
「好きな人がいなくなったのに、先生、勉強を続けられたの? どうして?」
「好きな人が教えてくれたことだったからさ」
 その答えに、彼女は首を傾げる。
 僕はリエちゃんの小さな学習机を眺め、それから椅子を回してまた彼女に向き直った。
「ミカ先生が教えてくれたものだったから、ミカ先生と同じくらい勉強が好きになれたんだ。わかるかな……、たとえばさ、リエちゃんの好きな男の子が本を読んでいたら、リエちゃんもなんとなく、その本を好きになれるだろ? それと同じことなんだ」
「先生の読んでる本、あたし、知らないもん」
 口を尖らせた教え子に、僕は思わず苦笑する。相変わらず、この子はストレートだ。この素直さがあの頃の自分にもあったらな、と切に思う。
 リエちゃんは膝を抱えながら、いじらしい素振りで視線を落とした。
「でも、先生の言うこと……、あたし、なんとなくわかるよ」
「よかった」僕は微笑み、彼女の椅子を少し引いた。「それならさ、もう少し頑張ってみようよ。大丈夫。わからないところがあったら、先生に訊けばいいから」
 彼女はベッドから降りて、バツが悪そうに机の椅子に座り直す。四年生に上がったばかりの彼女は、かつて僕が散々苦戦させられた算数の怪物たちとまた戦い始める。だけど、その横顔にもう苛立ちは見えなかった。ただただ、彼女はひたむきに計算と向き合おうとしていた。
 僕は、手が届かないところに行ってしまったミカ先生を想いながら、彼女の自慢の教え子である自分を誇りに思いながら、教師になる夢を叶えるため、大学に通っている。その合間を縫って、こうして家庭教師のアルバイトにも精を出している。
 ミカ先生に出会えて、本当によかった。
 彼女と出会わなければ、僕はいま、この道を歩いていない。
 そして、その誇らしさは、リエちゃんたちに対しても感じていることである。自慢の教え子たちのおかげで僕は日々自信をつけ、いま歩いているこの道を、一歩一歩強く踏みしめることができるのだから。
「ねぇ、先生」リエちゃんがふと手を休めて言った。
「なんだい?」
 彼女は僕をじっと見つめてから、ふふ、と頬を赤くして笑った。
「ミカ先生、いまも見てくれてるといいね」
 僕は虚をつかれて見つめ返し、「そうだね」とゆっくり微笑んだ。

 ◇

 いつか、遥か遠くの、どこかの場所で。
 再会したミカ先生に「よくできました」と微笑んでもらえるように。
 僕は今日も、教え子たちの前にある重い扉を、少しずつ開けてやっている。


<了>



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※2017年頃執筆。
 見出し画像:みんなのフォトギャラリー(ちこ様)

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