やさしい哲学のリアリティの解説

はじめに

 哲学は完成した学問ですのであとはいかに分かりやすく表現して誰にでも理解し易くするかを目指すのがいいでしょう。

 内容は同じでも言葉が古臭かったり頭にすんなり入ってこないような表現をされていたらみんな哲学を避けますし、哲学はどんどん廃れていくでしょう。

 言葉や表現はどんどん分かりやすくしないといけません。

 医学では昔は病名は発見者の名前を取って名付けられていました。

 例えば筋萎縮性側索硬化症(ALS)は昔はシャルコー病と言われていました。

 しかしシャルコー病では名前を着ただけでは何の病気か分かりません。

 しかし筋萎縮性側索硬化症なら名前から具体的に何が起こっている病気かを直接名前で表現しており病気のイメージをより得やすくなります。

 哲学も出来るだけ今時に分かりやすくした方がいいでしょう。

 伝統を守って古い言葉と表現を使っていると他の変化している領域とずれが生じてしまいます。

 特殊な術語と特殊な表現を使う特殊な分野になってしまうでしょう。

 これはだいぶ昔から起きていて俗に「岩波語」などと言われ難解な文章を昔の岩波書店の文章に例えて表現されました。

 福沢諭吉は「俺は猿でもわかる文章を書くんだ」と言ったそうでそれを司馬遼太郎が称賛しています。

 我々もそれに倣って哲学を分かりやすい言葉に置き換えましょう。

 哲学はいろんな観点で見ることができます。

 一つは存在や認識について考える学問と言う視点です。

 また確かなもの正しいものについて考えるという視点もあります。

 ここではもう一つ「哲学とはリアリティを研究する学問である」と言う視点から考えていきましょう。


第1章 哲学はリアリティを研究する

 哲学は歴史的に見ると存在論と認識論からなっています。

 また別の観点では確かさや正しさとは何かを追求する学問と言えたでしょう。

 しかし現在の哲学は完成しているのでそれらに対する答えが出ています。

 答えが出ている哲学の完成形を見ると哲学について別の見方をした方が現代ではしっくりくるかもしれません。

 その別の見方とは「哲学はリアリティを研究する、あるいは研究してきた学問である」というものです。

 リアリティという言葉を辞書で見ると色々書いてありますが、「現実感」のように訳します。

 同じ語根からの派性はリアルやリアリズムでやはり日本語でも使われます。

 リアリティとリアルは違うのがポイントです。

 リアルは「現実」と訳してしまってもいいでしょう。

 現実は「現」と「実」からできています。

 「現」の対義語は夢だそうです。

 「実」の対義語は「虚」や「名」だそうです。

 「現実」の対義語は「理想」「空想」「仮想」「虚構」だそうです。

 面白いことに「理」も「空」も「仮」も「想」も「虚」も「構」も哲学において重要な感じです。

 ひっくるめて非現実とでも呼びましょう。

 哲学のみならず学問全般に使われます。

 何でもそうですが「現実」にも接尾語がつくと意味とニュアンスが変わります。

 「現実感」、「現実的」、「現実性」などになると後に解説するように意味が変わってきます。

 哲学のテーマは「現実」のように思うかもしれませんが、哲学が完成した現在の見方からすると最終的には「現実」ではなく「現実感」の方がテーマとして重要です。

 「「(real)現実」が存在するから「(reality)現実感」があり、我々が現実感を感じる」これが古典的な哲学の主流かつ常識的な考え方でもあります。

 これと共に現在ではもう一つの考え方がこの考え方と並行する形で成立しています。

 それは「リアリティ(現実感)があるから我々はリアル(現実)が存在すると思っている」と言う考え方です。

 前者は現実がリアリティに先行し、後者はリアリティが現実に先行します。

 前者の考え方は研究されつくされたのですが、後者の考え方が成立したのは比較的最近のことです。

 ですからまだ常識や通念と言えるようになるまで十分に世の中に広まっていません。

 現代のリベラルアーツ、教養ではどちらの考え方もできる様になるべきでしょう。

第2章 リアリティとは何か

 そもそも現実(リアル)が存在するという考え方は、リアリティ(現実感)の存在が少なくとも一つの根拠となっています。

 一つの根拠どころかそれが唯一の根拠である可能性もあります。

 リアルなもの、現実、実在、実体、とリアリティ(現実感、実在感、臨在感)はセットです。

 リアリティ(現実感)があるから我々は現実が存在すると思います。

 また現実(real)がないとリアリティ(現実感)の感覚も生じないのではないか、と言う風に我々は考えます。

 人間の精神は多様なのでそうではなさそうな例や考え方もいくらでもありますが、これが哲学の原点になります。

 生まれたときから一度も何かのリアリティ(現実感)を感じたことがない人間がリアル(現実)が存在すると考えるのかを考えてみるといいでしょう。

 もしかしたら生まれてから一度も何におリアリティを感じたことのない人間にも現実(リアル)が存在するという概念は持ちえるのかもしれません。

 しかしもしかしたら何に対しても一度もリアリティを感じたことのない人間は現実(リアル)が存在するという概念を持ちえない可能性があります。

 後者の考え方は理解し難い、または理解できない、ぴんと来ないという方がいるかもしれません。

 人間の自然な感覚では、もしかして文化圏によって異なるかもしれませんが、前者の考え方は精神発達において獲得する必要があると考えられます。

 他方で後者の考え方は知らずに一生を終えても特に問題がないのは現在でも特殊な場合を除けばそうでしょう。

 現実(リアル)を認識しつつリアリティを感じられない状態が精神医療ではしばしば見られます。

 そのものずばりのネーミングで現実感喪失症候群というものもありますし、自分自身の存在にリアリティを感じない離人症という診断名があります。

 神経症(ノイローゼ、昔でいうヒステリーを含む)の解離性障害のサブカテゴリーですが、精神病である統合失調症でもしばしばみられます。

 また逆にリアリティを感じるのに実体が存在しない場合もあります。

 いないはずの他人や電波や神の存在のリアリティを感じます。

 存在しないはずの感覚や思考のリアリティが存在するという意味では広くいうと幻覚や妄想もリアリティの障害です。

 リアリティの障害は感じるはずのリアリティを感じないのも感じないはずのリアリティを感じるのも含めて実体意識障害等とも呼ばれます。

 急性で一過性な問題であればまだいいのですが、この様な状態が反復したり慢性化すると生活に齟齬を生じる場合があります。

 という訳で実体意識障害は精神の失調であると考えられています。

 ですから実体意識障害は精神の生理学ではなく病理学で研究されます。

 精神生理学と言うのはおそらくないのですが脳科学や認知科学や神経心理学や単に心理学がそれにあたるのかもしれません。

 病理が異常の研究であれば生理学は正常の研究です。

 精神の生理学では従来リアルとリアリティの対応は自明とされてきましたがやはり現代ですのでリアルとリアリティの関係を複雑に考える考え方もあります。


第3章 リアリティを中心に考える

 現代の哲学はリアリティを中心に考えます。

 リアリティがあったとしてそれに対応する現実(リアル)があるかないかは問題としません。

 問題としないのは分からないからです。

 分からないということは立証も実証も検証も証明も全て成功したためしがないからです。

 ただし立証も実証も検証も証明が必要なのはリアル(現実)が存在しないと何も成り立たない場合です。

 そもそもリアルの存在がなくても全てを説明できる理論や説明体系があればリアルの存在を仮定して前提にする必要はありません。

 その様な理論であり説明体系をつくることに哲学は成功しました。

 これによって我々はリアルが存在してもしなくてもそもそも違いがありません。

 情報量がないと言えますし、差がないと言えます。

 ですからリアルの存在は哲学では無視されるようになります。

 あるいはリアルを想定すると便利な場合には応用的にリアルを仮定して理論を作り議論を進めれば良い訳です。

 これは功利主義、プラグマティズムなどの考え方です。

 リアルの存在は哲学の基幹的なテーマから外れましたが、次はリアリティの研究が哲学の重要なテーマとなりました。

 リアリティとは何か、なぜリアリティが存在するのか、リアリティは必要なものなのかなど様々な問題提起ができます。

 ちなみにリアルがあるという考え方を実在論(リアリズム)と呼ぶ場合があます。

 リアリスティック(現実主義的)という言葉もありますがリアリズムとリアリスティックは、リアルとリアリティが違うように異なるものです。

 リアリズムはリアル(現実)が存在するという考え方だけではなく、創作などにおいて作品のリアリティ(現実感)を高めるという意味に用いられます。

 リアリスティック(現実主義的)という言葉は実在論(リアリズム)を哲学の言葉として使うにせよ創作活動の言葉として使うにせよ“現実(主義)っぽく見せかける”という意味になります。

 別の言い方をいうと何かに“リアリティを持たせる”という意味に使われることが多いです。

第4章 発想の転換

 現代における最も重要な逆転の発想の1つに“存在から創造に発想を切り替える”というものがあります。

 創造という言葉を使わずに構造という言葉を使い、構造論、構造主義と主に言われます。

 構造は「構を造る」あるいは「構(機構)で作られる」あるいは「作られた構(かまえ、機構)」と言う風に理解してもらうと良いでしょう。

 古い考え方はあるかないか、あるいはなぜあるかなぜないかを問いますが、新しい考え方は造られているか、あるいは作ることができるか、あるいはどのように造るのか、あるいはなぜ作られたのかを問題にします。

 別に古い考え方と新しい考え方を併用しても構いません。

 しかし後者の問いこそ完成した哲学の眼目です。

 リアリティに関しても同じです。

 リアリティがどのようにして造られているのか、リアリティをどのようにして造るのかを問題にします。

 そもそも何かがあるかないかを考える時に、何かがない場合には今はなくても造ろうと思えばそれを造れるのであればあるとみなしてよいかもしれません。

 作れれば結局はないと言ってもあると同じ事です。

 “ある”事を証明することを存在証明と言います。

 ちなみに“ない”ことを証明することを悪魔の証明と言う人もいます。

 数学の存在証明には非直感的なものと構成的なものがあります。

 何かを造れることを示すためには具体的な構成方法を示せれば一番建設的でしょう。

 具体的な構成方法を示せれば作ったものの存在を自然に直感的に理解したような気分になります。

 一方で具体的な構成方法はないものの「存在する」という事実だけを具体的な構成方法なしに背理法や選択公理などの非直感的手段を使って示す方法があります。

 具体的な構成方法からなる創作方法の前者の手法だけを認めて後者を認めないのを直感主義、具体的な構成方法に加えて非直感的な背理法の使用なども認めるのを形式主義と言って現代数学では激しい論争が行われた時期があります。

 何かを造ることができればそれはあると言えるでしょうが、逆に何かあるものを破壊したり解体することができるかもしれません。

 そうするとあったものがなくなってしまいます。

 造ったり解体できればあるものをなくしたりないものをあるようにできるということになりますのであるとを区別することは意味がなくなります。

 造るとか創造するというよりは現代哲学では同じ意味で構築、脱構築と言う言葉を使います。

 創造はcreateですから宗教的な意味がありますので避けた方が無難でしょう。

 構造と言うう言葉はストラクションです。

 建築するという意味になります。

  createするよりstructする方が言葉に色がついてなくて良いでしょう。

 構造を造る、あるいは構造を造る時に言葉として「構築」「脱構築」という言葉を使います。

 そうすると材料や部品から全体を造る建物や建築のイメージを借りることができます。


第5章 リアリティの作り方。

 哲学では存在を示すために「造る」ための具体的構成方法を占める方向に進化しました。

 哲学においては数学のような抽象的な対象を扱いません。

 ですから哲学においては数学のように背理法のような具体的な構成方法を示さず存在を積極的に認めるような手法にまで立ち入る必要がありませんでした。

 何かにリアリティを与える、あるいは何かをリアリスティックに構成する方法については実は西洋哲学の正当であるlogos中心主義よりはソフィストによるレートリケー(レトリック、修辞学)的な方法の方が優れているかもしれません。

 しかし西洋哲学の正当ではなく、亜流、あるいは傍流扱いされてきたと思われます。

 中世神学では実在論に対して唯名論は異端的に扱われました。

 それを引き継ぐのが大陸合理論とイギリス経験論です。

 どちらかと言うと唯名論やイギリス経験論は劣勢に見えますがこれらはリアリティが造られるとする考え方と見ることができます。

 哲学のブレイクスルーは哲学内部ではなく他の学問領域の影響を受けています。

 フッサールという数学基礎論の学者が哲学に転向し現象学という方法を造りました。

哲学は現前を出発点として扱うべきだいうものです。

現前とは言い換えればリアリティです。

フッサールの弟子のハイデガーは現前が意識化されるのは意味や道具連関、物連関があるためと考えました。

リアリティを造るためには意味が必要と考えたわけです。

ニーチェと言う学者はリアリティを造るのは存在して欲しいという感情、力(権力)の意志、ルサンチマンなど生の持つ欲望や衝動と考えました。

ジュリアス・シーザーは「人間は自分の信じたいことを信じている」あるいは「自分は自分の信じたいものしか信じない」と言いましたがそれと同じような考え方です。

言語学のソシュールは言語で表されるものに対する言語の優位性を主張し「差異の体系」と言う考え方を導入しました。

つまりリアリティの一要素は言語化、あるいは象徴化であり、また差異が大切だと言っています。

数学では論理主義、形式主義、公理主義などの考え方が確立しました。

これは形式があればリアリティは必要ないという考え方ではありません。

これは人間の立場から見れば形式にリアリティを感じることができれば数学は已然として創造的な学問として学問として成り立つことを言っています。

精神科医で精神分析家のラカンはリアリティの生成は他の何かのリアリティを取り込むことと考えました。

複数のリアリティを構成要素として新たなリアリティを造れるわけです。

ここで関わるのはエス(イド、リビドー)と言われるものと無意識と想像力です。

リアリティを造るという観点では哲学者より芸術家や文学者などの創作者、あるいはメディア関係者の方が具体的な方法に詳しいかもしれません。

そこではリアリティを与える、出すことは手法、技術です。

彼らが作り出したものに鑑賞者や受け手がリアリティを感じる様にします。

学校などで習う場合もあればその時その時の創意工夫による場合もあるでしょう。

完全にオリジナルと同じリアリティを持たせれば贋作やフェイクと呼ばれる場合もあります。

存在しないニュースやニュースの解釈の仕方を意味を受け手に作為的な方向に導こうとすれば捏造、改竄やフェイクニュースと呼ばれます。

多くの人はリアルだけで作られた現実が存在すると考えます。

 一方リアリティだけで我々の環境や現実と錯覚されるものは成り立っているという見方をリアルだけで作られた現実と対照させてシミュレーション、シミュラークルと言います。


おわりに

 生物学的にいうとリアリティの感覚は我々がリアルを感じ利用するために進化した脳の性質なのかもしれません。

 つまり五感とな辞様に感覚のモダリティの一種なのかもしれません。

 仏教では五感ではなくそこに「意」と言うのを加えて感覚のモダリティを六感としています。

 仏教では六感の他に2種類の末那識、阿頼耶識という潜在意識、無意識が存在するとする瑜伽行唯識派という思想があります。

 仏教の空の概念を深めるためには学習や思考だけでは難しい面があり、内省の修行が行われます。

 哲学におけるリアリティの重視、あるいはリアルに対するリアリティの優位も西洋科学における心理主義の流行と関係あるのでしょう。

 西洋哲学における「実」という言葉の使用は実でないものを念頭に置いており、実でないものに対する実の優位が無意識のヒエラルキーとして存在していたのでしょう。

 リアルもリアリティも実を前提に考えられた概念です。

 実ではない、非実ともいうべきものを端的に表現する言葉としてすっきりと認知されているものがないことでも非実の難しさは分かるでしょう。

 日本は初等教育は一流だが高等教育は全然ダメと昔言われました。

 いろいろな意味がありますが、例えば私立の進学校なら高校2年で社会科や倫理に関わらず全教科教育課程を修了しますが公立の学校では学校卒業時点で各教科最後まで終わらないか最後の部分を適当にします。

 哲学の場合は最後だけが重要なので(逆に仏教の場合は最初が重要)、高校倫理は公立学校では趣味の世界か、学生に道を誤らせる可能性があるのでやらない方がましかもしれません。

 更に悪いのは大学の教養課程や下手すると専門課程も日本で高等教育を受けている以上リベラルアーツ力が不足している教員が多いと見られるため各学問の基礎が良く分かっていない人が教えている可能性があり、悪臭が伝播、伝染していきます。

 日本は昔は人材の他には資源がない国と言われました。

 逆に人間は日本が優れていると考えて精神主義が流行った時もあります。

 日本の地盤低下は人材、人的資源の低減による毒が回った状態、あるいは他国の進歩が速いため日本の優位性が低下したかあるいは逆転された状態と見ることができるかもしれません。

 多分知らない人ならばリアルとリアリティの関係を理解するだけで軽く悟ることができるはずですので実学のみならず基礎科学(昔のではなく現代の哲学や現代数学)を勉強していくことが大切なのでしょう。(字数:7,535字)


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