究極にやさしい仏教の「空」の解説

はじめに

 「空」は大乗仏教の神髄です。

 大乗仏教の神髄であるとともに原始仏教への回帰でもあります。

 お釈迦様は因縁や縁起をお説きになりました。

 これは実体(entity)や実在(real)を無視、ないしは否定するための説明体系です。

 ちなみに世の中の理論なるものはたいていは説明体系です。

 お釈迦様の死後部派仏教というのが出てきて実体や実在を部分的に肯定する理論が優勢になりました。

 因縁や縁起が優れていたのはその気になれば実態や実在論を完全否定できる理論だからです。

 お釈迦様自体は中道を説きましたので実在論や実態を否定しているわけでもありません。

 どっちの見方もできるようにせよ、といったのですがその後の仏教宗派や学派は実在論と非実在論をまぜこぜにしてしまいました。

 そこで原点に戻ったのが「空」を発明したナーガールジュナです。

 空を理解できればお釈迦様を理解できます。

さらには西洋の科学や哲学の基盤になっている構造主義や形式主義を理解できるでしょう。

 「空」の分かりやすい解説を行います。


第1章 空とは

 仏教で同じような意味を表す因縁や縁起、無常や無我などはかろうじて日常語として使われます。

 しかし空は仏教の意味では日常語としては全く使われません。

 日常語とは言えないかもしれませんが「色即是空 空即是色」くらいでしょうか。

 この言葉も意味が分かるとは言えないでしょう。

 空は無や虚の意味と混乱することも多いようです。

 無や虚を使わずなぜ空という言葉を使うかというと空は入れ物の中身に対する表現だからです。

 入れ物と言ってもいいですし殻、皮、外殻、外縁、包み、外包、その他なんといってもいいですが、中身が想定される言葉や概念があります。

この時中身があれば実、なければ空です。

 実と言っても中身が外見と関係がないものが入っていれば実とは言いません。

 リアリティに一致したリアルなものが入っているというのが我々の基本的なスタンスです。

 実在の反対は実際も現実にも存在していないのにリアリティをもって存在するように感じられる虚構、実体は事実や実物と呼ばれますが、実際にも現実にも存在していないのに存在している様に感じられる事物です。

 外殻だけで作られて、リアリティがあり、実体があるように思わせるが実は実体はなく外殻だけでできているもの、そして外殻は一様ではなく多様な要素で成り立っているものを適切で簡潔に言い表さなければいけません。

 お釈迦様の仏教ではそれを因縁と縁起(因縁生起)と言い表しました。

 因と縁はともに「よる」と言う意味で、依存する、寄り集まる、よりかかる、よって、より、よればなど様々な言葉に使われます。

 事物は因縁である、つまりよって成り立つものであるという風に使えます。

 因縁生起は色々なものがより集まることでリアリティができることを現せます。

 縁という言葉は外縁を表すので縁が集まって外殻をなします。

 因縁はまた全ては「因」と「縁」でしかなりたっておらず、それ以外に実体というものはないことも表現します。

 さらには世界全体が実体なき因縁という名の事物で形成されており、全ての事物は因縁であり、他の因縁によって、生起するやはり因縁でしかなく実体は必要ないことも表します。

 因縁の考え方では個物は単独では存在しません。

 全ての因縁=事物は全体として始ま殻存在する全体性があり、実体のように他になにもなくてもそれ自体で存在することはありません。

 因縁の持つ外縁の表層は仏教の言葉では名色や六処(6つの感覚)からなります。

 我々が見て感じられるのは内因としての記憶や感情、意欲などの精神要素です。

 精神の内と外からの色々な要素によって因縁が成り立ちます。

 ここには実体と言う実在はありません。

 しかし実体があると感じさせるリアリティがあります。

 実体のリアリティがあることは論理的には実体があることを意味しないのですがそこから実体の存在を導いてくるのが人間の性質です。

 殻としての外縁は感じられるが、中には実体が入っていないボールのような中身が空のイメージを空と言います。

シミュレーション、シミュラークルと言って悪い意味では紛い物と訳されますが、別にだますつもりがあるわけではなく、我々が勝手に勘違いしているだけです。

 リアリティ=リアルの存在の保障、これが間違いの元です。

 しかしリアリティはなくてはならないものですし、そのリアリティに対する実体の感覚もなくてはならないものです。

 多分これは睡眠や排せつのように人間に必要な能力ですので発達の過程で自然に、あるいは教育を通じてリアリティや実体について学びます。

 仏教や現代哲学や数学を勉強しなければ学ぶことはありません。

 多分人間の、特に知性に必須ではないのでしょう。


第2章 空の具体的な例:人間の作られ方

 実体がなくても物事が成り立ちえる例として人間について考えてみましょう。

 自分の作られ方、自己同一性の成り立ち、肉体的な部分については人体錬成とも言えるでしょうか。

 自分の作り方が分かればいいのですが、自分の因縁、自分のよって立つもの全てが分かっているわけではないので、作り方でなく作られ方の分析で具体的で直感的に理解できるものから自分の成り立ちを解き明かしていきましょう。

 

 まず分かりやすい所は名前です。

 そして容姿です。

大人の場合はある程度自己同一性が確立しています。

ですから名前や容姿が変わっても「自分は自分だ」という意識は保たれます。

 特に普通の成長に伴う容姿の変化は緩徐なので変化自体に気が付きません。

 しかし容姿は大きく変わると自己意識に影響を与えます。

メイクや整形などで顔が変わると自分に対する考え方や感情、周囲の反応などが変化します。

大事故による大怪我や耳鼻咽喉科領域の悪性腫瘍などでは顔面が大きく欠損することがあり、これは感情や実存意識などの自己同一性の混乱につながります。

自分の顔は自分では見えないので鏡を使って見ます。

鏡に映った自分の顔を自分だと認識して記憶する発達段階を鏡像段階と言い乳児期か幼児期になされる自己同一性形成の1つです。

 自分の身体も自己同一性を形成している要素です。

 仏教では人間は五蘊から成り立ち、五蘊は色受想行識に分けます。

 色が人間を形成している物質的部分、受は感覚、想は表象、行は意志、識は認識などを指すと言われます。

 容姿と一緒で身体も自分を形成している要素です。

 自分の容姿や身体は当たり前過ぎて自己同一性形成の要素とは感じにくい場合もあるでしょう。

 疾病による欠損や演技、創作作品の中でのイメージの移入、身体の延長としての装飾品や服装、そして赤ちゃんの手や脚の発見を取り込んでいきます。

 記憶はそもそも記銘するたび、想起するたびに変化していくものですが同一性によって同じものとして同一化されます。

 そして自分の体と思っているものを自分の意志通りに動かせるという感覚が身体を自己に同一化するのに働きます。

 また何か運動を行ったときにおこることを感覚することも同様です。

 予想通りにいってもいかなくてもそれが体験の形で学習になっていきます。

 自分である程度操れるように感じる因子として記憶が重要です。

 思い出せるという自信と確認できることが自分を形作ります。

 自分の経験として様々なものを取り込みますが思い出せることとその自信が自分をまとめています。

 その他人間は色々なものを取り込み自他の区別をしていきます。

 性別、年齢、国籍、言語、住所、出生、出身地、学歴、職歴、病歴、特技、資格、趣味、親族や友達関係などを取り込み自分のよりどころにします。

 逆に何が自分でないかも区別します。

 こういった様々なものに覆われて人は自己意識を持ちます。

 同時にこれらによって他人から自分の認証してもらいます。

 ここには実体と言う要素が入る余地は特にありません。

 実体がなくても成立します。

 身体も記憶もプロフィールもそれ自体が実体ではないかという反論があるかもしれません。

 しかし身体にせよ記憶にせよプロフィールの項目にせよ実体である必要はやはりありません。

 全ては実体ではない何かに依存して成り立ちえるし、依存する何かもやはり実体では何かに依存して成り立ち得ます。

 例えば性別であれば、生殖器のあるなしなど生物学的な特徴の違い、心理社会的なジェンダー的特徴による違いなどから性差が形成されます。

 古典的なせい概念に当てはまらないLGBTあるいはLGBTTQQIAAPあるいはLGBTTQQIAAP+(+はその他)と多様な性概念が提唱されており、性別を男女だけに分けることに批判する意見が年々市民権を得てきているようです。

 何かに依存して成り立っている部分を注目すると因縁と言う言葉が使われ、実体がない(必要ない)というということに注目すると空性、または空という言葉が使われます。


第3章 空と創造と構築

 因縁、縁起、無常、無我、空、これらの言葉は仏教が同じことを別の側面から言い表そうとしたことを物語っています。

 数学では直感的、自明、明らかという言葉が使われます。

 直感は過去の記憶や経験から直接類推できることを表しますが、空を理解するためには何段階かの経験や直感を組み立てていかなければいけません。

 基礎的な学問にはありがちですが大学の数学科で位相論からユークリッド空間を理解していくようなものです。

 そこに行き着くまでには一個一個直感的に理解していかなければなりませんが、一個一個の直感は教養までの数学を勉強していればアナロジーの材料は見つかります。

 そして位相からユークリッド空間を構築すれば数学とは創造する学問であることが分かるでしょう。

 空も同じです。

 理解するためには何段階かの直感が必要かもしれませんが、理解してしまえば空を創造できる要因なります。

 何かの空を成り立たせる因縁を理解するだけではなく、因縁を生起することで空を造ることができる様になります。

 仏教は理解してしまえば実践応用は分析だけでなく、構築や創造ができる様になります。

 空理空論と言いますが悪い意味ではなくて空理空論を使いこなせます。

 現代の科学や学問は空論と同じ思想である構造主義からできていますのでいかに無矛盾な空理空論を作るかを行っているわけです。


おわりに

 空であるのにリアリティがあって実体のように見えるのが空のポイントです。

 無とか虚とかと間違えられてクリスチャンの人を怒らせてしまったことがありました。

 現代哲学について聞かれた時にイエスとかノーとか答えて、難しいので簡単には理解できないと答えただけだったのですが何か空気が読めなかったのかもしれません。

 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの唯一神教では神だけは実ではなければならないはずですので、空論とは相性が悪いかもしれません。

 ただ仏教全体からみれば中道や中観論、中論という空論より上位の思想があって実在論を否定しません。

 天台智顗はそこのところを上手くまとめて、仏教の体系は仮論(戯論)、空論、中論であるという三諦論を唱えました。

 実体があるとする仮論(戯論)も空論もどちらが正しいということはなく相対的に見なさいというのが中論です。

 そういう意味では仏教の究極の理論は中なのですが、空がないと実を相対化できないので、空が仏教理解の鍵であり、創造性を発揮することで仏教を現実応用するのに不可欠です。(字数:4700字)

現代哲学を広める会という活動をしています。 現代数学を広める会という活動をしています。 仏教を広める会という活動をしています。 ご拝読ありがとうございます。