失われた憧れの大学生活
大学を卒業してはや2年弱が経った。以前は鮮明に覚えていた大学時代の記憶ももう少しづつ薄れてきている。私立文系だったわたしは、他の多くの大学生と同じく4年間大学に通った。色んな事があり、色んな講義を受けた。
だが、大学生活で心から満足できた日は無かった。入学前に想像していた大学の風景は1日たりとも訪れることはなかったのだ。わたしには大学生活の理想があった。それは浪人時代に読んだ本の中で形成されたモノだ。その本というのが作家の佐藤優の『同志社大学神学部』という本だ。
浪人時代に佐藤氏の著作にハマって、色々と買い集めていたのだ。キャッチーなタイトルのこの本もその1つだ。確か、予備校が休みの日にジュンク堂書店難波店で購入した。
本の内容は、著者である佐藤氏の同志社大学時代の回顧録である。佐藤氏は同志社大学で「神学」について学び、研究したのである。内容の説明は割愛するが、佐藤氏は同志社大学での神学の学びを通して、様々なことを学び、考える。その様子が周りの人との関わりと共に鮮明に描かれている。
本の中では、佐藤氏が真剣に神学や哲学に取り組む様子が多く出てくる。多くの本や専門書を読み、図書館に頻繁に出入りしている。また、神学や哲学に関する議論を友人や教授たちと熱く交わす。そのような極めてアカデミックな態度が随所に窺える。
また、本の中には1980年前後社会の様子や京都での生活が多く描写されている。それらの描写にもとても惹かれた。スマホや携帯ゲームも何もない時代はこのような感じだったのかといつも思う。そして中でもわたしが特に好きな部分がある。それは佐藤氏が親友の大山君と酒を飲みながら神学や今後の進退について居酒屋で語り合うシーンである。
この部分がとても好きで、今まで何度読み返したか分からない。このとても並みの大学生とは思えない大人びた酒の飲み方に妙にそそられるのである。わたしはお酒がほとんど飲めないが、それでもこれらの描写の臨場感にはとても惹かれる。そして、さらりと触れられている京都の「一見さんお断り」文化も興味深い。噂でしか聞いたことが無かったが、本当に「紹介が無いといけない文化」があるのかと強く思った。
浪人時代にこの本を読んだわたしはこの本に描かれる姿こそが「大学」や大学生」としての在り方なのだと強く思った。そして、「わたしも大学生になったら専門分野でも何でも勉強して、友人たちと熱い議論を交わそう」とそう思っていた。
しかし、いざわたしが大学に入学してみるとそこには薄っぺらい大学生と就職予備校と化した大学しかなかった。誰も学問のことなど考えていなかった。本を読む友人など皆無に近かった。むしろ学問や勉強の話をする方が「異常」というような空気があった。誰もがアルバイトやサークル、旅行、恋人のことだけを考えていて、講義中はつまらなさそうにスマホを撫でていた。
食事や居酒屋へ行くと、ただ単に酒を飲んでどんちゃん騒ぎをするだけだった。安い店に行ってどうでもよい話ばかりを聞いた。ただ騒いで表面的に楽しいというだけだ。「哲学を語ろう」「熱い議論をしよう」という人はいなかった。進退や将来について語り合うこともなかった。
わたしは愕然とした。大学とは同志社大学神学部の本に描かれていたようなセカイだと思っていたからだ。誰もが熱く将来を語るものだと思っていた。だが、そんな人はいなかった。なんとなく楽しく過ごして、時期が来たら機械的に就活をする、そんな人ばかりだった。理想の大学生活はそこには無かった。1980年代とはあまりにも時代が違い過ぎるのだろうか。
社会学部に入ったが、「社会学」ついて語る人はわたしの周りにはいなかった。いや、大学全体がそんな感じだった。社会学でなくとも、世の中のことやすぐに答えの出ないようなことも話してみたかった。だが、誰もそんなことを考えていやしなかった。アカデミックな雰囲気の欠片もなかった。誰もがスマホを眺めて、いい就職をすることだけを漫然と考えていた。
わたしの期待のし過ぎだったのかもしれないが、大学は今はもはや単なる「就職予備校」や「仲よし会」の様相を呈している。ほとんどの人が勉強や学問のことなど考えていない。かつての学生運動や『同志社大学神学部』に描かれた、アカデミックで紳士的で情熱的な「大学」はもはや存在しない。最高学府としての大学は、もはや熱い空間ではなくなってしまったことが誠に遺憾である。
あの頃は・・・
頂けたサポートは書籍代にさせていただきます( ^^)