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失われた憧れの大学生活

大学を卒業してはや2年弱が経った。以前は鮮明に覚えていた大学時代の記憶ももう少しづつ薄れてきている。私立文系だったわたしは、他の多くの大学生と同じく4年間大学に通った。色んな事があり、色んな講義を受けた。

だが、大学生活で心から満足できた日は無かった。入学前に想像していた大学の風景は1日たりとも訪れることはなかったのだ。わたしには大学生活の理想があった。それは浪人時代に読んだ本の中で形成されたモノだ。その本というのが作家の佐藤優の『同志社大学神学部』という本だ。

浪人時代に佐藤氏の著作にハマって、色々と買い集めていたのだ。キャッチーなタイトルのこの本もその1つだ。確か、予備校が休みの日にジュンク堂書店難波店で購入した。

本の内容は、著者である佐藤氏の同志社大学時代の回顧録である。佐藤氏は同志社大学で「神学」について学び、研究したのである。内容の説明は割愛するが、佐藤氏は同志社大学での神学の学びを通して、様々なことを学び、考える。その様子が周りの人との関わりと共に鮮明に描かれている。

本の中では、佐藤氏が真剣に神学や哲学に取り組む様子が多く出てくる。多くの本や専門書を読み、図書館に頻繁に出入りしている。また、神学や哲学に関する議論を友人や教授たちと熱く交わす。そのような極めてアカデミックな態度が随所に窺える。

また、本の中には1980年前後社会の様子や京都での生活が多く描写されている。それらの描写にもとても惹かれた。スマホや携帯ゲームも何もない時代はこのような感じだったのかといつも思う。そして中でもわたしが特に好きな部分がある。それは佐藤氏が親友の大山君と酒を飲みながら神学や今後の進退について居酒屋で語り合うシーンである。

午後9時少し前にわたしはキエフ酒房に行った。ブランデー風味の「スタルカ(オールド・ウオトカ)」のボトルを1本とった。冷凍庫で冷やしてあるので、とろみのついたウオトカがショットグラスに注がれる。つまみにはロシア風のキュウリとキャベツの漬け物とペリメニ(シベリア餃子)を頼んだ。30分くらいで、ボトルを半分くらい飲んで、だいぶいい気持になってきた。ちょうどその頃に大山君がやってきた。(P180)

ロシア風漬け物とペリメニをつまみにしながらふたりであっという間に「スタルカ」を1本飲みほしてしまった。ただしウオトカのボトルは500㎖入りなのでウイスキーと比べれば3分の2だ。それにウイスキーは43度だけれどもウオトカはそれより3度低い40度だ。もっともウイスキーを2~3時間で、ふたりで1本飲むと相当酔いが回る。これに対してウオトカは1時間で2本飲んでも平気だ。 冷凍庫で冷やしておくとウオトカにはとろみがついて、味もマイルドになることと関係しているのだろうと思う。わたしが大山君とキエフ酒房でウオトカを飲むときは、1本目がスタルカ、2本目と3本目がスタリチナヤである。スタルカはブランデー風味で口当たりがよい。しかし、続けて飲んでいると飽きてくる。これに対してスタリチナヤは、小麦から造った無色透明のウオトカだ。温度が上がると消毒用アルコールのようなつんとした匂いが鼻につく。ただし、いくら飲んでも飽きない。10円玉の上にスタリチナヤを数滴落として、マッチで火をつけたことがある。火がつき、青白い炎が揺れた。この液体を1リットル近くも胃袋に流し込んでいるのかと思うと少し恐ろしくなったが、同時に元気の源のような気もする。 英語でウオトカ類をスピリットというが、これは精神とか霊という意味だ。ウオトカを飲むと気合が入るのは、そこに霊の力があるからだと思う。(P191)

大山君が「マスター、スタリチナヤをもう1本お願いします」と言った。中西眞一郎マスターが、「大山君、佐藤君これくらいにしておいたほうがいいよ」と言って4本目は出してくれなかった。ふたりとも相当酔っ払ってしまったようだ。わたしが不満そうな顔ををすると「それじゃ、最後の一杯だけ。店のボトルから奢るよ」と言って、マスターが、冷凍庫から凍りついたスタリチナヤの瓶を取りだして、わたしたちのショットグラスに、とろけるようになったウオトカをなみなみと注いでくれた。ウオトカは冷やすと味が甘く、まろやかになる。ふたりでウオトカを一気に飲みほした。 時計を見ると、午前1時を過ぎている。「キエフ」はもう閉店時間だ。ウオトカばかり飲んで、ほとんど食べていない。「大山、腹がへらないか」「少しへった」「僕はすごくへっている。『楽』に行かないか」「いいよ」「楽」とは、先斗町にあるカウンター式の焼き肉屋だ。朝5時まで開いている。もっともマスターも酒好きなので、酔いが回ると店の鍵を閉めて、店内で寝ていることがある。「キエフ」の中西マスターに紹介されて、わたしたちは「楽」に出入りするようになった。 「キエフ」は高級店だが、「楽」や「リラ亭」はそれほど高い店ではない。「リラ亭」ならば、ブラック・オーシャンの水割りが1杯400円、「楽」ではサッポロビールの中瓶が1本400円だ。学生でも出入りすることができる。しかし、一見でふらっとこういった店に入ることは、何となく気が引ける。観光客を相手にした居酒屋以外、京都のバーや小料理店は、誰かの紹介がないと、入りにくい雰囲気になっている、また。京都の人は、馴染みの店をむやみやたらに紹介しない。紹介した相手が、店に迷惑をかけるようなことをした場合、紹介者が道義的責任を負わなくてはならないからだ。こういう紹介システムが、京都の酒文化を支えている。わたしの学生時代のは、京都の「一見さんお断り」という文化が高級料亭だけでなく、ショットバーや焼き肉屋にいたるまで生きていた。 「楽」では、焼き肉とソーセージをつまみにひたすらビールを飲んだ。ウオトカで酔いが回っているので、ビールが水のように身体の中に入っていく。わけがわからなくなるほど飲んだ。途中で大山君がカウンターに伏せて寝てしまった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

この部分がとても好きで、今まで何度読み返したか分からない。このとても並みの大学生とは思えない大人びた酒の飲み方に妙にそそられるのである。わたしはお酒がほとんど飲めないが、それでもこれらの描写の臨場感にはとても惹かれる。そして、さらりと触れられている京都の「一見さんお断り」文化も興味深い。噂でしか聞いたことが無かったが、本当に「紹介が無いといけない文化」があるのかと強く思った。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

浪人時代にこの本を読んだわたしはこの本に描かれる姿こそが「大学」や大学生」としての在り方なのだと強く思った。そして、「わたしも大学生になったら専門分野でも何でも勉強して、友人たちと熱い議論を交わそう」とそう思っていた。

しかし、いざわたしが大学に入学してみるとそこには薄っぺらい大学生と就職予備校と化した大学しかなかった。誰も学問のことなど考えていなかった。本を読む友人など皆無に近かった。むしろ学問や勉強の話をする方が「異常」というような空気があった。誰もがアルバイトやサークル、旅行、恋人のことだけを考えていて、講義中はつまらなさそうにスマホを撫でていた。

食事や居酒屋へ行くと、ただ単に酒を飲んでどんちゃん騒ぎをするだけだった。安い店に行ってどうでもよい話ばかりを聞いた。ただ騒いで表面的に楽しいというだけだ。「哲学を語ろう」「熱い議論をしよう」という人はいなかった。進退や将来について語り合うこともなかった。

わたしは愕然とした。大学とは同志社大学神学部の本に描かれていたようなセカイだと思っていたからだ。誰もが熱く将来を語るものだと思っていた。だが、そんな人はいなかった。なんとなく楽しく過ごして、時期が来たら機械的に就活をする、そんな人ばかりだった。理想の大学生活はそこには無かった。1980年代とはあまりにも時代が違い過ぎるのだろうか。

社会学部に入ったが、「社会学」ついて語る人はわたしの周りにはいなかった。いや、大学全体がそんな感じだった。社会学でなくとも、世の中のことやすぐに答えの出ないようなことも話してみたかった。だが、誰もそんなことを考えていやしなかった。アカデミックな雰囲気の欠片もなかった。誰もがスマホを眺めて、いい就職をすることだけを漫然と考えていた。

わたしの期待のし過ぎだったのかもしれないが、大学は今はもはや単なる「就職予備校」「仲よし会」の様相を呈している。ほとんどの人が勉強や学問のことなど考えていない。かつての学生運動や『同志社大学神学部』に描かれた、アカデミックで紳士的で情熱的な「大学」はもはや存在しない。最高学府としての大学は、もはや熱い空間ではなくなってしまったことが誠に遺憾である。


あの頃は・・・





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