この家はすべての窓が東を向いている
この家はすべての窓が東を向いているので、朝方から昼にかけて部屋に直接光が差し込んでくる。
目の前にある高い建物に遮られる時間も長いので、その合間を縫って部屋のどこかに光がたまっているのを見かけるとついそこをずっと眺めたり、指で確かめたり、影をつくってみたりする。
太陽が出ている時間は長いのに、隙間からさしこむ光はじりじりと移動して、すぐに角度を変えてしまう。
カメラを用意している間にいちばん美しかった光の強さとか、影のかたちとか、粒子の解けかたとか、輪郭の浮き出方とかが変わってしまうので、いつもいちばんのものは撮れない。
だから焦ったり、逆にもう写真は撮れないやと諦めたり、手をむにゃむにゃ広げたりすぼめたりして誤魔化してみたりしたこともあったけど、
でもそういうことはもうそれでいい、写真てそういうものなんだと思う、少なくとも私にとっては、その数秒前のあの姿を反芻するための、数秒前に沸き起こった、この世の中にはなんといううつくしいものがあるんだろ、でもそれは留められずに流れていってしまう、私も、こんなに惹きつけられた一瞬のこともやっぱり忘れてしまう、また次に何かに出会った時にまた初めてうつくしいということに出会ったように胸がざわめき時間が止まるようなその一瞬のために忘れる、なにもかも留めおけないことを惜しみながらそうでないときっと生きていけないということを、これもまた何度でも思い出すために忘れる、そういうものなのかもしれない。
こんなふうに、壜たちが光のなかにたたずんで影が淡く落ちているのは、なんのためでもない。
私も写真を撮るなんて無粋なことをせずに、なんのためでもなくそれをただ眺めていたい。
なんのためでもなくても、こんなに胸のなかがゆれて、波立って、泡立って、からだを押し広げるみたいに膨らんだり、きゅうと縮められたり、ときどき息が苦しくなってしゅっと、ときにはあたたかく吐き出したり、自分の息の音と部屋の空気が流れる音が繋がったり、そしてまたさあと太陽と影が強くなってわたしの瞳の焦点がぎゅっと集まってくる、
なんのためでもなくても、そんなことにいつも、わたしみたいなものは、どよめき続けている。
木に葉っぱがたくさんついていることとか、あんまり空が赤かったり、風が木を渡り歩いて私のところに到着するまでの音、空を見ていてもそこに落ちていかないこととか、私が壜をみつめていて壜もわたしの近くにいるのになんにも言わないこととか、わたしのからだは私がそれを感じているものよりずいぶんと小さいこと、遅いこと、その壜の内側についている水滴の温度のこと、それを触れていないのに触れにいっている私のからだと、私が見ているこの映像との距離、お尻が触れているクッションのざらざらとその奥のきしきしした柔らかさと両方の坐骨が水平じゃないこと、服に触れている皮膚や産毛、それをあたためる太陽のひかり、はるか高いところをゆく飛行機の音、それが触れる雲のはやさと水滴の温度、わたしの呼吸に含まれる水のこと、目玉を包む水のこと、棚のうえの温度、
そういう、追いかけてゆくときりがないひとつひとつのことと、どんどん繋がっていくすべてのことから、自分をぐいっと切り離して、ものごとを順序だてて計画して、普通の生活を営むことが、どうやったらこの同じわたしのなかでできるのか、わからなくなることがある。
ときどき、
ちっともわからなくなる。
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