見出し画像

今村翔吾に惹かれて

『塞王の盾』という本を買った。560ページもある長編の歴史小説で、第166回直木賞の受賞作品だ。読み始めばっかりで感想などは書けない。

こう言うと少々失礼かもしれないが、特にこの本自体に興味があって購入したわけではない。また、表紙やタイトルに惹かれたということも実は無い。そもそも普段から歴史小説を読まない。今は少しづつ読み進めてるので、楽しく読み進めているが、元々欲しくてたまらなかった本というわけではない。

ではなぜ、2200円も出してこの本を買ったのかと言えば、それは著者である今村翔吾に惹かれたからである。人に惹かれて本を買うというのは自分の中では珍しい。いや、初体験かもしれない。大抵の場合は本のタイトルやストーリーで判断して購入に至る。いつも著者になんてまったく興味がない。

今村氏は「いつか絶対小説家になる」と若いころから周りに公言していた。だが、実際に、小説を書くことはなく30歳になってもずっと家業であるダンスインストラクターをしていた。ある時、彼は教え子に「夢を諦めるなよ」と言ったが、逆に「翔吾くんも夢を諦めているくせに」と言われたそう。それがきっかけでダンスインストラクターを辞め、小説を鬼のように書いて直木賞を受賞するまでの人気作家となったのだ。

「30歳になってからでも夢は叶うと俺の人生で証明する」と言って、それを実現させたからこそ、動画のように直木賞の受賞時に泣いたのである。まさに感動の瞬間だ。やはり子供に何気なく言われる言葉には重みがある。

また総合誌文藝春秋2022年6月号の記事では自身の池波正太郎への憧れを絡めて以下のように言っている。

 とにかく「作家ってかっこいい」「なってみたい」と子供が憧れを持てる職業であってほしい。小学生の僕にとっての池波先生は、野球少年にとってのイチローですよ。直木賞はとても欲しかったけれど、それは単なる作家としての憧れというよりも、池波先生の通った道を自分も歩きたいという思いでした。
    数日前、SNSで八歳の男の子が僕の本を読んでくれている姿を見たんです。習い事に行くまでずっと読んでいて、帰るなりまたすぐ、それから寝る前にも没頭して。その姿を見たときに、もしかしたら僕もその子にとっての池波先生になれるのかもしれない、と思いました。                                               
 (中略) その八歳の子は、作家にはならないかもしれないけれど、僕が彼の夢や目標になれるかもしれない、なにも名前を残したいわけでもはなくて、もしも誰かにとってそういう存在になれれば、「人」として生きた証を残せたことになるのではないかなと。生意気ですけど、そこに人生の面白みがあるんじゃないかと、最近は思い始めているんです。(P173より)

この記事を読んだとき、少しゾクッとした。こんなにも人格的にかっこいい作家がいるのかと。「誰かのために」「誰かにとって」という姿勢は、とても好感が持てる。そう思った時、ある記憶がふと蘇ってきた。大学時代の記憶だ。

個人的な話であるが、私は今の仕事に着く前に別の会社に就職するはずだった。塾や教育を手がける関西の一部地域では名の知れた企業だった。そこで最初に内定をもらって、研修などを受けていたのだが、どうも雰囲気が合わない気がしたので正規採用前に辞めた。「熱い企業」と「ブラック企業」は紙一重なのだと痛感した。

企業の体質は好きでは無かったが、そこの代表(社長)の話にはいつも説得力があった。多くの話や研修をしてもらったが、代表の言うことにはいつもうなづける。その代表が、ある研修の中で我々新入社員に次のように問うた。「自分にとっての『仕事』とは何かを紙に書いてみて」

代表はこのように多くの発問をして、我々に問いかけ、考えさせる。その度に我々は回答を熱心に考える。仕事とは何だろうか。特に、自分にとってのその意味とは何だろうか。わかっていそうでわかっていない質問だった。確かに、まだ社会人としての経験が無いと言えばそれまでだが、我々は何のために仕事をするのだろうか。

私は考え抜いて、「自己実現につながるもの」という回答を紙に書いた。仕事とはそれを通じて、自己実現を達成するものだろうとその時の自分は考えた。自己実現と言っても多くあるが、なりたい自分や思い描く生活に近づくための手段の一つが仕事だと思った。働くことで自己実現を達成する、我ながら筋の通った論理だと大学4年生の自分は思った。

代表は書かせた紙を全員分回収して、淡々と読み上げ始めた。私の「自己実現につながるもの」ももれなく読み上げられた。他にも「社会のため」「お金を稼ぐためのもの」という正直な回答もあったが、その大部分は「自分のため」「生活のため」の回答がほとんどだった。

全て読み上げた代表は優しい口調で次のように語った。「例えば、自分の家族が重い病気で、ある一流の腕を持つ医者の手術でないと治らないということになってしまったとしよう。もし、その医者が『どうして医者をやっているのか』と問われた時に『自己実現のため』『お金のため』と言ったら皆はどう思う?それでも手術をお願いする?でも本当なら『患者のため』『人助けのため』と答える医者に治して欲しいと思うでしょ?」と言った。続けて「確かに自己実現もお金もあるかもしれない。でも、やっぱり第一に考えるのは『誰かのため』という心持ちでないといけないよ」と言った。

ドヤ顔で「自己実現につながるもの」と書いた自分がとても恥ずかしく感じた。新入社員全員への話だったが、自分に語りかけられているような気がした。確かにそうだ。子供からみた塾の先生が「自己実現のためにやってる」「お金のためにやってる」と言われたらどこか寂しい気持ちになるに違いない。そして何より、子供たちは、保護者は「自分のためではない」「自分たちのためではない」と強く思うはずだ。そんな簡単なこともわかっていない自分に、大学4年生の私はハッとした。



話が少し逸れたが、結局はどんな仕事であっても「相手のため」「誰かのため」「役に立ちたい」という想いが不可欠なのだ。そういう想いに触れた時、我々は感動し、またそれらを心から迎え入れるのである。

確かに、仕事である以上結果が大事だ。作家なら面白い小説を書いて欲しいし、ラーメン屋なら頑固おやじあっても美味しいラーメンを作って欲しいと思う。作品が面白ければ作家の人格は関係ない、ラーメンが美味しければどんな店主だろうが構わない、もちろんそういう考えもあるだろう。それで納得できる人もいるはずだ。

それでも、誰もが心のどこかでは「誰かのために行動する姿勢」を期待するのではないだろうか。才能ある作家でも高飛車な人よりは人格者の方がいいし、頑固おやじの美味しいラーメンよりは客想いの愛想の良いおやじのラーメンを食べたいと思うだろう。物も食べ物もそれ自体ももちろん大切だが、好感が持てる人がそれらを生み出す方がより気持ちいいのではないだろうか。それは我々が暗に作り手や働く人、相手のことも含めて評価しているからである。

今村翔吾は飾らない。子供に夢を見せるため、子供の憧れとなるため、町の本屋を守るため、誰かを楽しませるために本を書いて、行動している。その姿に、人として、男として惹かれた。直木賞の受賞の報道を見て感動した。

たいていの作家はカッコをつけて文学について語るが、私には響かない。確かに、作品は高尚で面白いのかもしれないが、消費者の私からすれば作家であっても人格者であって欲しい。「誰かのために」という想いを強く持った人であって欲しい。そういう作家の本を購入したい。今村氏はそれらを満たす人格者だと感じた。だから本を買った。彼に惹かれて本を買った。それ以上でもそれ以下でもない。

どんな仕事をするにしても、「誰かのために」働く方が良さそうだ。それができないなら、それができる仕事に就く方が良さそうだ。


仕事とは何か?



この記事が参加している募集

頂けたサポートは書籍代にさせていただきます( ^^)