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 つまり、離れていても私たちは一緒ってこと

タイトルの全く「つまる」事が出来ていないセリフに不満を抱いていた。なぜなら、辛い時に隣に大切な人がいてくれなければ意味がないと思っていたからだ。そばにいないのだから、存在しないのと同じである。反対に、つらい時大切な人が隣にいてくれるから力が湧くという事は多分にあると思う。だが、そういう心が張り裂けるような時ほど、力になってくれる存在が近くにいない事が掃いて捨てるほどである。だからこそ、人生は辛いのであり、苦であり、クソなのだと思っている。

 2023/01/06手袋をした状態で手を合わせると、「つながっている」と思った。だが、厳密には違うはずだ。その間には手袋2枚分の布の壁が挟まっているからだ。肉体は己の身体ですら溶け合うことができない。仮に手袋を外して、手を合わせたところで右手と左手はひとつに溶け合う事はない。手のひらの肉を剥ぎ取り細胞レベルの合成を試みても細胞壁がそれを邪魔する。他人の血を輸血しても溶け合う事はできない。同じ型を持つ者ですら時に拒絶反応を示す。
 結局、手袋をした状態で手を合わせた時に感じた「つながっている」という感覚と同じように、人と人が隣にいる時に感じるあの「つながっている」ような多幸感は早合点なのではないかと思うのだ。たかが、肉体の距離が何kmから何cmに変わり、隣にいるだけで「つながっている」と感じ、湧いてくる力なんてものは嘘なんじゃないかとも思う。どんなに誰かがそばにいても虚しいという事はある。ひとりでいる時よりも増して虚しいという事もある。
 
 大袈裟ではなく、ものの考え方次第で平気で世界は変わってしまう。たとえば嫌いな人が職場や学校に居て、その一緒にいた場所から離れた後も、ひとりでその人のことを考えて腹を立てるような時、その人の心には嫌いな人が家に帰った後もずっと隣にいる。憎ければ憎い相手ほど、ずっと憎み続ける事でそいつの事を考え続ける。すると、身体面では遠くにいるはずなのに精神面において、そいつは隣にいる。これは考えようによっては、精神面であっても身体面と同等なまでに人はそばにいる事ができる証拠ではないだろうか?憎み嫌う相手がいつもそばにいるのではたまったものではないが、もし愛し希う人がいて、その人のことを思いやり、思い描き、多くの時間をその人に与える事ができれば自分がひとりではなく、その人を近くに感じる事ができるのではないかと思う。
 
 これらの言葉を尽くす事なくすべてかいつまんで、「つまった」結果、「離れていても私たちは一緒ってこと」という言葉になるのではないかと思うと、人はつまりすぎると何を言っているかわからない人間、つまり詰んでしまった人間になるのではないかと思う。

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