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ショーン・レインの死から20年 : 最後のギター・モンスターが伝えたかったこと

天に召されてから20年。もしショーン・レインの記憶が徐々に薄れてしまうとしたら、それは致し方のないことかもしれません。彼が録音したソロ・アルバムはたったの2枚だけでしたから。

レインの最高傑作である1992年の "Powers of Ten" にしても、当時の飽和したシュレッド市場に大きな波紋を広げることはありませんでした。彼は何年も地元メンフィスの小さなクラブで演奏していました。ジョニー・キャッシュ、マーシャル・タッカー・バンドのトイ・コールドウェル、ウィリー・ネルソンなどのスタジオ・セッションに参加したのもほんの一瞬。

しかし、レインの晩年となった10年間、彼とスウェーデン人ベーシストのヨナス・エルボーグは、神秘的で神話的な即興音楽の素晴らしい作品を作り上げました。彼らが織り成す魔法は、しばしばインドの名ミュージシャンを従え、アメリカよりもヨーロッパで注目を集め、今でも世界中の聴衆を魅了し続けているのです。

つまり実際は、その非業の死から20年経った今、レインはかつてないほどの人気を博し、着実に崇拝者を増やしています。その多くはシュレッドに取り憑かれたギタリストで、YouTube ビデオを食い入るように見ています。そう、常軌を逸したスピードで、正確に、息の長いサックス・ライクな超難解なフレーズを、一見何の苦もなく弾き倒す彼の演奏は、たしかにインスタントで切り抜きの YouTube 時代にぴったりなのかもしれません。

ただしすでに90年代、レインの演奏はポール・ギルバートのような新進ギタリストによってブートレッグ・カセットで解剖されていました。事実、ポールのメカニカルなリックにレインの影を感じる人は多いでしょう。

重要なのは、そうした実際のリック以上に、レインの最もテクニカルな作品でさえ、根幹はソウルと楽曲、そして膨大な知識によって支えられていること。そしてエルボーグは今、レインの新しいファンが亡きパートナーの本質を見逃しているのではないかと心配しているのです。

「ショーン・レインの教会ができつつあり、人々はナンセンスなことばかり話している。多くの神話が作られ、人々は間違ったことばかりを取り上げる。ショーンがどれだけ速く弾けるかということに焦点を当てた、指板ポルノにはうんざりだ。もちろん、彼はそうしていたし、それは素晴らしかったがね。
ショーンのテクニックはすごかったが、その根底には驚くべき魂があった。もしテクニックをすべて取り除いても、あれほど傷つきやすい人間が、彼が感情的に感じていることを楽器を通して表現していることに変わりはない。それはとても稀なことだったんだよ」

レインも94年のインタビューで、テクニックよりも大事にしているものを語っていました。

「私はギターをリックで見るのではなく、もっとメロディーで考えるようにしている。うまくいかないこともあるけれど、うまくいったときはとてもうれしい。派手なロック・ギタリストの多くはクラシック音楽の影響を受けているよね。だけど、それはパガニーニのような時代までだ。彼らはショパンやリスト、あるいはラヴェルやドビュッシーといった後進の音楽からは影響を受けていないんだよ。だから、私は後世のクラシック音楽から影響を受けることで、フレージングの幅を広げることができるんだ」

エルボーグのような鬼才が子供のような畏敬の念をもってレインについて語っていること自体、驚きです。エルボーグは、彼の亡きコラボレーターについて世界に伝え、この特異な音楽的マインドの全体像を描いてほしいという情熱に駆られています。

「レインは世界各地の音楽の大ファンで、最も無名なソースからの影響にも寛容だった。前衛的な作曲家たち、インド音楽、チャーリー・パーカー、中国の民族音楽など様々な分野に興味をもっていたよ。彼はまた、芸術や映画にも多大な関心と知識を持っていた」

ショーン・レインは、最も真に純粋な音楽表現を見つけることに生涯を費やした、驚くべき才能の持ち主でした。2003年9月26日、肺合併症のため40歳の若さでこの世を去ったとき、やっと彼は表現者としての本領を発揮しつつあるように見えました。メンフィス出身のレインは、10代の天才ギタリストとして頭角を現し、1978年、なんと若干14歳で再結成された BLACK OAK ARKANSAS に加入しました。そこから彼は南部のブギー・ボーイズと4年間ツアーを繰り返したのです。インタビューでレインは当時をこう振り返っています。

「私はもともとメタル・バンドで演奏していた。で、BLACK OAK ARKANSAS と同じ人がマネージメントしている別のグループのオープニングをやったんだ。そこで彼らがギタリストのオーディションをやっていると聞いたんだ。それで、どうにかオーディションに受かった。78年のことだった。最初にやったライヴのひとつが、REO SPEEDWAGON とテッド・ニュージェントとだった。たぶん5万人くらいが集まったと思うけど、14歳の子供にとっては本当に大きなことだった!ビル・クリントンのアーカンソー州知事就任式でも演奏したんだ」

ギタリストのジミー・ヘリングは、ロサンゼルスの MIT で聖杯のように回ってきたテープで、レインの演奏を初めて聴いたと言います。

「私はポール・ギルバートと一緒の学校にいたんだけど、彼は狂信的なショーンのファンだった。ショーンは他とは違う、ユニークで自分自身に忠実なことをやっていたからね!この男はどこの星から来たんだ?ってみんな思っていたよ」

レインは独学で音楽とギターを勉強し、インド音楽、映画、ピアノ演奏など幅広い分野の専門家となりました。レインの長年の友人であり、音楽的コラボレーターでもあるバリー・ベイズは、1988年に初めてこのギタリストに会ったとき、メンフィスの図書館で驚いたと言います。

「彼はカートを一杯にし、30冊から40冊の本を借りていった。制限冊数は5、6冊だったけど、5歳のときから彼を知っていたから、好きなものを何でも持っていかせた。彼は一度に5冊も10冊も本を読み、すべてを完璧に記憶していた。彼は並外れた頭脳の持ち主だったんだよ」

ベイズによれば、彼はレインの家でノートを埋め尽くし、二人の会話をメモしていったと言います。レインは好きなミュージシャンについて語り、しばしばマイルス・デイヴィスやフランク・ザッパを取り上げ、何百ものレコーディングを年代順にリストアップし、すべての参加ミュージシャンを記憶していました。

レインの他の友人も同じような話をしています。同じくギタリストのルーサー・ディキンソンは「ショーンはそのすべてを知っていた。彼は映画を見ながら、楽譜を歌い、マリファナを巻き、楽譜を指揮し、台詞を暗唱していた」 と証言します。まずはアートと音楽の熱狂的なファンであること。レインは過去のインタビューで自分をそう分析しています。

「尊敬するミュージシャンはたくさんいるよ。ジョー・ザヴィヌルのような人と一緒に仕事がしたい。でも、私の問題は、尊敬する人たちと一緒に演奏することに違和感を感じることなんだ。自分が演奏するよりも、ただ彼らの演奏を聴きたくなってしまう」

ディッキンソンがレインと出会ったのは16歳のときでした。彼の父でプロデューサーの故ジム・ディッキンソン氏は、レインをセッションに起用したことがあり、息子に彼から学ぶことを望んだのです。ディッキンソンは運転免許を取るとすぐに、ミシシッピの自宅からレインの家まで車を走らせました。「彼に50ドル払って、1時間か2時間演奏して、それから一日中ぶらぶらした」とディッキンソンは回想します。

「彼は私に、アート・テイタム、キャノンボール・アダレイ、ジョン・コルトレーンといったジャズの巨匠たち、クラシックの作曲家たち、作家たち、とりわけノーム・チョムスキー、映画音楽、そして偉大なパキスタン人歌手ヌスレット・ファテ・アリ・カーンなどを教えてくれた。彼から受けた教育は信じられないものだった。そしてショーンはいつもジミ・ヘンドリックスのソウルフルさについて説いていた。ショーンは、ジミの演奏が実はいかに技術的に難しいかを示す例として、"Red House" を強烈に演奏していたものだよ。
彼が最初に私に言ったのは、"難しいことがあるなら、もっと簡単な方法を見つけなさい。難しいやり方にこだわるな。自分を表現するために必要な手段は何でも使いなさい" ということだった。彼は人差し指、薬指、小指という指の組み合わせを例に挙げた。彼はその組み合わせを決して使わず、人差し指、中指、小指のストレッチを使い、ジャンゴやヘンドリックスのように第1指と中指の力を利用する力強さを好んだんだ。
ショーンは1弦につき3つの音を2、3弦のグループで同時に弾き、弦のグルーピング・パターンの創造的なバリエーションを使っていた。彼は、下降するメロディーを弾きながら弦を上昇させたり、あるいはその逆を、考えつかないようなバリエーションで演奏するのが好きだった。
彼の "音のシート" スピード・スタイルを説明するとき、ショーンはそれを、1つの思考が3つの音を誘発し、そこから6音、9音、36音、64音などを誘発するというコンセプトを持っていた。ショーンは1つの衝動に突き動かされ、ビバップ風のシンコペーションやアクセントが飛び出す音符を無限に演奏する。短いディレイと長いディレイの両方を使いながら、音の組み合わせではなくパターンを考え、音のシートを作り出し、飛び回っていた。ハイブリッド・ピッキングを使いながらね」

ディッキンソンは、1992年のソロ・デビュー作 "Powers of Ten" のレコーディング中にレインと出会いました。彼は自宅のピアノでほとんどの曲を書き、そこでアルバム全曲をカッティングし、すべての楽器を演奏したのです。レインはレーベルからの前金を使い、自宅に初期のマックなどのレコーディング機材を揃え、大きなテレビとエンターテイメント・センターを自分で購入したのです。

「彼はまずミュージシャンであり、次にギタリストだった。さらにショーンは素晴らしいピアニストであり、とんでもないドラマーだった。彼の果てしない知識の追求と探求は素晴らしかった。まるでバッハ・テイタムのようだった。彼のピアノ演奏は、ギター演奏と同じくらい独創的で、革新的で、巧みだったんだ」

94年のインタビューで、レイン自身も自らをまず作曲家だと認めています。

「私は自分のことを作曲家であり、マルチ・インストゥルメンタリストだと考えている。ギターを弾き始めて20年あまりになる。他のどの楽器よりも長いので、おそらく最も熟練しているのはギターだろう。その次がピアノで、その次がドラムだ。いろいろな楽器に影響を受けているし、お互いに影響し合っている。例えば、ヴィニー・カリウタやトリロク・グルトゥのようなドラマーを聴いて、ギターで何か演奏したいと思うかもしれない。あるいは、ジョン・マクラフリンのようなギタリストの演奏を聴いて、ドラムで何か演奏したいと思うかもしれない」

驚くことにレインはレコーディングやギグの時以外、レインはギターやベースに触れることはなかったが、ドラムとピアノは常に演奏していたと言います。

「私のギターの練習のほとんどは、ライブ・ギグで演奏することから始まった。この15年間で、様々なトップ40のバンドと、それから自分のバンドで、おそらく1,000回はライブをやったと思う。だから、家でギターの練習をすることはあまりない。家ではピアノで練習することが多いし、レコーディングのときはドラムを練習することが多い。ドラムが本当に上達するのに1ヶ月くらいかかるんだ。これまではキーボードで作曲することが多かった。でも "Power of Ten" では、ほとんどの作曲をギターでやっているんだ。ギター・オリエンテッドな曲だからね」

ただし、10代のころは常にギターを弾いていました。

「10歳から18歳くらいまでの若い頃はよく練習したよ。起きている間はいつもギターを弾いていたね。それ以来、常に新しいものを聴いて、精神的に上達しようとしているけど、肉体的なギターの練習はあまりしなくなった。そうすればもっとうまくなれるかもしれないがね。でも昔は、まだスケールとかそういう練習はあまりしていなくて、聴いたことのある人たちから影響を受けていた。14歳か15歳くらいからアート・テイタムのレコードを聴き始めて、ピアノを指で弾いたときの速い音が、早くから自分の頭の中にあって、ギターからどんな音を出したいか、どんな音を聴きたいかというモデルになっていたんだ。1978年、14歳のときにアラン・ホールズワースを見たんだ。ギターがあんな風に弾けるなんて夢にも思わなかった。もしホールズワースを見なかったら、ブルースやロックを続けていたかもしれないし、後にギターを諦めていたかもしれない。それとアート・テイタムやチャーリー・パーカーを聴いたことで、私の頭の中にこういうサウンドがインプットされたんだ。
なぜ速いものに惹かれるかというと、やはり他の人たちの音を聴いて、なんとなくエキサイティングな感じがしたからだと思う。私はただ、自分の小さな世界で楽しんで演奏していただけなんだ。私はそういうものに対して変わった見方をしていて、それが最終的にコンロン・ナンカロウにつながるんだけど、彼はピアノのために、1秒間に200音くらい出るような曲を何度も作っていて、本当にクレイジーなんだ。でも、彼はフランク・ザッパに大きな影響を与えた人で、私は長い間ザッパのレコードが大好きだった。ナンカロウには、私の頭を本当に回転させるような素晴らしい音楽があった」

さらにレインはしばしば楽器から離れ、頭の中で作曲していたとベイズは言います。

「私たちは出かけていて、彼が "アイディアが浮かんだ" と言うと、家に帰って座って、曲ができるまで18時間か20時間作業するんだ。彼の仕事ぶりはとても魅力的だった。時々、彼は突然アイデアを得て、ショッピング・モールの真ん中にあるグランドピアノの前に座り、信じられないようなアイデアを練り始めることもあった。もちろん、群衆は唖然とした表情で集まり始める」

"Powers of Ten" のツアーを終えてメンフィスに戻ったレインはバンド DDT と街中で演奏していました。彼らは主にメンフィスの地元の小さなクラブで演奏し、少ない聴衆を前にしてもパワフルなパフォーマンスを披露していたのです。「私はショーンがそのバンドで素晴らしいショウをするのを見た」とヘリングは言います。「彼はステージ上にキーボードを置き、ギターを首にかけたままキーボードに向かい、インディアン・スタイルでスキャットを歌いながら、彼のギター・フレーズそっくりの信じられないようなラインを弾いていた」

2001年のインタビューで、レインは "Powers of Ten" をいかに誇りに思っているかを語っています。

「当時は幸せで、結婚して、自宅に自分のスタジオを持っていた。その後、私の人生はより激動し、当時のように集中して作曲することが難しくなった。この数年間は即興演奏やいろいろなことに取り組んできたけど、"Powers Of Ten" のときだけは、本当に自由に音楽を作ることができたんだ。長い時間をかけて自宅で制作し、とてもいいものができた」

そして1993年、レインはエルボーグ、生涯の音楽的パートナーでありコラボレーターと出会いました。

「80年代後半、私はイングヴェイ・マルムスティーンのドラマーとキーボーディストだったアンダースとイェンス・ヨハンソンと一緒に仕事をしていた。2人が信じられないギタリストに会ったと言うんだ。コインランドリーの隣が楽器店だったので、彼らは時間をつぶすために店に入り、UK の難曲 "Presto Vivace and Reprise" を弾いていた。するとその男が一緒にジャムっていいか?と近づいてきた。そしてホールズワースの非常に難解なパートをなんなくこなした。それから彼はザッパを弾き始めた。私はこの男に会う必要があったが、それから数年かかったんだ」

レインはエルボーグのジョン・マクラフリンとの仕事を大いに尊敬していたので、ヘルボーグから電話をもらったときには相当な興奮で誤ってボイスメールのメッセージを削除してしまい、ベーシストからの再度の電話を待たなければならなくなりました。そして彼らは1993年、コフィ・ベイカーをドラムに迎えて録音した "Abstract Logic" でついに共演を果たしたのです。それからベイカーの代わりにジェフ・サイプが加わりました。ヘルボーグ、レーン、サイプの3人が一緒に演奏を始めたとき、彼らはベーシストの急進的なコンセプトである、作曲なしの純粋な即興演奏をスタート地点に決めました。

「レインは最初少し怖がっていたけど、それが私のグループであるという事実に解放感も感じていた。もし失敗しても、それは私の責任だからね。彼はフロントマンである必要も、演奏以外の責任を負う必要もなかった。彼には何をやってもいいという自由を与えたが、名人芸的な期待を満足させるための演奏をしようとはしなかった。彼にはただ音楽に集中し、自由であれと言ったんだ」

レインの才能は完全に開花しました。エルボーグ、レーン、サイプは1995年から97年にかけて4枚のアルバムをレコーディングし、多くのコンサートを行いました。すでにインドやパキスタンの伝統音楽に深い関心を持っていたレインは、エルボーグの後押しを受けて、この音楽に夢中になっていきました

「ショーンは信じられないほどインド音楽に精通し、エキスパートになった。彼はその学びを自分ひとりでやってのけた。70年代、ジョン・マクラフリンはインド音楽に魅了され、インドを旅してラヴィ・シャンカールに師事した。ショーンはメンフィスの自宅にこもってカセットを買い、貪欲に聴いてすべてを消化した。彼は本当にいろいろな音楽を聴いていたよ。アラン・ホールズワースからジョン・マクラフリン、ビリー・ギボンズまで、思いつく人なら誰でも演奏できた。みんな彼の演奏に影響を与えたが、彼は彼自身のユニークな声を持っていたんだ」

レインは2001年に、インド音楽とジェフ・ベックの親和性について語っていました。

「ジェフ・ベックのここ数枚のアルバムも本当に好きだ。"You Had It Coming" という新しいアルバムを聴いたんだけど、その中には驚異的な曲が入っているんだ。"Nadia" という曲は素晴らしい。もう何年も、私はギターをインド音楽のようにフレーズすることを試みてきた。すべてのインド音楽はボーカルに基づいている。パーカッションのパートでさえ、ボーカルのパートとして事前に学ぶんだ。(速いリズムのパーカッション・パートを歌いながら)そして、シタールやマンドリンを演奏するとき、彼らはボーカルの装飾をコピーしているんだ。彼らは演奏する前に全部歌うんだ。まず歌って頭で覚えるから、どんな楽器で演奏してもそれほど難しくはない。だから、物理的に指を動かす練習をするのではなく、物事を特定の方法で考えるために頭を鋭くすることの方が重要なのだろう。物理的な練習はそんなに必要ないはずだし、私はツアーに出ることが多いから、必要な練習はあまりしていない。
ともかく、ベックは "Nadia" でスライド・ギターを使い、それを完璧にやってのけた。スライドを使えばインド音楽に近づけると思ったし、実際そうだったんだけど......私はスライド・ギターはあまり弾いたことがなかったんだ。なぜなら、私はいつもネックに近いアクションを好んで弾いていたから、スライドを弾くとフレットにぶつかってしまうんだ。だからスライドを弾くことはなかった。でも、ベックのスライド・ギターを聴いたとき、とてもインスピレーションを受けたし、インディアン・シンガーの装飾性を見事に表現していた」

1998年、注目のインド人パーカッショニスト、V. セルヴァガネシュがサイプに代わり、ヘルボーグ/レイン・トリオの主要な3人目のミュージシャンとして参加しました。この3人は、セルヴァガネシュの兄弟であるV.ウマシャンカル、V.ウマヘシュや他のインド人ミュージシャンともしばしば共演します。レインの演奏は、インド古典音楽への没入が深まるにつれて、ますます進化し成長し続けたのです。エルボーグは言います。

「レインは真に偉大な音楽家の証である、音符ではない音符を弾いていた。重要なのは音符やテクニックではなく、音楽と感情なんだ。神の手に触れた人のことを話しているんだ。我々はそれを理解することもできないし、なぜ、どうやってと尋ねることもできない。ただその素晴らしさに感嘆するしかない。マイケル・ジョーダンがバスケットボールをするのを見るようなもので、レインは天賦の才能を持ち、それを育てることに人生を捧げた人なんだ」

レインのスピードを特別なものにしていたのは、彼のハート、魂、そして知性だったとディッキンソンは言います。

「名人芸を目の当たりにするのは感動的だった。私がショーンに最後に会ったとき、彼は私のテレキャスターを手に取り、デレク・トラックスのようにギターをスライドさせながら、中指だけで10分間の即興演奏をしたんだよ!その後、彼は笑いながら、ギターはめったに弾かないけど、あの瞬間は楽しかったと言った。そのおかげで、ギターを弾くときは毎回を大切にし、毎回全力を尽くすことを教えられた。すべての音を最後の音だと思って弾くんだ。私は決してスピード・ギターを弾こうとはしないが、その瞬間、心から演奏することを心がけている」

レインは乾癬性関節炎に苦しみ、そこからさらに衰弱していきました。体重は増え、以前から呼吸に問題があり煙や喫煙者を嫌っていたにもかかわらず、奇妙にも喫煙を始め、依存症にも苦しんでいました。それでも、そのどれもが、ミュージシャンとしての彼の進歩を妨げるものではありませんでした。

「彼と同じようなサウンドを奏でる人はこの世にいなかったし、彼はただひたすら上を目指し続けた」とヘリングは言います。「苦しむまでは、本当に深い演奏はできないと言う人もいる。ショーンはどんどん良くなっていたし、彼も苦しんでいた。彼は感情から音への純粋な導管となる稀有な能力を引き出したのだと思う。彼は不可能を可能にし、自分の内面を演奏することができた」

レインは2003年9月26日、メンフィスの病院で肺不全のため40歳で亡くなりました。「人々は勝手にショーンの病状を論じているけど、私はそれはパーソナルなことであるべきだと思っている」とエルボーグは言います。「しかし、今大事なのは、彼が音楽とギター演奏にとてつもなく貢献したことだ。彼は立派な男で、20年経った今でも彼の演奏は人々に感動を与え続けている」

最後に、今から30年前、1994年にレインが若いギタリストへ届けたメッセージを置いておきましょう。

「私が音楽を始めた頃は、今のように教則本やビデオがなかったから、原始的なレベルから飛び込んで、そこから音楽を作るしかなかった。だから、どんなレベルの人でも音楽を作り始めることが大切だと思う。あらゆる情報が手に入るようになったのはいいことだけど、プレイヤーは自分の技術を高めることに夢中になりすぎて、ただ音楽を作ることで自分らしさを見つけられなくなっていることがあると感じるね。どんな技術レベルでも有効な音楽はある。私は最も原始的な技術レベルの人が素晴らしい音楽を作っているのを聞いたことがあるんだ」

http://sin23ou.heavy.jp

参考文献:


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