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【気まぐれコラム】のほほんとのーととほんと|月刊まーる編集長@石垣島|『野生の思考』

こんにちは!
『月刊まーる』編集長の佐藤です。

この気まぐれコラム『のほほんとのーととほんと』は、「月刊まーるライターさんに書いていただいた記事と、ぼく(編集長・佐藤)の最近の読書とが繋がりあった、重なりあったシーンを取り出して、愛でる」という、"編集長"の職権濫用?自己満足?なコーナーです。

「コミュニティを超えて繋がる」というのは、『月刊まーる』のコンセプトであり、ぼくが達成すべき使命として、初代編集長の三宅一道さんから受け継いだものです。
この使命を前に抱いたのは「自分のなかの"仕事"と"趣味"の繋がりを表現できなきゃ、人と人を繋ぐなんてこと、実現できるワケがない」という思い。
そんなわけで、自分の中の仕事場(note)と趣味(本)に、ゆる〜く橋をかける試みを、気まぐれコラムとして皆さまに見守っていただくことにします。

のほほんと、noteと、本と。

野生の思考

ぼくの最近読んだ本としてご紹介したいのは、『野生の思考』(クロード・レヴィ=ストロース著)です!
この本、ずっと憧れの本だったのです。
3年ほどの憧れ期間を経て、先日、ようやく読破することができました。

表紙がカッコイイのです

大きな憧れを抱きつつ3年間も読めなかった端的な理由は、「値段が高い!」「無料/安価で得られるダイジェスト版が充実している」の2つです。
1冊の本としてはなかなか値段が高い(¥5,000以上!)割に、Youtubeやペーパーバックなど、無料/安価でこの本の要旨に触れる機会がたくさん用意されているのですよね。

それでもずっと「いつかちゃんと読むぞ」という想いが消えなかったのは、この本の中で述べられているある言葉が、ぼくの心を掴んで離さなかったからです。

その言葉が「ブリコラージュ」。

ブリコラージュ(Bricolage)は、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」こと。「器用仕事」とも訳される[1]。元来はフランス語で、「繕う」「ごまかす」を意味するフランス語の動詞 "bricoler" に由来する。

ブリコラージュは、理論設計図に基づいて物を作る「設計」とは対照的なもので、その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として何が作れるか試行錯誤しながら、最終的に新しい物を作ることである。

ブリコラージュする職人などの人物を「ブリコルール」(bricoleur)という。ブリコルールは既にある物を寄せ集めて物を作る人であり、創造性と機智が必要とされる。また雑多な物や情報などを集めて組み合わせ、その本来の用途とは違う用途のために使う物や情報を生み出す人である。端切れから日用品を作り出す世界各国の普通の人々から、情報システムを組み立てる技術者、その場にあるものをうまく使ってピンチを脱するフィクション神話の登場人物まで、ブリコルールとされる人々の幅は広い。

Wikipediaより

つまり、「すでにあるものを利用して、用が足りるものを作り出すこと」がブリコラージュであると言えそうです。

『野生の思考』の中では、ブリコラージュに関して、以下のようなことが書かれています。

この檞(かしわ)の木片は樅(もみ)の板の足りないところを補う埋め木にも使えるし、置物の台にもできる。台に使えば古材の木目や光沢を生かすことができるだろう。埋め木に使う場合、この檞の木片は「面積」になるし、台にすれば「材質」となる。

『野生の思考』より ※()内は佐藤が補記

要は、ブリコラージュの視点では、ひとつの古い木片が、穴を埋めるものにも、何かを置くための台にもなる。(いろんな可能性を持つ!)

そして、

でき上ったとき、計画は当初の意図とは不可避的にずれる

『野生の思考』より

つまり、既にそこにあるものを活用している以上、「自分がはじめに思っていた通り」にはなり得ないのです。

そんなブリコラージュにおいて

計画をそのまま達成することはけっしてないが、ブリコルール(ブリコラージュする人)はつねに自分自身のなにがしかを作品の中にのこすのである。

『野生の思考』より ※()内は佐藤が補記

「自分がはじめに思っていた通り」にはならない代わりに、そこには、作者である自分の意図を超えた、新しい意味や面白み、楽しみ方が見出される可能性がある。

そんな「ブリコラージュ的ものづくり」の考え方に僕は魅せられ、3年間ずっと『野生の思考』に恋焦がれ、この度ようやく、その憧れに手が届いたのでした。

(ブリコラージュの視点が豊かな社会を育むことができれば、「美しい自然を守る」「サステナブル」が、ぐっと現実的なものになるのだろうなぁ、なんてことをよく考えるのですが、そのお話はまた別の機会に。)

結い重ね

『月刊まーる』3月号において、まさにそのブリコラージュ的手法で書かれた詩が、洋々さんによる『結い重ね ~文章を重ね、心を結ぶ~』です。

(ぜひ、ここでいったん、『結い重ね』を読んでみてください!)

この詩を形づくる言葉たちは、『月刊まーる』2月号に掲載された記事からピックアップされたものです。

拾い上げられたのは、ライターさんたちが"ふっと落としてしまったような"(by 洋々さん)言葉たち。それらは積み重ねられ、結いあげられ。
まるで、一つの人格になろうとしているかのような。それはきっと、まさに、ブリコラージュ。
しかしそれらは最後まで、一つの確かな輪郭に収まることはありません。
少しずつ結い合わされながら、反対の端からはホロリと解けおちていく。
像にピントが合う直前で、フッと見失ってしまう。
そんな危うい期待感を、最後まで危ういままに。

みなさんは、どのような印象で、「結い重ね」を読まれたでしょうか。
ぼくと似たような感想を持ってくださる方もあれば、「ちょっとわかりにくいなぁ」と感じられる方もいらっしゃることだと思います。

「自分がはじめに思っていた通り」のなにかを「正確に伝える」ためには、ブリコラージュという手法は、少々頼りないのかもしれません。
ただし、「思っていた通り」「正確に伝える」ことだけが良いコミュニケーションなのかというと、案外そうでもないような気がします。

「意外な解釈を」「新しい意味を」「読み手と一緒に結いあげる」なんてのも、一種の素敵なコミュニケーションになりうる。と思うのです。

「正確に伝える」ことが"自分たちが生き残る"ためのコミュニケーションだとすれば、「いろんなふうに伝わる」ことは"誰かとともに生き生きとする"ためのコミュニケーションであると言えるかもしれません。

もちろん、この二つのコミュニケーションに優劣はありません。
むしろ、お互いに支え合う、両輪なのだと思います。

…そんなわけで、月刊まーるでは「正確に伝えたい」文章も、「いろんなふうに伝わるかもしれない」文章も、そんな枠に収まらない文章も、等しく大歓迎でお待ちしております!

ぼくの個人Instagramで構わないので、ぜひお気軽にご連絡ください。
【ご連絡ください!:佐藤のInstagram

「興味はあるけど、自信がない…」なんて方、ぜひぜひご相談くださいね。ぼくもそれほど文章上手ではありませんが、一緒に困ったり悩んだりすることはできます。笑

まーる

ところで、"自分たちが生き残る"&"誰かとともに生き生きとする"の図式は、現状の法定通貨と、「まーる」をはじめとした地域通貨/補助通貨にも言えるんじゃないかなぁ、と思っています。

コミュニケーションと通貨、違っているのはどこか?
法定通貨と補助通貨の関係はどうなっていくべきなのか?
そもそも通貨とは?

考えたい、語りたい、書きたいことはたくさんありますが、また別の機会に。よかったらどこかでゆんたくしましょうね。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
また気まぐれに書いた日には、拙文に目を留めていただけると嬉しいです。


▼『月刊まーる』3月号、ぜひご一読ください!


この記事を書いた人

佐藤仁
『月刊まーる』2代目編集長。
月刊まーる以外のお仕事は、グラフィックやサービスのデザインなど。
私設図書館「みちくさ文庫」運営(現在物件探しでお休み中)。
登野城地区の店舗物件(特に商店跡や倉庫など、現在未活用の物件)探してます!


▼月刊まーる運営のため、「応援まーる」をいただけると嬉しいです!

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