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感じたくないことも感じないと、何も感じられなくなるということ
痛みや寒さ冷たさは
できることなら感じたくない
なぜなら
それは不安や恐れという心理と直結するから
でもその感じたくない感覚を遮断してしまうと
人はその対極にある
やすらぎや暖かさを感じられなくなってしまう
両極を行き来することでしか
物事を本当の意味で
感受することは決してできない
そして
人生にもし意味があるとするなら
それは「経験する」ということにほかならない
もし感覚を遮断して
経
死のリスクのないところに生はない その4
足裏の皮膚が岩をとらえる。
100%のグリップは望めない。
じわじわと滑り落ちヒリヒリする。
足裏の接触面積も足趾の腹1つだけなんてこともザラにある。
手探り、足探りで、手がかり足がかりを探すが、
どこにも見当たらない。
手足のチカラが抜け、震えて剥がれ落ちそうになる。
完全に追い込まれ、トップロープがなければ完全に「死」
「もう無理だ」
諦めかけた瞬間に、
下から仲間の
「限界突破!」
つなぎ飼いの牛の蹄(ひづめ)は開かない、靴を履いた人の足趾は開かない
「絆」とは、
動物をつないでおく綱のことをいう。
なかほら牧場のスタッフにはだしの話をさせてもらう時間を頂いた。
ひとしきり話が終わった後に、
「足を見せてほしい」
と。
要望に応えたところ、驚嘆の声が上がる。
「牛と同じだ」
放牧され、自由に育った牛の蹄は開くが、つなぎ飼いの牛(日本の酪農牛の7割以上)は蹄が開かず病気になっていると言う。
驚いたことに、つながれた牛のほとんどは自由
死のリスクのないところに生はない その2
富士登山競走を裸足で完走した私は戦列なゾーン、フロー体験をしました。
その時の拙い思索ツイートの断片をまとめまたり、ブログにまとめたりしました。
そして甲野善紀先生との出会いもこの富士山でのフロー体験と『超人の秘密』の読書によってのご縁でした。
その1
https://note.com/man10000/n/nd39300be4ba3
で書いたように、私は裸足で富士登山競走を走っているとき
死のリスクのないところに生はない その1
裸足になるだけで退屈で当たり前だった日常がエクストリームになります。
ためしに、いつもの駅までの通勤通学の道を裸足で歩いてみてほしい。
「足裏を切って破傷風になって死んでしまうかも!」
「足裏が死ぬほど痛い!」
「誰か知り合いに見られたら死ぬほど恥ずかしい!」
「何この足の開放感!死ぬほど気持ちいい!」
死と隣り合わせのエクストリームを感じ、
ドキドキしている、
いつもと違う自分を
脳と皮膚、対立の時代
気がつけば
私たちは、
科学的に数値化される、
目に見えるものを頼りに生きるか、
直感的な感覚を通して、
目に見えないものを頼りに生きるか
どちらか一つを選ばないとならない、
難しい二項対立の世の中にさらされています。
反面、これまで顕在していた
イデオロギーや宗教、国家間の対立という構図は
存在しながらも
前景から消え去ってしまったかのような
そんな感じすらあります。
そんなことが影
ワークショップナチュラルハイ
ワークショップはライブとよく似ています。
オーディエンスがパフォーマーをブーストするように、
伝語り部を参加者がブーストします。
そうすると思わぬフレーズが憑き物につかれたように繰り出される。
それにオーディエンスが反応して、
その反応がさらに語り部を一段上の境地に引き揚げます。
その無限とも思えるフィードバックループの果てに、
今度は、
参加者から、
憑き物に憑かれたようなフレ
言葉は薬にもなるし呪いにもなる
どうしても、ワークショップでしゃべりすぎてしまいます。
言葉が次々とあふれ出てきて、それを止められなくなってしまうのです。
裸足になって、
サンダルを作りはじめた、
この10年で、
感じたこと、
味わったことが、
次から次へと言葉となって湧き上がってくるのです。
余すことなくすべて語り尽くす。
それは一見、良心的でさも誠実なように見えますが、
意図せず、語りかけている相手に、
noteはじめました
今さらですが。
心機一転、独立を記念して。
同時にTwitterも匿名アカウントやめました。
実は、noteのアカウントは2年前に作ったまま放置してました。
ここ数年、ずっとアクセルとブレーキを同時に踏んでるような、
吹っ切れない毎日でした。
これからは、しがらみもなくなったので、
裸足、マンサンダルが当たり前な世の中を目指し、
フルスロットルで参ります。
みなさん、こちらでもど