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一人っ子でO型、典型的なワガママ爺。埼玉県在住 66歳。小学校~高校3年生までの5人の…

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一人っ子でO型、典型的なワガママ爺。埼玉県在住 66歳。小学校~高校3年生までの5人の男の孫有り。独身の使えない息子と、ほとんど会話の無い奥さんとの3人暮らし。定年退職して年金暮らしで、推し生活を楽しんでいる。

最近の記事

番外編               還暦過ぎの爺が、ChatGPTを使ってみました。

ChatGPTとの出会いは、2023年1月のAbemaPrimeで、紗倉さんのニュースをAI生成した時と思います。 それを見て興味が湧き、すぐにβ版をインストールして試してみましたが、当時は接続が不安定で遅く、結局それっきりになってしまいました。 その後、ChatGPTは瞬く間に世間に広まり、生成AIの活用法についての議論が進みました。会社でも、機密情報漏洩のリスクから使用が基本的に禁止されましたが、現在では個々にうまく活用している人もいるようです。ただ、会社としての推奨には

    • 思い出32  私を取り巻くの家族

      私を取り巻く家族について記載します。 ◎現在同居 ・自分(1956年生まれ、O型)  年金生活+顧問契約。一人っ子の典型的な我が儘爺。 ・妻(通称プー、1963年生まれ、AB型)  高校卒業後に就職し、2年で妊娠して社内結婚を機に退社。 現在は専業主婦。  糖尿病を患っています。 ・長男(1990年生まれ、B型)  不登校児童で中卒。フリーターを経て、現在は契約社員。 ◎長女(通称ノリ、1984年生まれ、B型)  高校卒業後、2005年に出来ちゃった婚で嫁入り。  

      • 思い出31  借金返却など種々問題の解決

        1990年にプーのお父さんが亡くなりました。 お父さんとはあまり話す機会がなく、どのような人なのか詳しくはわかりませんが、訪問した時には無口ながらも優しさを感じました。 奥さんもその旦那さんに寄り添う感じで、物静かな方でした。商売人の私のお袋とは真逆で、夫婦間で寄り添っているほんわかした家庭でした。 プーも世間的には物静かな方ですが、お母さんとお姉さんはもっと静かで、温かさが伝わってきました。 たぶん、私の長女と次女の関係と同様に、次女であるプーの方が強かったのだと思います。

        • 思い出30  人生最良の10年間

          1984年に結婚してから、1996年に親の借金を肩代わりするまでの12年間は、3人の子供に恵まれ、親たちも孫ができたと喜び、将来に夢を抱いた順風満帆の栄光の時代だったと思います。 栄光の12年間の軌跡 1984年 27歳で結婚し、中古一軒家を購入。7月に長女のり子が誕生。 1985年 夏休みには、長女が小学校6年生までは四日市の実家に帰省するようになる。 1986年 29歳。4月に次女が誕生。2月にプーのお爺さんが亡くなる。 1987年 30歳。長女3歳、次女1歳。年末に祖母

        番外編               還暦過ぎの爺が、ChatGPTを使ってみました。

          思い出29               ママゴトのような楽しい生活

          新居での生活が始まります。 携帯の無い時代で、狭山ヶ丘の荻野産婦人科までタクシーを呼んで病院に行くと、最低でも30分程度かかります。しかし、プーの実家からだと私の車で会社から数分、産婦人科まで15分で行けるので安心です。 そのため、会社に行くときは実家にプーを預け、帰りに一緒に帰ってくるという日常が続きます。通常出勤の月〜金の朝食や夕食は、実家でご馳走になることが多くなります。 出張などがある場合には、プーは実家に預けていました。隣の叔母さんは車を持っており、またタクシーを呼

          思い出29               ママゴトのような楽しい生活

          思い出28 新居での新しい生活

          新居は、武蔵工場から車で15分ほどの距離にある住宅地の一軒家です。武蔵工場、狭山ヶ丘のアパート、新居が正三角形の配置になります。 武蔵工場は、西武池袋線の入間市駅からバスで15分ほど行き、そこからさらに歩いて15分くらいの場所にあります。そのため、ほとんどの人が車で通勤しています。 プーの実家は、そのバス停の一つ手前のバス停の近くにあり、武蔵工場まで歩いて約20分のところにありました。駐車場はありませんが、バス停横に農協所有の空き地があり、近所の人たちは自由に使っていました。

          思い出28 新居での新しい生活

          思い出27 同棲生活から妊娠、入籍、新居購入、長女誕生と言う 怒涛の3カ月間

          忘年会で介抱してから1年後、同棲生活が始まりました。私は27歳、彼女は20歳、性欲旺盛の時期で、毎晩寝る前と朝会社に行く前に1日2回のまぐわいが日課となっていました。 その頃、私の先輩であるTEさんは、同居していたKOさんに送り迎えしてもらうようになっていました。 行きつけのスナックも無くなったため、車で10分ほどの別のスナックに通うようになっていました。そこには、KOさんの上司であるTU課長らと、かなり頻繁に通っていたようです。 誘われて数回行きましたが、如何にお金を使って

          思い出27 同棲生活から妊娠、入籍、新居購入、長女誕生と言う 怒涛の3カ月間

          思い出26              二人での楽しい四日市祭りから同棲生活へ

          SEさんを忘年会で介抱することで付き合い始め、翌年の2月14日に初合体し、その年の8月の夏季休暇に、私の四日市の実家に行く事になりました。 実家に連れていくと言うのは、結婚を考えての事と思われがちですが、遠出の泊まり掛けのデートで、お互いに結婚は全く考えていなかったです。 二人の中でも、そんな話はまったく出ていませんでした。 1980年頃は、高速が繋がっていないので、幹線道路を経由して、高速道路に入りますが、埼玉県の入間市から四日市まで行く場合、八王子から中央高速道経由か、厚

          思い出26              二人での楽しい四日市祭りから同棲生活へ

          思い出25 40年間の高速道路での思い出

          実家との往復や福島への単身赴任など、飲まない限り車での移動が中心でした。子供の頃から、謎のSさんに車で連れられたり、家庭教師に連れられて市民ラリーに参加したりと、車には楽しい思い出がたくさんあります。 その影響で、いつの間にか自分で車を運転することが好きになっていました。 1980年に埼玉に就職した頃は、高速道路同士がまだ繋がっておらず、幹線道路の渋滞が頻繁に発生していました。関東の高速道路整備が本格的に始まった時期でもありました。 まだ完全には完成していないものの、その整備

          思い出25 40年間の高速道路での思い出

          思い出24 二人の関係の進展 

          忘年会での介抱から始まったSEさんとの付き合いは、朝の送迎やSEさん手製のおにぎり、そして毎週金曜日の二人での食事という習慣に発展しました。 忘年会以来、泊まることもなく健全な関係が続きます。 金曜日の夜には、近くのロイヤルホストで食事をしたり、夜の多摩湖や車からの映画鑑賞、公園でまったりと過ごしたりと、健全なデートを楽しみました。 勤務先の武蔵工場は、幹線道路から少し入った工業団地区画の端に位置し、幹線道路脇にはステーキのどん、すたみな太郎、すかいらーく、しゃぶしゃぶ温野菜

          思い出24 二人の関係の進展 

          思い出23 初めての一人暮らしからの新しい出会い。

          生まれてから67年間の主要な出来事を以下にまとめました。 1956年 三重県 四日市市で誕生する  1959年 2~3歳の時にポリオに罹患し、右足首に軽度の後遺症が残る  1963年 幼稚園には通わず、小学校に入学 1969年 中学校入学 1972年 四日市高校入学     初めての海外旅行で英国、フランス、イタリア、スイスを訪問 1975年 三重大学 工業化学科に入学 1979年 埼玉に就職し、初めての一人暮らしをスタート。     クロマトグラフィ関連の開発に従事 19

          思い出23 初めての一人暮らしからの新しい出会い。

          思い出22  新たなクロマトグラフィー消耗品の開発、サラリーマン人生卒業、特許業務

          新たなクロマトグラフィー消耗品の開発、サラリーマン人生卒業、特許業務 三重大学を卒業し、1979年に初めて実家を出て、G社に入社しました。 ガスクロマトグラフィー充填剤や液体クロマトグラフィー充填剤の開発を担当し、GCキャピラリーカラムや固相充填剤の分野ではプレイングマネジャーとして従事しました。 学会やセミナーにも参加する機会が多く、充実した日々を送っていました。 新しい柱を目指して新規のゲル開発にも参画し、2009年頃まではワクワク感を持ちながら取り組んでいました。これ

          思い出22  新たなクロマトグラフィー消耗品の開発、サラリーマン人生卒業、特許業務

          思い出21               初めての学会発表とインド訪問 仕事で一番輝いていた時代

          前回の投稿では国際学会での発表について触れましたが、今回は遡ること10年前、初めての学会発表についてお話しします。 それは、H.A.部長がまだ在籍していた1984年のこと。ちょうどHPLCカラムのC18-2シリーズが発売された年で、私は27歳、できちゃった結婚をしたばかりでした。 40年前の学会発表は、現在と比べると使用する道具も異なり、今では懐かしい思い出です。当時の学会参加料は、今と大きく変わっていないと思います。 学会の種類や会員の有無、申し込み時期によって異なりますが

          思い出21               初めての学会発表とインド訪問 仕事で一番輝いていた時代

          思い出20  HPLC国際学会への参加とポスター発表

          私が入社した頃は、海外輸出はほとんどありませんでした。 しかし、1987年に上市したHPLCカラムC18-2シリーズは、弊社として初めて海外で認められた製品となりました。 1994年には、海外売上が会社全体の1%を超えるようになり、1995年には新たなHPLCカラムC18-3シリーズが追加発売され、その後毎年、海外販売は大きく伸びます。 2010年頃には売上の5%を、2020年には10%を超えるまでになりました。 私はその開発に従事し、製品が海外で高評価を受ける状況を体験しま

          思い出20  HPLC国際学会への参加とポスター発表

          思い出19  種々の経験ができた海外展示会への参加

          クロマトグラフィー関連の事業は、分析機器や科学機器メーカーが担っており、その業界では一堂に会する展示会が定期的に開催されています。 国内では、東京モーターショーやゲームショーで有名な幕張メッセで、JASIS(日本分析機器展)が年1回開催されています。 入社する前から、弊社は国内で開催される展示会に出展しており、毎年最新情報を得るために、多くの社員が見学し、説明員も行います。 1990年頃からは、HPLC充填剤C18-2が発売され、お客様向けの企業セミナーも開催されるようになり

          思い出19  種々の経験ができた海外展示会への参加

          思い出18  液体クロマトグラフィーカラムの開発

          液体クロマトグラフィーでは、試料がインジェクターから注入され、送液ポンプによって流される溶媒によって、液体クロマトグラフィーカラムに導入され、分離され、検出器で電気信号に変換され、データ処理器でクロマトグラムが記録されます。 液体クロマトグラフィーでは、直径4.6mm、長さ150mmのステンレスカラムに、0.005mm(5μm)の球状シリカゲルにオクタデカン(C18)などの炭化水素をシリル化反応で化学結合した充填剤を用います。 液体クロマトグラフィー装置、通称HPLCでは、水

          思い出18  液体クロマトグラフィーカラムの開発