思い出24 二人の関係の進展
忘年会での介抱から始まったSEさんとの付き合いは、朝の送迎やSEさん手製のおにぎり、そして毎週金曜日の二人での食事という習慣に発展しました。
忘年会以来、泊まることもなく健全な関係が続きます。
金曜日の夜には、近くのロイヤルホストで食事をしたり、夜の多摩湖や車からの映画鑑賞、公園でまったりと過ごしたりと、健全なデートを楽しみました。
勤務先の武蔵工場は、幹線道路から少し入った工業団地区画の端に位置し、幹線道路脇にはステーキのどん、すたみな太郎、すかいらーく、しゃぶしゃぶ温野菜、和食さとなどのチェーン店が並んでいました。
昔から続いているのはステーキのどんだけかもしれませんが、今でもラーメン屋を含む様々な店が並んでいます。
最近ではコストコや三井アウトレットもできて、土日は渋滞が生じるようになっています。
そのため、会社の人に会う可能性が高い幹線道路沿いの店を避け、SEさんの実家近くのロイヤルホストを行きつけのレストランになりました。
駐車場も空いており、二人でのんびりと過ごすには最適な場所です。
そのロイヤルホストは、子供たちが中学校に上がるまではお子様ランチなどでお世話になっていましたが、残念ながらお好み焼きの「道とん堀」に代わり、現在では飲食店ではなくなっています。
忘年会から翌年の2月14日のバレンタインデーまでは、そのような健全な関係が続いていました。
Sさんの誕生日はバレンタインデーの翌日で、バレンタイン前日の土曜日に欲しい物を買いに渋谷に行くことになりました。
それが人生初めての渋谷訪問となり、109などで買い物をしました。
40年後に、紗倉さんのイベントでこんなにも渋谷に行くことになるとは予想もしませんでした。当時と今では渋谷も大きく変わり、標準語以外の言葉が飛び交うのには驚かされます。
当時も人は多かったですが、今の土日の渋谷は異常とも思えるほどの混雑ぶりです。まだ、秋葉原の方が整然としていると感じます。
結局、109で誕生日プレゼントとしてセーターを購入しましたが、これがSEさんへの最初で最後のまともなプレゼントだったと思います。
その後、池袋のパルコのレストランで食事をし、西武池袋線で帰路につきました。
SEさんの実家の最寄り駅は3つ先でしたが、私のアパートの最寄り駅で一緒に降りてしまいました。
レストランでワインを飲んでいたので、車での送迎ができないことは知っているはずで、忘年会以来のお泊まりになる予感がありました。
駅前の行きつけのレンタルショップでビデオを借り、アパートで酔いが冷めるまで一緒にビデオを観て休憩しようということになりました。
なぜかホラー映画を観たいということで、『エクソシスト』『オーメン』、そして子供の頃に映画館で観てグロかった『マタンゴ』という日本映画をレンタルしました。
当時はVHSで、3本以上借りないと安くならないシステムでした。
3日間で1本数百円の時代です。
私のアパートは、板間の台所、風呂、トイレ、そして6畳一間という簡素なものでした。
6畳の部屋には万年床の布団が敷いてあり、その上で寒かったので毛布をかぶって『エクソシスト』から見始めました。
SEさんは子供の頃の作品で初めてのようで、真剣に怖がりながら見入っていました。
2本目は『マタンゴ』で、無人島に漂流しキノコを食べるとキノコ怪人になるという荒唐無稽な作品です。
私が子供の頃の映画で古く、全体的に画面が暗くVHSということもあり見づらい映画でした。
1本目を真剣に観ていたので目も疲れてきていました。
夜11時頃になり急に寒くなり、二人で毛布に包まるようになり、そのまま、乳繰り合い、合体まで行きました。そのまま、朝まで楽しみました。
このエピソードは、蓮見さんと紗倉さんが行っていたラジオ番組「ハスマナ」に投稿し、途中でセックスした映画として、アフタートークで読まれています。
”ハスマナ”は、深夜2時~4時までFMネットワークで放送されている「AuDee CONNECT」の水曜日深夜放送のラジオ番組です。
当時、一般には知られていなかったダウ90000の宰相である蓮見翔さんと、紗倉まなさんがパーソナリティとして、2022年4月からスタートしています。
蓮見さんの“ハス”と紗倉さんの“マナ”を合わせた”ハスマナ”番組名になっています。
私もこの番組まで、ダウ90000を知らなかったですが、ユーチューブなどで観てそのコントの面白さを知りました。
ダウ90000(キュウマン)は、日本の8人組コントユニットで、2020年旗揚げのグループで、蓮見さんがネタ作りや公演の脚本、演出を全部行っているとの事です。
ダウ90000の公演チケットは、若い女性に人気があり取れず、若い人ばかりで、爺には行き難いので、有料配信で観ました。
Aマッソ+90000、単独ライブ 10000 、コントライブ”「夜衝」、”いちおう捨てるけどとっておく”、ダウ90000第5回演劇公演「また点滅に戻るだけ」、配信”8人はテレビを見ない”など結構楽しみました。
正月のテレビ特番やABCお笑いグランプリなどにも出演してコントをするようになりましたが、5分以下と言う時間制限があるとダウ90000の良さは出ていなかったような気がしました。
蓮見翔さんと紗倉まなさんとの掛合は、これまでにはない面白さで、人気もあったようなので、何年も続く深夜ラジオ番組になる思っていました。
しかし、紗倉さんは2023年6月に辞めてしまいます。現在は、テレビやCMに出演するようになり、有名になった蓮見さんが一人で“ハスマナ”を生放送で続けています。
紗倉さんとの掛合の無くなり、つまらなくなったので、番組を聴かなくなり、ダウ9000への興味も無くなりました。
紗倉さんが辞めた瞬間に生放送に切り替わったため、私は蓮見さんの生放送愛に対するプレッシャーに耐えきれずに紗倉さんが辞めたのではないかと妄想しています。
辞めたのを、蓮見さんの所為にして、まなさんロスを癒しています。
生放送でなくても、蓮見さんと紗倉さんの軽妙なトークを再び聴ける日を夢見ています。
そのハスマナへの投稿を、蓮見さんは素晴らしいトーク術で面白く仕上げています。
2022年7月20日のアフタートークの後半にあると思います。紗倉さんの卒業に伴ってプレミア会員を退会したため確認できていませんが、今でも聴けると思います。
SEさんとの関係は、金曜日の食事会の後に私のアパートに泊まることがたまに生じるようになっただけで、適度な距離感で自然と続きます。
TEさんの朝の送迎は不要になったので、SEさんの家の近くの農協の駐車場で、SEさんの手製のおにぎりを食べて他愛もない会話を20分ほどし、その後会社に行くというのが日課になりました。
私の仕事が充実してきて、帰宅が9時過ぎになるため、金曜日以外に一緒に過ごすことはほとんどありませんでした。
行きつけのスナックも移転してしまい、飲みに行くことも減っていました。
金曜日も忙しい時には会えないことがありましたが、毎朝顔を合わせていたので、二人きりになりたいというドラマのような感情や、デートしたいという気持ちも特に湧きませんでした。
適度な距離を保った関係が、私たちには最も適していたと思います。
会社は土日が完全に休みでしたが、土曜日には電話応対や出荷、荷物の受け取りがあるため、朝10時から3時までの日直としての出勤が2か月に1回程度ありました。
荷物の受け取りや出荷が終われば午後は暇で、洗車をすることが多かったです。
SEさんは会社から歩いて20分ほどの距離に住んでいたので、昼食を作って持ってきてくれました。
工場内は二人きりで、加工用の機械などが並ぶ作業机でいちゃついたりしていました。
その時に聞いた話だと思いますが、SEさんは私と付き合う前に、先輩のYOさんと親密な関係にあり、良くアソコを触られてたり、YOさんをテコキしていた事を告白されました。
YOさんはSさんと同じ部署で、私の3年先輩で、年齢は私の一つ下です。
後ほど同じ部署になるので、直属の先輩になります。
SEさんと付き合う前から、YOさんとは行きつけのスナックに一緒に行ったり、同年代で気が合ったので良い関係でした。
その後も、YOさんが福島工場赴任を断り営業に異動するまで、私とYOさんの良い関係は続いていました。残念ながら、営業職が合わずに辞めてしまいました。
私が、SEさんを付き合ている事を知った後ですが、YOさんからも SEさんと昔付き合っていたと知らされていました。
SEさんの言っていた関係とは、違いましたが、二人が付き合っていたのは事実でした。
私の方は、そのような過去の関係を告白されても、特に気になりませんでした。
子供の頃、お袋と一緒にいるときに遊びに連れて行ってもらった謎の男性 Sさんの件があり、男女関係にはいろいろなスタイルがあることを肌で感じていた為と思います。
この話は「小学校時代の思い出 4 憧れた謎のSさん」で2024年2月3日に投稿されています。
そのため、逆にSEさんの告白は、工場での密かなひとときをより刺激的にしてくれました。工場萌えの紗倉まなさんのデビュー作を見ると、当時の二人のまぐあいを思い出します。怖いもの知らずの好奇心旺盛な若い二人だったので、本能のまま行動し、その異常さも平気だったのだと思います。
もし誰かが来ていたらと考えるとぞっとしますが、それも今となっては懐かしい思い出です。
このような思い出のある日直は、後に労働基準法で休日出勤扱いとなり、土曜日休みの企業が増えたこともあり、数年後には無くなりました。
仮に日直が存続していたとしても、今ではコンプライアンス的にアウトだったと思います。今では考えられないような行動も、昭和の良き時代には勢いで行うことができました。
確かに、現在ではステテコ一丁で歩く姿や赤ん坊に母乳を与える姿、人前でおむつを替える姿なども見なくなりました。
世間体を気にするようになり、社会は洗練されてきていますが、昔の良き情緒が失われているのは少し寂しいです。
私たち二人の関係は、別れの危機も盛り上がりもなく、自然と続いていました。
SEさんは相変わらず開発の先輩TOさんを「お父さん」と慕って休み時間には開発に来ていましたが、私とは挨拶程度の会話で、社内では付き合う前と同じ関係でした。
TOさんには私と付き合っていることを話していたようですが、寡黙な方だったので他の人に言うことはありませんでした。
会社は9時始まりですが、私たちは毎朝8時20分頃に到着していました。
出社している人も少なく、SEさんのおにぎりの形を直していた同期のOさんくらいしか私たちの関係を知らなかったと思います。
SEさんとの関係は、社内で広がることもなく自然な感じで進んでいきました。
二人で並んで歩いたり、車でドライブに行ったり、食事に行ったりすることはよくありましたが、ドラマのような甘い会話はまったくありませんでした。
適度な距離感を保ち、隣にいることが自然でした。
会話が途切れても違和感がなく、無理やり話題を考える必要もありませんでした。
SEさんは、隣にいても邪魔にならないが、いなくなると困るような空気のような存在になっていました。
8月になると1週間の夏季休暇があります。
当時は、8月中ならいつでも良いという大らかな時代でした。
東日本大震災の影響で電気料金が上がり光熱費を抑える風潮が高まったため、震災の翌年からお盆の週に一斉休暇に変わりました。これにはかなり文句が出ましたが、有給消化が必須になってきたこともあり、一斉夏季休暇のほかに有給を使うことが暗黙の了解となりました。
夏季休暇には四日市の実家に帰省していました。
8月第1週の四日市祭りに合わせて帰省することが多かったです。
当時、実家には郊外に祖母の家があり、精神疾患で入退院を繰り返している父の妹と暮らしていました。
私が帰省する時には、祖母とその叔母は市内の実家に戻り、その郊外の家を空けてくれていました。
そのため、郊外の一軒家を自由に使うことができ、SEさんも一緒に行くことになりました。
夏季休暇中の緊急連絡先を会社に提出することが義務付けられています。
当時は、個人情報保護法がなかったため、その連絡先を社内の皆に流していました。
SEさんは、馬鹿正直に私の実家の住所を記入しました。その結果、二人の関係が全社の社員に知られることになりました。
この様に、二人の関係が進展していきます。