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思い出18  液体クロマトグラフィーカラムの開発

液体クロマトグラフィーでは、試料がインジェクターから注入され、送液ポンプによって流される溶媒によって、液体クロマトグラフィーカラムに導入され、分離され、検出器で電気信号に変換され、データ処理器でクロマトグラムが記録されます。
液体クロマトグラフィーでは、直径4.6mm、長さ150mmのステンレスカラムに、0.005mm(5μm)の球状シリカゲルにオクタデカン(C18)などの炭化水素をシリル化反応で化学結合した充填剤を用います。
液体クロマトグラフィー装置、通称HPLCでは、水とアルコールなどの有機溶媒の混合液を流して分析が行われます。
約20MPaの圧力で作動し、この圧力はエアライフル銃の圧力と同程度です。
そのため、充填時に接続部分が抜けると、カラムが弾丸のように飛びますので注意が必要です。
当時、開発した際には、カラムが飛んで天井に突き刺さったことを鮮明に覚えています。現在では、接続部分も改良され、2μm粒子でも80MPaで安定して使用できるようになっています。
液体クロマトグラフィーでは、カラムに流す液体の種類によって分離が異なるため、どのような液体を用いるかなどの分析におけるノウハウも重要となります。
カラムの中の液体を入れ替える事を、”チカン”(置換)すると言います。
朝から、女性が”チカンして”と言うのがHPLCあるあるです。
1986年に福島工場の立ち上げ手伝いで3か月出張し、カスタマサポートセンターを6ヵ月経験し、11月に研究部に異動します。
入社してから7年目、30歳の時に、これまでに経験のなかったこの液体クロマトグラフィーカラムの開発に着手することになります。
推しの紗倉さんも30歳を過ぎて、新しい挑戦を続けているようで、これからの活躍が楽しみです。
すでに、HPLC開発のために、HN部長が抜擢され、研究部が新設されていました。
HPLC研究を大学で行ってきた先生で、海外での展示会参加で、種々お世話になっていたようで、HPLC開発するために誘ったと聞いています。
ただ、入社されても、大学との共同研究ばかりを行い、目的であったHPLCカラムの開発はほとんど行わず、新製品が開発されなかったので、てこ入れが必要だったようです。
途中入社した 液体クロマトグラフィー経験者のTMさん、GC充填剤開発を経験してきた私が、HPLCカラム開発に抜擢されることになります。
営業NAさんの結婚式で司会をしていたTMさんを、主賓で出席していたYM専務が気に入り、引き抜いたと聞いています。TMさんは、一つ下ですが、大手食品会社でHPLCを用いて品質保証を行っており、HPLCにおける私の先生になります。後に、総合技術本部長の役員になりますが、役員に定年は無いのですが、65歳ですっぱり辞めています。頭の回転が速く決断力があり、それでいて人あたりも良く、皆から好かれていた役員さんでした。
開発部の先輩であったTKさんが、すでに自社HPLCカラムの開発をして製品化していましたが、他社カラムに比べて耐久性が悪いと言う事で、市場に入り込めていませんでした。TKさんは、入社当時からクロマトグラフィーを教えてもらえ、結婚時にもお世話になっていました。
HA部長との関係がうまく行かず、HPLCカラムの開発を続けず、辞められました。
技術センスが高かったので、残念に思います。
HA部長は、従来からのHPLC関連製品の開発より、新しい物の研究を優先しており、役員からの受けも悪かったようです。
特に、開発部役員であったYA部長とは犬猿の仲でした。
そのような状況の中で、TMさんと私が研究部に異動され、耐久性のあるHPLCカラムを開発製品する勅命を受ける事になります。
ネットの無い時代で、文献や他社カタログを取り寄せて、読み漁って種々調査しました。海外から来た技術なので、英語の文献がほとんどです。
自動翻訳も無い時代で、効率は悪かったですが、自分なりに英語文献の読み方を覚え、論文からおよそ内容を把握することに慣れていきます。
まったく英会話はできませんが、英語文献を読んだり、英語論文を投稿することに抵抗は無くなるようになります。
実際には、合成方法はマル秘で、具体的な方法を書いてあることはありませんが、種々の文献を並べると、合成の方向性が見つけられました。また、辞めたTKさんが過去に行った検討結果の報告書も非常に役に立ちました。その経験以来、開発では必ず開発内容をまとめて報告書として提出することにしました。当時は、手書きの紙の報告資料でした。紙からデジタルファイルに変わりましたが、今でも続いており、過去の報告書を参考にできるようになっており、技術継承も行われ、会社の大きな財産になっています。今書いているNOTEも、家族の歴史として引き続けられることを期待しています。

HPLC充填剤の開発では、文献や報告書などの種々の方法を組み合わせて、試作を多数行いました。実際に耐久性が高いことを確認するため、毎日分析してHPLCカラムの劣化を確認しました。休みの日も、試作品の劣化状態をチェックする必要があり、TMさんと交互に出勤していました。そのような努力もあり、他社に比べて高耐久なHPLC充填剤C18-2を発売することができました。
チラシやカタログなどは、GCパックドカラムで種々の経験が生きて、営業受けは良かったです。そして、HA部長による海外文献化および国際学会での発表のお蔭もあり、C18-2は市場で認められました。
当時は、GCカラムに関しては、国内トップ3に入っていましたが、HPLCカラムでは、無名でした。この新規のHPLC充填剤C18-2発売で、HPLCカラムでも、知られるようになります。HPLCカラムの売り上げが多くなり、ガスクロマトグラフィーに特化していた社名が適さなくなり、翌年の1988年には社名も変更されます。
HPLC市場での浸透を高めるために、TMさんは本社の営業企画の方に異動します。私の方は、そのままHPLCカラムの開発に従事します。
33歳で係長になりますが、開発担当者として、C18-2シリーズとして、1993年まで、追加製品の開発を続けます。
上記の題名でNOTE用に、下記を修正してください
毎年、新しいHPLCカラムを製品化して、市場から刺激を受けて、忙しくもありながら直接開発に携われた一番楽しい時期でした。
その時には、クロマトグラフィカラム開発は新人も含めて、6名体制になり、売り上げでは、HPLCカラムがGCカラムを上回るようになります。
そのころ、HA部長は、学会や海外出張などで出かけが多く、幹部定例会議などには、HA部長の代わりに出席させられました。
役員や部長クラスの会議で、当然、私が一番下で書記にさせられます。まだ、PCは無く、ワープロも普及していない時代で、汚い字の手書きでした。
部長クラスの会議のため、人事や異動の本当の理由など記録できないような会話もありました。
初めての時は、それも議事に残しましたが、削除するように言われ、良い勉強になりました。
結局は、皆で決めた結論だけを議事録として残すようになります。
出席者から発言内容が記録されていないという修正依頼もありましたが、書記の権限として、無視して書記の楽しさを堪能できました。
HA部長は、管理および報告はほとんど行っていないために、社内で浮いてしまい、結局辞めてしまいます。
先生的存在で、やはり会社組織には不向きで、退社は仕方ないと思います。
ただ、学会発表や論文化の重要性と、広告としての有効性を見せてもらえて、HA先生が辞めた後も、学会発表や論文化は続いています。
その後、海外のHPLC充填剤メーカーの顧問になりますが、結局、辞めて、日本でK研究所の主任研究員に落ち着いた聞いています。
1993年から、第2弾のHPLCカラムとして、高純度、高不活性を目標として、母体シリカゲルから完全に見直した新規HPLCカラムの開発をスタートします。
高純度と言うのは、金属不純物が少なく、10ppm未満(10万分の1)を目指すことになります。
これは、半導体のシリコンウエハーと同等レベルになります。
第2弾のHPLCカラムとして、高純度、高不活性を目標として、母体シリカゲルから完全に見直した新規HPLCカラムの開発をスタートします。
高純度と言うのは、金属不純物が少なく、10ppm未満(10万分の1)を目指すことになります。
これは、半導体のシリコンウエハーと同等レベルになります。
第2弾のHPLCカラムとして、高純度と高不活性を目標として、母体シリカゲルから完全に見直した新規HPLCカラムの開発をスタートします。
高純度とは、金属不純物が少なく、10ppm未満(10万分の1)を目指すことになります。これは、半導体のシリコンウエハーと同等レベルになります。
入社3年目のOM君が、母体となる高純度なシリカゲルの開発を、そして、新人のTA君が高不活な化学処理の開発行います。若い二人の自由な発想のお蔭で、研究試作としては良い試作が完成します。
しかし、従来とは異なる合成方法になり、工場で安定して作れるレベルには達しませんでした。
その状況を救ってくれたのが、製造現場のNY課長でした。
NY課長は、中途採用(経験者採用)で、前会社では医薬品製造における品質管理を行っていたと言う経験を生かして、現場に合う色んな工夫を行ってくれます。
この新しいHPLC充填剤においても、開発では1か月かかった合成を、種々変更して1週間で作れるようになりました。
開発段階の試作の物性値とは異なってしまいますが、目的性能は達成されていたので、開発担当長権限で了承して製品化しました。
私とNY課長との信頼関係は、非常に強固であり、HPLC充填剤や前処理充填剤の製造においては、互いの判断だけで製造を開始し、発売を進めることとなります。
製造に関しては、NY課長がOJTで担当者に指導することができ、販売資料などは私が作成したため、社内からの不満はありませんでした。
顧客に納得いただき、製造現場でも許容できる品質保証範囲を二人で決定しました。
シェアを拡大中の段階であったため、冒険も許容されました。
NY課長は、2003年まで開発部門の責任者として私の後任となるまで、この関係は続きます。
現在は一定のシェアを獲得しており、安定供給が重要視されています。
そのため、失敗は許されないため、製造移管にも時間がかかるようになっています。
NY課長のおかげで、1995年に高純度高耐久のHPLCカラムC18-3が発売され、2003年まで毎年新製品が追加されシリーズ化されました。
世界で輸出可能なHPLCカラムとなり、会社の成長を牽引する製品となりました。2001年には、移管作業を円滑に進めるため、福島工場内に開発部門の開発分室が新設されました。
2年間福島分室に単身赴任し、2003年に武蔵開発に戻ります。
今の主流は、新しい福島開発のスタッフが開発した新しいHPLCカラムに移行しましたが、C18-3シリーズは今でも世界中で愛用され、医薬品の品質検査に広く利用されています。
多くのクロマトグラフィーにおいて、装置に注入する前に前処理が必要です。
例えば、河川や海などには、対象成分以外の多量の不純物であるマトリクスが存在しており、クロマトグラフ装置に注入する前に前処理カラムを通して除去します。
また、食品や体内代謝物においては、マトリクスを除去するだけでなく、目的成分を濃縮することも行われます。
そのために使用されるのが、使い捨ての前処理カラムです。
自動前処理機もあり、1日に数十本が使用され、1箱20本入りで約6万円前後で販売されます。
HPLCカラムが1本6万円前後、GCキャピラリーカラムが1本10万円前後に対し、前処理カラムは1本あたり200円前後の使い捨てカラムとなります。
当時は、海外製品が主流で、国内製品はありませんでした。
私たちは総代理店として前処理カラムを販売し、その使用方法をフォローすることで、国内市場の半分ほどを獲得していました。しかし、2000年頃から、海外メーカーが日本国内に進出し、直販を開始しました。これにより、独占販売の地位を失い、海外品を取り扱うメリットが薄れ、自社製品化することになりました。技術的にはHPLC充填剤の知識を活かせましたが、価格競争が激しく、低価格での大量生産が重要でした。充填剤の合成にはNY課長の協力がありましたが、カラム充填には高卒同期のON課長と共に福島分室に単身赴任中に取り組み、2002年に製品化しました。前処理カラム、GCキャピラリーカラム、HPLCカラムの製品化に携われたことは、会社に貢献できた幸運であり、楽しい経験でした。これらの製品の開発アドバイスや海外を含めた販売フォローが直接できた50歳ぐらいまでが、一番楽しい時期でした。
総代理店として、前処理カラムを販売し、使用方法をフォローすることによって、国内市場の半分ほどを独占していました。
しかし、2000年頃から、海外メーカーが日本国内に進出し、直販するようになります。
独占販売が難しくなり、海外品を取り扱うメリットがなくなり、自社で製造することになります。
技術的には、HPLC充填剤の知識が役立ちますが、価格競争が激しく、低コストでの大量生産が求められます。
充填剤合成においてはNY課長、カラム充填においてはON課長(高卒同期)と協力して、福島分室に単身赴任中に前処理カラムプロジェクトをスタートさせました。
前処理カラム目的に応じて、多種の物が使われるので、発売時には最低8種が必要になります。
NY課長の協力を得て、開発と手分けして、2002年に国産前処理カラムとして、8種同時に製品化できました。
クロマトグラフィーにおける3種の神器であるHPLCカラム、GCキャピラリーカラム、前処理カラムの製品化に関わってきました。
これらの製品の売り上げは、スタート当時は、全売り上げの3%ぐらいだったのに対して、退職する昨年には、20%近い割合になり、会社に貢献できたことを実感できました。
色んな事を経験できた事は幸運だったと思います。
実際に開発していた時には、うまく行かなかったり、徹夜をしたり、先が見えなかったりなどの苦労はあったと思いますが、自分の開発品が世間に認められ、入社から30年間の思い出は、楽しさだけです。

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