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思い出22  新たなクロマトグラフィー消耗品の開発、サラリーマン人生卒業、特許業務

新たなクロマトグラフィー消耗品の開発、サラリーマン人生卒業、特許業務
三重大学を卒業し、1979年に初めて実家を出て、G社に入社しました。
ガスクロマトグラフィー充填剤や液体クロマトグラフィー充填剤の開発を担当し、GCキャピラリーカラムや固相充填剤の分野ではプレイングマネジャーとして従事しました。
学会やセミナーにも参加する機会が多く、充実した日々を送っていました。

新しい柱を目指して新規のゲル開発にも参画し、2009年頃まではワクワク感を持ちながら取り組んでいました。これまでNOTEに投稿してきた仕事の思い出の中で、思い出16~21の時期が、私にとって一番輝いていた時だったと思います。

今回は、最後の約10年間の開発作業の思い出を振り返ります。
2001年に福島に開発分室を立ち上げ、従来のクロマトグラフィー関連消耗品の開発は福島が中心となりました。
武蔵では、新規技術の調査開発や福島開発で手が回らない作業のフォローを行いました。
2003年頃から、私は武蔵開発の中心となり、従来の粒子タイプに代わる新規のモノリスという分析用媒体の調査開発をスタートしました。
従来のクロマトグラフィーカラムでは、粒子形状のシリカゲルなどの担体を筒状の入れ物に均一に充填し、カラムから粒子が出ないようにフィルターを設置する必要があります。試料成分は担体の表面に固定された固定相によって分離されながら、粒子間を液体や気体が流れ、カラム出口まで移動して分離され、検出されます。
モノリスカラムは、入口から出口まで移動相が流れるスルーポア上に分離を生じさせる多孔質表面が連続して形成された筒状のチョーク状固体で構成されています。
一般に「モノリス」とは、一枚の塊状の岩や石から成る地質学的特徴を指しますが、SF作品『2001年宇宙の旅』に登場する石柱状の謎の物体でも有名です。
要は、一体型の円柱状のカラムになります。
従来の粒子状充填カラムでは、充填剤をカラム内に留めるためのフィルターが必要であり、粒子間の空間が不均一で、細かい行き止まりの場所も生じやすく、使用圧力も高くなってしまいます。一方、モノリスカラムでは、入口から出口までスルーポアが均一で、圧力が低く、再現性も高くなります。
また、薄く輪切りにすることで分離媒体として使用でき、従来の充填固相より小さいコマ状の固相用カラムが作成可能です。
フィルターも不要なため、微量成分を扱うバイオ関連の前処理、特にDNA検査などにも有効です。
このシリカゲルモノリスは、京都大学の曽我先生、中西先生らによる発明品であり、日本発祥の技術です。
従来の充填剤に代わる次世代分離体として注目を浴びており、その性能面では優れた特性を持っています。
具体的には、キャピラリーモノリスカラム(2003年)、DNA精製カラム(2004年)、前処理用カラム(2008年)、HPLCカラム(2009年)と、従来の粒子タイプと同様のラインアップを次々と製品化しました。
これらの製品化は、私たちにとって非常に充実した時期でした。
当時、3・6協定がなく、開発業務はみなし残業手当で何時間でも没頭することができました。
この時期は私にとって黄金時代であり、開発チームは約10名に拡大し、皆が時間に縛られることなく生き生きと開発を楽しんでいました。
ネット環境も整備され、調査も容易になり、自由な時間とともに開発が最も進んだ時期でした。
長い歴史のある粒子タイプと同じラインアップを、わずか6年間でほぼ同等の種類を製品化できたのは大きな成果でした。
しかし、2010年後半から労働基準法の改正により、みなし残業が廃止され、開発にとって厳しい環境が訪れました。
午後4時半過ぎには後片付けを始め、定時内に当日のまとめを行う日常の流れが定着していきました。製品化が間近に迫った時や移管時には、昔のように9時過ぎまで残業作業することもありましたが、基本的には定時帰宅を目指すようになりました。
これからの時代、開発のスピードと自由な環境をどのように維持しながら進めていくかが課題となるでしょう。
昔は、夜9時頃まで開発作業に没頭し、家にパソコンを持ち帰って夕食をとりながらまとめ作業をするのが日常茶飯事でした。
実験室の片づけは後回しになり、散らかった実験室を見ると懐かしい気持ちになります。それでも、楽しく開発を続けられたのは、開発品が売れると評価が上がり、名誉とお金がついてくるからで、疲れを感じることはありませんでした。
たとえ効率化が進んだとしても、人のやる気と努力を完全にカバーすることは難しいと思います。勤勉な日本人の良い部分を失わせるような法律が、日本の技術低迷を引き起こしたと個人的には感じています。

58歳で役職定年を迎え、60歳で定年退職後に再雇用されましたが、管理業務がなくなり、再び実際の開発作業に取り組むことができるようになりました。
それは楽になった部分もありましたが、時間に縛られることで以前のようなワクワク感がなくなっていました。
それでも、将来性のある新しい技術テーマならば、気合も入りますが、残り数年の契約社員では、そのような開発を任されることはなく、引き継ぎや従来品の改良が主な仕事となってしまいます。
環境前処理カラムのマイナーチェンジと原価ダウンの開発は、中国への輸出も期待でき、楽しいプロジェクトでした。しかし、中国情勢の不安定さとコロナ禍の影響で、製品化が実現せず、気分が落ち込み鬱状態に陥りました。
そんな時に、紗倉まなさんを知り、これまで知らなかった世界が目の前に広がりました。この詳細については、また別途NOTEに投稿したいと思います。
本来ならば、有給を使い切って65歳の誕生日に会社を定年退職する予定でしたが、紗倉まなさんの推し活資金を稼ぐため、パートとして2年間延長して会社にお世話になることにしました。
これまでは、開発作業の楽しさ追及やお世話になった会社への恩返し、そして達成困難な夢を目標にしていたため、自分の技術の不足や時間の無さに対するもどかしさで気分が落ち込んでいました。
しかし、生活は年金で賄い、推し活のための小遣い稼ぎと割り切ることで、気分が非常に楽になりました。
これまでは何か疑問があれば自分で解決しようと頑張っていましたが、小遣い稼ぎと割り切ることで、自分だけで解決できない場合には、周りを巻き込むようになりました。
自分の考えをストレートに伝え、一応参考意見として相手に任せるようになり、周りには老害を振りまくようになっています。
上司ならばパワハラ的ですが、ただの推し活爺として認識されており、みんな優しく流してくれています。
このように、サラリーマン人生の最終章として、楽しく充実した日々を過ごせるようになりました。
例えば、紗倉さんのエロい卓上カレンダーを仕事場に置いていますが、表面上は受け入れてもらっています。本当の事はわかりませんが、職場の雰囲気は悪くありません。
仕事以外に、紗倉さんの推し活という楽しみを得たことで、開発作業に対して達観的に見る余裕が生まれました。
その結果、憂鬱だった開発作業も従来とは違う方向から楽しめるようになりました。
ただ、会社組織としては、定年した人間をいつまでもパートとして置くのは不自然です。昨年、パートを辞めて会社員を卒業しました。
初めて国民健康保険に加入し、確定申告も自分で行うようになりました。これで時間も自由になり、平日に秋葉原で発券もできるようになり、67歳にして初めて秋葉原デビューを果たしました。
このように、調査、開発、製造移管、製造フォロー、技術資料作成、文献化、学会発表、同行営業など、常に新鮮味を感じながら40年間開発を行い、楽しいサラリーマン人生を終了しました。
一方、学会や文献とは別に、開発において重要な作業として特許調査と特許申請があります。
エジソンやドクター中松など、発明王として知られる人物の名前は一度は耳にしたことがあると思います。
何年もかけて発明して製品化しても、すぐに真似されてしまったら、発明者の努力は名誉だけになってしまいます。その発明者の権利を守るのが特許になります。
特許は、発明者の権利を、一定期間保護し、発明の実用化を促進するために重要です。私も開発者として、特許調査と特許申請に多くの時間を費やしました。これからも、自分の経験と知識を活かしながら、新しい技術の発展に貢献していきたいと思います。
特許としては、物質そのもの、作り方、使用方法、種々の組み合わせなど、従来になかった技術が対象となります。
特許が認められると、申請から最大20年間、発明者の許可なく販売することはできません。公開審査などを経て、クレーム対応や修正を行い、特許庁の判断で特許が成立しますが、通常、早くても2年ほどかかります。
審査が早く、審査ハードルの低い実用新案もありますが、その権利期間は10年と短く、製品寿命が短い日常品のような小物に限られます。
特許請求項目の数によって特許申請費用は異なります。
通常、初期に出願料として約2万円が必要です。
また、出願日から3年以内に審査請求を行う必要があり、審査請求料は約20万円です。
さらに、拒絶対応や修正などで約7万円かかります。
年間の維持費用、いわゆる年金もかかり、最初の6年間は年約1万円ですが、7年目から9年目までは年約3万円、10年目以降は年約9万円が必要です。
特許を最大の20年間維持する場合、全ての費用を合わせると約90万円程度かかります。さらに、特許申請には専門的な知識が必要で、弁理士に依頼することになります。その報酬が数十万円かかるため、1件の特許を出願から20年間維持する場合、総額で約150万円程度が必要です。
個人で特許を維持するのは難しいため、会社員の場合では会社が費用を負担します。
特許化された時には、報奨金などの形で権利が発明者から会社に移譲されます。
または、個人で特許権を取得し、会社に売り込む場合もあります。
特許が成立すると、独占製造販売が可能となり、売上の一部をロイヤリティとして金銭を得ることもできます。
特許は国ごとの権利なので、必要な国に特許を出す必要があります。
国際特許になると、現地の言語への翻訳費用もかかり、特許化する国ごとに費用が発生するため、総額で数百万円かかることもあります。
重要な特許であれば、中国や欧米に特許申請を行うことになります。
特許は新技術の象徴であり、各メーカーや各国の新技術動向を知ることができ、将来性のパラメーターにもなります。
特許行政年次報告書2021年、2023年版によると、国別特許出願件数は次の通りです:
2016年:米国56.6千件(24.3%)、日本45.2千件(19.4%)、中国43.1千件(18.5%)
2022年:中国70.0千件(25.2%)、米国58.7千件(21.2%)、日本50.4千件(18.2%)
このデータから、中国の特許出願件数が1.6倍に増加しており、特許分野においても中国の台頭が明らかです。
弊社でも、私が入社した当初はほとんど特許がありませんでしたが、液体クロマトグラフィーカラムの販売が増え、社名が変わった90年代から特許取得にも力を入れるようになりました。
私は1991年から2016年までの25年間で、29件の特許に関与しました。そのうち、国際特許は2件です。学会発表と同様に、特許は企業技術レベルの高さを示す証明になります。
市場を独占したり、他社に特許技術を使用させた場合、ロイヤリティが得られますが、直接の売上貢献が見えにくいので、特許にどの程度費用をかけるかは各企業の悩みの種と思います。
G社を卒業した後も、特許に関して相談を受けており、推し活費用の足しになっています。また、新規技術に触れることができ、楽しくボケ防止にもなるため、会社からの相談がある限り、この仕事を続けたいと思っています。
叔父さんに今の会社を紹介され、1979年入社し、定年の2016年まで、楽しい開発に従事できました。
2023年まで再雇用で開発を続けましたが、やる気が萎え始めていました。そんな時に紗倉さんの推し活という新しい楽しみが見つかり、それをきっかけに割り切って開発作業を楽しむことができ、定年鬱も乗り越えられました。
今でも会社と良い関係を保ち、周りに老害を振りまきながらも、自分の人生を楽しめています。これまでのキャリアを振り返ると、自分は非常に幸運だったと思います。
これからも、自分の経験と知識を活かしながら、新しい技術の発展に貢献していきたいと思います。
特許の重要性を理解し、その知識を次世代に伝えることも私の使命だと考えています。
これまでの成果や経験が次の世代に受け継がれていくことにやりがいを感じています。

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