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思い出23 初めての一人暮らしからの新しい出会い。

生まれてから67年間の主要な出来事を以下にまとめました。

1956年 三重県 四日市市で誕生する 
1959年 2~3歳の時にポリオに罹患し、右足首に軽度の後遺症が残る 
1963年 幼稚園には通わず、小学校に入学
1969年 中学校入学
1972年 四日市高校入学
    初めての海外旅行で英国、フランス、イタリア、スイスを訪問
1975年 三重大学 工業化学科に入学
1979年 埼玉に就職し、初めての一人暮らしをスタート。
    クロマトグラフィ関連の開発に従事
1984年 同棲からできちゃった婚、中古一軒家を購入 
    ○長女誕生
1986年 ◇次女が誕生
1989年 32歳で係長に昇進
1990年 □長男が誕生
1994年 37歳で課長代理に昇進
1996年 親の借金を返済するため、会社から1300万円を借り入れ
1997年 40歳で課長に昇進
2000年~2001年 福島開発立ち上げのために、2年間福島に単身赴任
2001年 実家の玩具店が焼失
2003年 〇長女が18歳で就職
2004年 ◇次女が東洋大学に進学
2005年 ○長女が結婚し、長男を出産。初孫が誕生
2006年 49歳で次長に昇進
2008年 ▲母が脳溢血で倒れ、植物状態で入院。
     父の面倒を見るため、妻は四日市に移住。
    〇長女が次男を出産する 2人目の孫が誕生
    ◇次女が就職
2009年 ▲植物状態の母が、四日市市民病院を追い出され、埼玉に転院。
    実家を引き払い、父を埼玉に連れてくる
2010年 ▲母が77歳で永眠。
    ○長女が三男を出産 3人目の孫が誕生
    ◇次女が結婚
2012年 ▲父が83歳で永眠
    ◇次女が長男を出産。4人目の孫が誕生 
2013年 55歳で部長に昇進
2014年 ◇次女が次男を出産。5人目の孫が誕生 
2015年 58歳で役職定年になり、管理を行なわないスペシャリストに就任
2016年 満60歳で定年を迎え、契約社員として再雇用
2021年 満65歳で契約社員を終了し、法的定年を迎え年金生活に入る。
    紗倉まなさんの推し活スタート。
    推し活資金のため、同じ会社でパートとして働き続ける
2022年 67歳でパート契約が終了し、会社員生活を卒業

昔から女性との付き合い経験はほとんどありませんでした。
小学校4年生くらいまでは、私の家には女子がよく遊びに来ていました。
実家がおもちゃ屋で、歩いて10分ほどのところにある実家は、節句人形やリカちゃんハウスの展示場でもありました。
また、親戚がお菓子問屋を営んでいて、炒りたての美味しいアラレがあったため、それらを目当てに女の子の出入りが多かったのです。
誕生会などでは、女子だらけだった記憶があります。当時はまだ痩せて小さかったので、母性本能をくすぐったのかもしれません。
初恋は中学校時代のノンちゃんでした。彼女はクラスの人気者で、私はただ憧れるだけで相手にされませんでした。
就職後、よく通ったスナックにいたお気に入りのバイトの女子もノンちゃんという名前でした。そのため、長女には同じ名前をつけています。
高校時代は、年齢を誤魔化して日活ロマンポルノのオールナイトに入り浸ったりする、健全(?)な男子でした。
一人っ子でしたが、母方の従妹が女子5人で、彼女たちと一緒に楽しく旅行に行ったりしていました。そのため、女子が苦手ということもなく、彼女が欲しいという感覚にもなりませんでした。
大学時代には、北海道旅行で知り合った女子大生と戻ってきてからも会っていましたが、進展はありませんでした。
母親は、女性と縁がなかった私を心配していたのかもしれません。
就職後、夏季休暇で戻った際に見合いを行ったのもそのためでしょう。
見合いは、相手の母親と私の母、それに紹介してくれた仲人5名で 四日市の都ホテルでの昼食会という形で行われました。
自己紹介を終えた後、"後は若い二人で"と言われ、私の車で長島遊園地に行くことになりました。
普通に楽しく遊んだ記憶があります。お互いに20歳前半だったので、お見合いはただの遊びのような経験などと、結構盛り上がったと思っていました。
悪いことをしたと言う記憶は無いですが、その夜に、断りの電話が来たようです。
あまりにも早かったので、内心は結構傷つきました。
ただ、この見合い話は飲み会の場での盛り上がり話題にはなったので、元は十分採れたとも思います。
また、親友のM君による京都の「何でもありお姉さん紹介」が実現せず、結局は就職一年目の夏のボーナスで行ったソープが初めての経験になってしまいました。
就職当時の風俗産業は活発で、ノーパン喫茶や濃厚な接待をするスナックなどがあり、結構楽しんでいました。
また、仕事も忙しくて面白かったので、彼女が欲しいという感覚にはなりませんでした。強いて言えば、一人暮らしにも慣れて、ノンちゃんが卒業したスナックに飽きてきた頃で、新しい楽しみを求める気持ちはありました。
そんな時、高卒の女子が事務ではなく製造現場に配置されました。
化学物質を取り扱う現場に女子が配属されたのは初めてのことでした。
そのうちの一人、Sさんは私の直属の先輩であるTOさんの所に休み時間になると入り浸っていました。「お父さん」と呼んで仲良く談話していました。
同じ開発にいるため、挨拶程度はするようになっていましたが、初めて挨拶以外の会話をしたのは、武蔵工場全体の忘年会でした。
当時、工場全体の人数は40名ほどでした。

今では許されないことですが、18歳になれば飲酒しても大目に見られた良き時代でした。その忘年会で、SEさんが初めて飲酒し、気持ち悪そうにトイレの前で一人座っているのを見かけました。
一応顔見知りだったので声をかけ、酔い覚ましのために忘年会がお開きになるまで話し込みました。
話の内容はまったく覚えていませんが、なぜかSさんが「家に帰りたくない」と言い出しました。
もしSEさんが厚化粧のイケイケ娘だったなら、そのままどこかに連れ込んでいたかもしれませんが、彼女はほとんど化粧をしていない素朴な田舎娘でした。
後々問題になるのが怖かったので、とりあえず行きつけのスナックで酔い覚ましをして落ち着かせることにしました。いつものスナックでソフトドリンクを飲んで落ち着きましたが、Sさんは帰る気がないようで、泊めることにしました。
私のアパートは一部屋しかなかったため、さすがに一緒に寝る事はできないので、翌日から海外出張に出かけるため実家に戻っているTE先輩のアパートを借りることにしました。そこなら二部屋あるので、Sさんを泊めるにはちょうど良いと思いました。
毎朝、会社まで送っていくため、部屋の合鍵も持っていました。
TE先輩について触れておきます。
TE先輩は有名な電気系大学を卒業し、開発部門で電気設計を担当している3年先輩です。お酒が大好きで、二日酔いになることも多く、午前中はまったく役に立たない姿をよく見かけましたが、頭の切れが素晴らしく、完璧な電気設計を行うことで会社では重宝されていました。
TE先輩は、二日酔いで朝起きないことがあり、その際には部屋の中に入って、無理やり起こして会社に連れて行きました。
また、スナックで飲み過ぎてヘベレケになったTE先輩をアパートに運び込むこともよくありました。T先輩は酒乱ではなく、酒に飲まれて、寝てしまうタイプでした。
小柄で体重も軽かったため、送っていくのに苦労はしませんでした。ただし、酔っぱらうと非常口を開けずに発射しようとすることがあり、よく手伝いました。
こちらも酔っていたので気になりませんでしたが、今こうして振り返ると異常な光景だったと思います。
また、TE先輩の見合い相手を成田国際空港まで迎えに行ったこともあります。
TE先輩は免許を持っていないので、私がアッシー君として送り迎えをしました。
入社当時のアパート探しや飲食代などでいろいろとお世話になっていたので、その恩返しのようなものです。
その成田空港での出来事も思い出深いです。当時、成田空港への出入り検査が厳しく、身分証明書と空港に入る理由が必要でした。
TE先輩は免許もなく、保険証などの身分証明書も持っていなかったため、到着便名も分からず、成田空港に入るのに結構手間取りました。
担当の人が親切で、名前から到着便を調べてもらい、免許を持っていた私が婚約者として無事に入れてもらえました。
今ではプライバシー保護法もあり、絶対に教えてもらえないし、そんな親切な空港関係者もいないでしょう。昔の良き時代でした。
親切な空港関係者のお蔭で、到着便もわかり、無事にT先輩の彼女に会えました。
ピアッツアの時代で後席は狭いですが、ハッチバックなのでトランクに荷物を余裕で乗せられ、彼女を家まで送りました。彼女はしっかり者で、親御さんも良い方で感謝されました。その時、嫁入り道具の布団などがすでに購入されて置いてあり、結婚は本決まりと思いました。
TE先輩の実家は六本木の真ん中でたばこ屋を開いていました。六本木に似合わない門構えの由緒ありそうな木製の母屋で、その角の敷地にたばこ屋を作ったという感じでした。
TE先輩は、いかにも良いところの坊ちゃまといった感じで、おっとりしていました。しかし、数か月後には破談になりました。
TE先輩曰く「優柔不断で付いて行けない」と言われたそうです。おそらく、お酒での醜態を見せ過ぎて呆れられたのだと思います。
TE先輩はその後会社を辞めてしまい、連絡も取っておらず、現状は分かりませんが、私にとっては先輩でありながら話しやすく、反面教師としてさまざまなことを教えてもらいました。
SEさんとの出来事に戻ります。
SEさんは、留守のTE先輩のアパートに泊まらせる事にしました。
しかし、18歳のSさんが親に外泊することを電話する必要があるため、スナックの電話を借りる事にしました。まだ、携帯の無い時代です。
親御さんから「誰と一緒か?」と確認された時に、スナックのママに頼む予定でした。実際には、そこまで不要であっさり許可されました。
私もお酒が入っていたため、深く考えずに勢いでそのような流れになりました。
スナックからT先輩のアパート、そして私のアパートは3角形の位置関係で、それぞれ歩いて5分くらいの距離でした。
合鍵でT先輩のアパートに入り、二人で少しテレビを見た後、Sさんは窓際の部屋の布団で、私は襖で仕切られた台所側の部屋の布団で別々に寝ることになりました。
しかし、しばらくしてSさんが私側の部屋に入り、私の背後から布団に潜り込んできました。SEさんの胸が背中に密着し、明らかにノーブラであることが感じられました。
相手は18歳、会社の忘年会の後という状況で、理性と欲望が頭の中を駆け巡り、振り向くのを我慢していました。本当にいいのかと聞いて、振り向いて手を出そうとした瞬間、なぜかTE先輩が帰ってきました。
TE先輩は、翌日から海外出張で東京の実家に戻ると言っていましたが、パスポートを忘れたと言いながら、フラフラと泥酔状態でアパートに帰ってきました。
しどろもどろになっているTE先輩を窓際の部屋に寝かせ、SEさんには身支度をさせて私のアパートに連れて行くことにしました。私のアパートは寒いので、台所側で使っていた電気毛布をそのまま借りて持っていくことにしました。
私のアパートに着いたら、ガスストーブをつけ、電気毛布を敷いて、Sさんに鍵を掛けるようにと言い残して、私はT先輩のアパートに戻りました。
結局、何も起こらなかった長い夜でしたが、今でも鮮明に記憶に残っています。
翌日の早朝、自分のアパートに戻るとSさんはすでに起きており、顔も洗いさっぱりしていました。
普段からほとんど化粧をしていない彼女が、ほぼすっぴん状態でも驚くことはありませんでした。
幼い田舎娘のように見える彼女が、昨夜の大胆な行動をとった真意は今でも不明です。
この夜の出来事について、お互いに話すことはありませんでした。とりあえず、据え膳を我慢した貴重な夜となりました。
電気毛布をT先輩に返してから、SEさんとドライブすることにしました。
山下公園や横浜港での日本丸や外国人墓地や西洋館めぐりなどのプチ横浜観光に行きました。見合い以来の女の子とのデートで、結構楽しい一日を過ごしました。
また、帰り道すがらのモーテル街でお泊りを誘ってみましたが、きっぱりと断られました。本当に昨夜の経験が何だったのか、未だに分かりません。
当然、このような出来事があれば、Sさんは気になる女性になります。
武蔵工場まで、25分くらい歩いて通勤しているとのことだったので、朝、途中で車で拾って送ってあげることにしました。
SEさんは、8時過ぎに家を出て30分前には工場に着いていると言っていました。翌日から、8時15分頃にSEさんの家の前でピックアップし、20分頃に工場に着くという形になりました。
TE先輩が海外出張で不在だったため、全く問題はありませんでした。
これまでは、8時30分過ぎにT先輩をピックアップして、8時45分頃に武蔵工場に到着するという通勤スタイルでした。
T先輩を早く起こして、一緒にSさんをピックアップすることも考えましたが、3人になるのが嫌で結局、Sさんを先にピックアップし、工場に到着させてからT先輩を迎えに行くという2往復をすることにしました。
このルーティンは40分程度かかりますが、SEさんと朝会うのが楽しくなっていたので、特に面倒とは感じませんでした。
SEさんは、毎朝私のためにおにぎりを作って、事務所の机に置いてくれるようになりました。おにぎりと言っても、海苔も巻かず具もなく、サランラップに包んだ楕円状の米の塊でした。
ただ、塩加減はちょうど良く、ふわっとしていて、今流行りのほぐれやすいおにぎりで、毎朝美味しく頂きました。
私は毎朝TE先輩を迎えに行っていたためこの光景を直接見たことはありませんでしたが、同期のOさんがそのおにぎりの形を整えていたようです。
Oさんは、その海苔も巻いていない、歪な形の米の塊を残念に思い、形を整えずにはいられなかったのです。この話は、飲み会の席でOさんの鉄板ネタとなりました。
この送迎は翌年の2月までの約2か月間続きましたが、その頃になると先輩のKOさんがTE先輩のアパートに寝泊まりするようになりました。KOさんは車を持っていたため、彼とTE先輩が一緒に工場に通うようになり、私の送迎は必要なくなりました。
KOさんは現場で機械製造を担当しており、TE先輩の2年先輩でしたが、同年代だったようです。TE先輩のおっとりした性格に対し、KOさんは喜怒哀楽を表に出す親分肌の人物でした。わたしを含めた3人組は専門分野も機械、電気、化学と異なり、お互いに対する仕事の愚痴もなく、楽しい話題だけの仲間になりました。
都内の色々な場所に飲食に出かけたり、良い思い出がたくさんできました。
仲間のルールとして、絶対に割り勘にすることを決めていたので、気兼ねなく付き合えたのも良かった点です。
私の考えでは、先輩や上司と飲食する場合、美味しい物を奢ってもらう代わりに小言や武勇伝を我慢するという割り切りが必要です。また、言いたい放題したい場合は、最初に割り勘にすることを提案するのも一つの手です。結局は、奢ってもらえることが多いですが。
一番厄介なのは、老害を振りまきながら奢りもしない上司です。
そのような場合、誘われても行かない、一緒に行った時にはなるべく離れる、自分に火の粉が降りかかる時は、大火事にして笑いで落とす、もしくは他の人にうまく振るのが得策です。
ただ、私も上司時代には老害を振りまいた可能性がありますが、一人でも突っ込みを入れてくれる人を作るとうまく回ります。
私の場合、TE先輩の二日酔いが良い経験となり、飲んだ翌日には朝礼から二日酔い宣言をして、酔い覚ましのペットボトルを片手に持つという醜態を示し、苦笑を買うようにしていました。
パフォーマンスではなく、本当に二日酔いであることが多かったですが、おかげで部署は言いやすい雰囲気になっていたと思います。
部下の人たちが笑いながら本人の前で「一人っ子のO型のわがまま上司だから仕方がないね」と言ってくれるようになれば、明るい良い最高の部署と言えるでしょう。
コロナ以来、飲み会もなくなり残念に感じています。
話がズレてしまいましたが、TE先輩はKOさん関連の行動が増えていき、私はSさんとの行動が増えていきました。また、行きつけのスナックが移転したこともあり、TE先輩やKOさんとの飲食はなくなりました。
SEさんとの関係が深まっていくのは、そのような周辺の変化も後押しがあったと思います。
このNOTEを書いてみて、人との新しい関係を築いていくには運も必要であると改めて認識できました。


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