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思い出29               ママゴトのような楽しい生活

新居での生活が始まります。
携帯の無い時代で、狭山ヶ丘の荻野産婦人科までタクシーを呼んで病院に行くと、最低でも30分程度かかります。しかし、プーの実家からだと私の車で会社から数分、産婦人科まで15分で行けるので安心です。
そのため、会社に行くときは実家にプーを預け、帰りに一緒に帰ってくるという日常が続きます。通常出勤の月〜金の朝食や夕食は、実家でご馳走になることが多くなります。
出張などがある場合には、プーは実家に預けていました。隣の叔母さんは車を持っており、またタクシーを呼んでも20分で病院に行けました。
土日は買い物などで、狭山市駅そばにあるニチイが経営するサティによく行っていました。子供が生まれてからも独立するまで数十年間お世話になりました。
3階にはプール教室もあり、比較的安くて何でも揃う大型スーパーでした。
2010年にイオンになりますが、私も含めて地元の人たちはサティと呼び続けて重宝していました。
昨年、サティは取り壊され、新しく「そよら武蔵狭山」という、少し訳の分からない名前のショッピングモールになりました。新しくなってから1年ほど経ちますが、私はまだ一度も行っておらず、昔のサティを懐かしんでいます。
当時、サティの駐車場から右折して道路に出ると、すぐに国道16号線と交差するため渋滞がよく発生しました。大概はスムーズに右折させてくれる車が多かったのですが、その日は車間を詰められ、入れてもらえないことがありました。こちらが悪いのですが、なぜか虫の居所が悪く、睨みつけてクラクションを鳴らしてしまいました。
その後、その車の後ろに入ったところ、急に止まり、私の車は後ろからぶつかってしまいました。たぶん、ブレーキランプは点灯していなかったと思います。
軽く当たっただけで、私の車はバンパーに少し傷が付いただけでしたが、相手の車は後ろの弱い部分が結構へこんでいたように見えました。
無理やり入ろうとしたこと、睨みつけてクラクションを鳴らしたことなどで、こっぴどく怒られました。もっと言いたいことがあったのでしょうが、助手席に座っていた若い妊婦のプーが泣きそうな顔をしていたので、辛うじて許されました。
警察は呼ばず、お互いの住所と電話を確認し、後は保険屋に任せることになりました。
携帯も無い時代で、警察を呼ぶ手段も無かったと思いますが、事故証明が無くても保険は降りたと思います。
ただ、私の車は実家のおもちゃ屋名義だったので、お袋にも知られることになり、大事な妊婦さんを乗せているのだから気を付けるようにとしつこく注意されました。
普通の接触事故でしたが、1か月後、その方が自動車レースで瀕死の重体になったことを新聞で知りました。地元では有名なレーサーだったのです。ブレーキランプを点灯させずに止まるのは彼の得意技で、絶妙なタイミングでわざとぶつけさせられたのではないかと思いました。
その後、その方がレースに復帰されたかどうかは分かりませんが、レース事故の原因が私との接触事故の影響ではないかと後味が悪い経験となりました。
それ以来、サティから右折で出ることはやめ、左奥から大回りして出るようにしました。
右折は渋滞の要因になっていたようで、すぐに右折禁止になり、簡単に左側に出られるように修正されました。
そのように、買い物をしたりして、土日は新居で仲睦まじくまったり過ごしていました。
そして、思い出27にも記載したように、予定日より2か月早い7月に、標準体重の長女が無事に生まれました。
お袋が姓名判断鑑定士に頼んで、いくつかの名前を用意してくれました。当時はキラキラネームもなく、一般的な名前ばかりでしたが、初恋の女性および初めてのスナックのお気に入りのバイトの子と同じ「のり子」という名が頭から離れなくなりました。
漢字はまったく異なるので後ろめたさもなく、プーにも反対されず、「のり子」に決めました。さすがにプーおよび娘に本当の名前の由来は教えたことはありません。
何も考えずに勢いで付けた名前ですが、今では大学1年生の子供を筆頭にした3児の母親になっており、これまで順調な人生を歩んでいると思います。
当時は出生前検査もなく、五体満足で生まれてくれることを喜んでいた時代でした。
今では出生前検査ができ、中絶も可能となっており、何も考えずに生んでいた時代とは異なり大変だなと思います。
また、子供を生んだ後も、共働き状態での近所付き合いや学校行事などが大変だと想像できます。
昔のように、近所の子供達と遊んで放っておいても自然と育つという時代は終わり、今では手をかけて子育てする必要があります。
金銭面も含めて、精神的なプレッシャーが無くならない限り、出生率は高くならないと思います。
私たち夫婦は子供が3人、孫が5人いますので、人口問題に大きく貢献はしていないものの、足を引っ張っているわけでもないと思います。
未だ独身の長男と孫世代の未来に期待しています。
予定日より2か月早いですが、標準体重で生まれてきて、実家を当てにしない本当の意味での新居生活が始まります。
産婦人科で最低限のことは教わりましたが、インターネットもない時代だったため、結局は近所の井戸端会議や親からの情報を参考にして育てることになりました。育児雑誌なども売られていたと思いますが、お互いにマンガ以外の本には縁がなく、買った記憶はありません。
当時は本を読む習慣がなかったので、後に紗倉さん関連の小説やエッセイを読むようになるとは想像もしていませんでした。
当初、母乳を押すと少しは出ていたので、母乳で育てたいと頑張っていました。しかし、母乳を与えても、しばらくすると吸わなくなり、いつもぐずっていました。乳首をくわえさせると静かになるため、一日中与えていたせいで乳首も痛くなってきたようです。
新しく隣に引っ越してきた方に相談したところ、乳が張っていないということは母乳の出が悪く、満腹になる前に赤ん坊が疲れてしまっているので、粉ミルクと併用した方が良いとアドバイスをもらいました。
私たちが引っ越した時、隣に新築の家ができあがっていて、1週間も経たないうちに引っ越してきたその方には2歳の長女がいて、旦那さんは私の2〜3歳上でした。
2〜3年先を行くその家族はプーの相談にも乗ってくれ、子供もよく一緒に遊んでもらいました。
私たちは2年後追いになるのですが、家族構成も不思議と同じで、長女、次女、長男という順番でした。さらに驚くことに、旦那さんは私と同じように福島に単身赴任しています。
現在は年金生活をされていて、子供たちは皆結婚して家を出ています。今はお孫さんが遊びに来ているようで、楽しそうです。
そのような隣の奥さんのアドバイス通りに粉ミルクを与えると、赤ちゃんはたくさん飲んで、ぐずらずによく寝るようになりました。
最初は母乳と粉ミルクを併用していましたが、母乳の出が悪かったため、途中から粉ミルクだけになりました。
母乳の出が悪く、実用性が乏しかったのですが、液体クロマトグラフィのアプリケーションとしては役立っていました。
ネット通販も、西松屋やマツキヨなどの専用チェーンがまだ無かった時代だったので、なんでも揃うサティで粉ミルクを購入することになります。
多めに作るためかなりの量を使いましたが、店員さんが「箱買いがお得」と教えてくれてからは、箱買いに切り替えました。
当時は店員さんとの会話もあり、色々と教えてもらえました。
のり子はアトピー気味で、痒がるため手袋を付けて搔くのを防いでいました。
その状態を見て、サティの店員さんがワセリンを勧めてくれました。
アトピー皮膚炎という言葉もまだ広まっていない時代で、今では症状や体質に合わせてさまざまな薬が調合されますが、当時はワセリンが合っていたようで、かなり改善されました。
のり子は今でも軽いアトピーがあり、冬場などの乾燥する時期には皮膚科に通っています。アトピーはアレルギーが原因で遺伝性とも言われていますが、プーも私もアレルギーはなく、次女や長男もアトピーにはなっておらず、のり子の子供たちにもその傾向は見られません。不幸中の幸いです。
今では、店員さんとの会話もなく、バーコードやカード支払いの最低限のやり取りだけになってしまい、寂しい世の中になったと感じます。
少し前までは、店員さんと話すのが面倒だと思っていましたが、年を取るとその感覚も変わってきました。
先日、入間市の百貨店に入っているくらづくり本舗で、店員さんとお客さんとのやり取りが昔ながらの感じがしてほんわかしました。
やはり、昔ながらの地元の老舗では、今でも昔の商店街の雰囲気が受け継がれていて良いものだなと思いました。
スイートポテトのべにあか君や餅入り小倉餡のくらづくり最中など、甘いもの好きにはたまらないお菓子が揃っていて、飽きが来ない川越銘菓です。
そのあたりの銘菓を知ったのも、紗倉さんのイベント用のプレゼントを購入するようになったからです。推し活のお蔭で、色んな刺激をもらって楽しんでいます。
種々の周りの手助けもあり、ママゴトのような初めての子育ても順調に進んでいきます。昭和親父で家のことをまったくしなかった私が、長女だけは、ベビーバスを使って、お風呂に入れていました。
耳にお湯が入らないように片手で塞ぐためには、大きな男の手が適しており、私が入れていました。
また、哺乳瓶の滅菌をしたり、おむつを換えたりも手伝いました。
長女の時は布おむつを使っていました。
紙おむつもありましたが、今のような高分子吸収体ではなく、布おむつと同様に水分を完全に吸い切らないため、1日8枚程度換える必要があり、コストパフォーマンスが悪かったです。
出かける時のみ紙おむつを携帯していました。また、紙おむつの方が早くオムツが取れるという風潮もあり、毎日布おむつが並んで乾されていました。
次女が生まれた2年後には、紙おむつと布おむつを半々ぐらいで使っていたと記憶しています。女の子ということもあり、2人とも1年ぐらいでおむつが取れたので、紙と布の違いはあまりなかったように思います。
今では、高分子吸収体の紙おむつが使われ、布おむつが乾されている光景は見なくなりました。
3人目の長男の時には、100%紙おむつを使い、パンツタイプも増えていました。よちよち歩きし始めると、パンツタイプの方が邪魔にならず、子供も動きやすいようでした。
紙おむつの進化とコストダウンには、皆喜んでいると思います。
よくある話ですが、初めての長女とそれ以後の子供とは、育て方が全く違いました。
長女の時は、離乳食をきちんと作り、ミルクから徐々に果物や離乳食、ボーロやベビー向けの柔らかいせんべいなどを食べさせ、夫婦二人で大事に育てた感じがあります。
ちょっとでも異変があれば心配して病院に連れて行きました。
次女になると、私は全く子育てを手伝わなくなりました。
風呂もベビーバスを使うことなく、プーが風呂に入る時に一緒に入り、少々耳に水が入っても気にしなくなりました。
そのまま洗い場に寝かせておいて、普通に自分の体を洗っていました。
長女が一緒に入る時には、水しぶきで、顔も含めてお湯でびしょびしょに濡れることもありますが、次女は楽しんでいる様子でした。
お風呂に落としてしまうこともあるようで、泣いたこともありましたが、耳の中を綿棒で拭き取るだけで済ませていました。
また、次女がよく言うのですが、長女の頭は本当に丸かったのに対し、次女は絶壁まではいかないものの、楕円形でした。赤ん坊の時にこまめに頭の位置を変えてあげれば丸くなるのですが、2人目になるとつい放っておいてしまい、頭の形が歪んでしまいました。
3人目の長男の時には、のり子が6歳になっており、遊び半分で動かしていたので、頭はきれいな丸になっていました。
次女に「なぜ私だけ頭の形が歪んでいるの?」と聞かれた際には、「頭が良いから脳みそが出ているんだよ」と適当なことを言っていました。
そのおかげかどうかは分かりませんが、次女だけは大学に進学しました。
食べ物に関しては、2人目以降は全く異なりました。
離乳食は作らず、大人の食べ物をスプーンで崩して与えるだけで済ませました。
消化されずにそのままの形でうんちに混じって排出されることもあり、たまに腹を下すこともありましたが、問題なく成長しています。
暫くして直れば、病院にも行かず、長女への対応とはまったく違っていました。
特にお菓子については、長女が食べているものを欲しがるので、そのまま与えていましたが、大きな問題にはならなかったです。
四日市に帰省した時に、中学校時代から親友だったM君家族と会っています。
ちょうどM君の長女と次女が同じ年でしたが、M君の長女は離乳食を食べさせており、ボーロや柔らかいせんべいなど子供専用お菓子を与えていましたが、うちの次女は、長女と同じチョコレートなどのお菓子を食べておりびっくりされました。
のり子の6歳下の長男においては、姉たちがママゴト遊びのようにお菓子を与えていたため、離乳食を超えて、赤ん坊の時から、お菓子もよく食べていました。
口に合わないものは普通に吐き出すので、人間の生きていく本能の凄さを感じました。

また、7月に長女ののり子が生まれた際、初節句にはプーの親御さんが丸広百貨店でひな人形を購入してきました。
私の実家がおもちゃ屋だということは知っていたものの、節句人形は百貨店か大手人形店で買うものだと思い込んでいたようです。
私が丸広百貨店に電話して返品しました。
翌年の2月、プーのお爺さんが亡くなり、返品のお金が葬式代に充てられて助かったと言われました。
当時、ひな人形は、百貨店では高級品が多く、約20万円ぐらいしますが、専門店であれば10万円程度で、見た目にももっと立派なものが手に入りました。
百貨店は高級品が多くコストパフォーマンスが悪いので、専門店で様々な組み合わせを行った手ごろな価格の節句人形をお勧めします。
私の実家から、7段飾りの立派なひな人形を送ってもらいました。たぶん、それでも原価は7万円程度だったと思います。
実際には、次女の初節句の年までの、5回ほどしか飾らなかったです。
飾るのに自信が無い方には、お内裏様だけのケース入りがお勧めです。
ちなみに、長男の時は、私が大好きな藤堂高虎の鎧飾りを送ってもらいました。
子供時から、紺色で凄くカッコ良かったと思っており、子供ができた時には、飾ろうと想像していました。それは実現できましたが、初節句の時だけしか飾らなかったと思います。
今でもあると思いますが、ずっと箱に入っています。
当時、鯉のぼりも送ってきましたが、ポールを建てるのが大変で、結局飾らなかったです。
鯉のぼりは、大きな庭が無い限り、おもちゃの小さな鯉のぼりがお勧めです。
長女のり子が生まれた翌年から、のり子が中学に上がる前までは、毎年夏休みに四日市に帰省していました。
しかし、のり子が小学校6年生の時、実家が借金のカタで取られ、さらに残った借金を私が肩代わりすることになりました。
そのため、帰省しても泊まる場所が無くなり、実家には行かなくなりました。
長女が1歳から12歳になるまでの10年間、毎夏、四日市の実家に車で帰省していました。当時は運転手だけがシートベルトを着用する義務があり、チャイルドシートなどは必要ありませんでした。
赤ん坊の時には持ち運びできるゆりかごに入れて後部座席に置いていました。
今考えると、事故があれば赤ん坊は外に飛ばされていたかもしれません。
子供達は3人ともチャイルドシートなしで育ち、フラットシートにして寝かせて移動していました。
孫が生まれた時に、初めてチャイルドシートを購入しました。
長女の家には車がなかったので、車を持っている次女に譲りましたが、長女には3人の子供がいて、次女には2人しかいなかったので一つ余りました。
また、長女の時に購入したサークルにも対応した折りたたみ式の木製ベッドは、長女、次女、長男と使われ、30年後の次女の子が生まれた時にも使われました。
昔の木の折りたたみベッドは重いですが作りがしっかりしており、長持ちしました。
今考えると、リースの方が最新機種が使えるので便利だと思います。
周りの様々な人達のアドバイスのおかげで、20歳の若葉マークのプーでも3人の子供を育てることができました。
今は、さまざまな人との接点が減り、ネット上に情報が氾濫しているため、アドバイスが必要とされる場面も少なくなっています。さらに、もしアドバイスが間違っていた場合には訴訟のリスクがあるなど、世知辛い世の中になったと感じます。
このような状況も、出生率の低下の一因になっているのかもしれません。
ネットなどの情報が無くても、子供が子供を育てられるという、あたたかい時代があったことを懐かしく思います。

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