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思い出19  種々の経験ができた海外展示会への参加

クロマトグラフィー関連の事業は、分析機器や科学機器メーカーが担っており、その業界では一堂に会する展示会が定期的に開催されています。
国内では、東京モーターショーやゲームショーで有名な幕張メッセで、JASIS(日本分析機器展)が年1回開催されています。
入社する前から、弊社は国内で開催される展示会に出展しており、毎年最新情報を得るために、多くの社員が見学し、説明員も行います。
1990年頃からは、HPLC充填剤C18-2が発売され、お客様向けの企業セミナーも開催されるようになります。
弊社は、クロマトグラフィーの上手に使うノウハウを中心に、新製品の広告を織り込みながらセミナーを行うようになります。
最初の頃は私が講師を務め、セミナーはユーザーから好評で、100名定員の会場が満員になるほどでした。

セミナーは50分間で、真剣に聴衆に受け止めてもらえました。
通常は質疑応答が行われますが、私の場合は、興味を持ってもらうために自社ブースに来てもらうようにしました。
そのため、セミナー後は一服してから、ブースで説明員としても参加し、お客様の意見も聞けて結構楽しかったです。

5年ほどセミナー講師を務めた後、カスタマーサポートセンターや新人開発者にそのバトンを渡しました。
国内の展示会には、新製品の説明を兼ねて60歳まで毎年参加していました。

また、HPLC充填剤C18-2が海外でも需要が高まったことから、海外展示会への出張の機会も与えられました。
英語が話せない私でも、HPLCカラムの海外販売や新規事業の調査のため、海外部署に同行しました。
以下が私の海外出張の履歴です。

1991年4月:ドイツ、ベルリン - analytica展示会見学、代理店訪問

1992年3月:アメリカ、アトランタ - PITTCON展示会見学

1994年11月:アメリカ、ミネソタ・セントポール - 3M社訪問、輸入検討

1996年6月:アメリカ、サンフランシスコ - HPLC学会参加、初のポスター発表・文献化

1997年6月:オランダ - GCフューズドキャピラリー輸入先表敬訪問

1999年6月:スペイン、グラダナ - HPLC学会での展示開始、ポスター発表・文献化

2000年1月:ロスアンゼルス –固相などの新規製品打ち合わせ

2004年4月:アメリカ、シカゴ - PITTCON展示、代理店パーティ、ランチョンセミナー

2007年2月:アメリカ、シカゴ - PITTCON展示会見学、サンフランシスコでの新規バイオ事業

2009年12月:インド - Analytica Anacon India展示会訪問、セミナー参加

2010年6月:インド - 客先訪問、クレーム対応

海外での展示会や訪問は新しい視点を提供し、事業にも多大な影響を与えていると思います。そのような重要な海外出張に携われた貴重な経験でした。

国際展示会として、毎年米国で開催されるPittconと2年に1回開催の欧州展示会analyticaが、世界2大展示会として知られています。
国内展示会のJASISはアジア最大級ですが、Pittconとanalyticaは世界中から多くのメーカーが集まり、その規模は5倍以上にも及びます。
併設される学会も数十室あり、多くの発表が行われます。
初めて参加すると、この業界における日本の規模の小ささに驚かされますが、日本メーカーも多数参加しています。

Pittcon(ピッツバーグカンファレンス)は毎年、ニューヨーク、シカゴ、ニューオーリンズ、アトランタ、ロサンゼルスなどを巡り、開催されます。
弊社も新しい輸入品を探すため、古くからPITTCONに参加してきました。
後ほど入社されるHN先生も、通訳などのサポートでお世話になったそうです。
ただ、その時代は慰労も兼ねており、偉い人たちが集まり、メキシコやハワイでの豪遊も行われたと聞きます。
私は初めて海外部のYA部長に同行して、1991年に34歳の時に欧州最大の国際展示会であるanalyticaに見学参加しました。
HPLCカラムC18-2が海外で発表され、欧州の代理店から興味を持った数社から取り扱いの問い合わせがありました。
その代理店への売り込みが主な目的で、海外部YA部長が商談をまとめる中、技術的な質問のフォローとして私も同行しました。
analyticaに出店する会社には展示会場で、他の会社には直接訪問しています。
欧州内を飛行機で移動しますが、両側1〜2列のプロペラ機でしたが、まったく揺れがなかったのには驚きました。
音は静かではありませんが、普通に話ができたので、気にはなりませんでした。
ワイン1本とハムサンドとチーズという簡単な軽食が出されましたが、美味しく、特にワインはコクがありながら飲みやすく、最高でした。
analyticaはドイツのベルリンで開かれ、広い敷地に展示棟が6棟並んでいる大きな展示施設でした。
各展示棟の間には、新緑が広がり、ベンチや食堂などの休憩所が点々としていました。
一番驚いたのは、ほとんどのブースに、商談しながら飲食できる場所が用意されており、ビールなどの酒類も出されていたことです。
数年後には、日本の展示会でもブースに商談などの打ち合わせ場所を設けるようになっていますが、まだアルコールを提供しているところは見たことがありません。
4月開催で天気に恵まれ、15℃ぐらいの心地よい日差しが降り注ぐ春の陽気でした。
しかし、乾燥しており、喉が渇きました。
そこで、さっぱりするビールカクテルやスパークリングワインが喉越し良く、朝から飲んでいました。
アルコールを飲んでも、すぐにアルコール分が飛んで抜けるような感じがしていました。たぶん、雰囲気だけで、夜は熟睡していたので、一日中、酔っていたと思います。ベルリンの壁が崩壊して、東西ベルリンが統一された翌年だったので、ブランデンブルク門には、観光客などの人が集まり、多くの出店がありました。
そこで、ベルリンの壁の石が多く売られていました。
西ベルリンと東ベルリンは地下鉄で繋がっており、自由に行き来ができるようになっています。
しかし、外国人には出入国の手続きが必要で、特別な入管所が設置されていました。
パスポートを見せて、サインをして入国印をもらうという簡単な手続きで、良い旅の思い出になっています。
当時、東ベルリンには、沢山の博物館が点在しており、ギリシャやローマの建造物、壁画、中近東やイスラムの美術品など、日本では見たことが無い迫力ある展示物に感動しました。
まだ、通貨は統一されておらず、東ドイツの一般住民が、いたる所で観光客用に、東ドイツ通貨を販売して、外貨を稼ぐという、統一時期にしか見られない珍しい状況に会えたのも幸運でした。
西ベルリン市内では、石畳の道でBMWのタクシーが走っており、しっかりした足回りで安定して走れ、まさにドイツ車らしい感じでした。
ビアガーデンにも行きましたが、石造りの建屋の地下にあり、床も石畳で、丸い木の机と椅子が数十個並んでいました。その間を忙しくビールジョッキを配る様子がすべてにマッチし、歴史を感じました。
コクがあり美味しいビールでしたが、零れると机にへばりつくほど糖度が高かったです。ソーセージもありましたが、玉ねぎのザワークラウトとニンニクが利いたほうれん草炒めが、ビールに凄く合って美味しく、楽しい時間を過ごせました。
色々な経験ができた初めての国際展示会参加でした。
その後、世界最大の分析関連の展示会であるPITTCONには、1992年のアトランタ、2004年のシカゴ、2007年のシカゴの3回参加しています。
初めてのPITTCONは1992年で、慰労対象者がいない状況で、HA部長、KUさん(後の海外部部長)、TAさん(後の開発担当役員)と私という、
過去には無かった若い社員の派遣になりました。
観光地への立ち寄りはありませんでした。
以後、若手が参加するようになり、翌年からはPITTCONに出店するようになり、会社にとっても区切りのPITTCON海外出張となりました。
展示会の規模の大きさや会場で配られるリンゴの美味しさ、併設学会の規模、参加人数など、すべてが驚きの連続でした。
前年に参加したanalyticaでは、建屋が散らばっていたのに比べて、PITTCONではメインの大きな建屋に集約されており、その広さ、大きさ、人の多さに圧倒されました。
analyticaではEU中心で、和気藹々としたゆったりとした雰囲気を感じました。
それに対して、PITTCONでは、年に一度の自社製品の強力なアピールが求められ、成功に向けた緊張感が伝わってきました。
聞いたことのない小さなメーカーが多数出展していることに驚き、弊社でも出展できるだろうという考えが3人で共有されました。
そして、集めた展示会資料などを日本に送るのが最後の仕事でしたが、予想以上に高額で、皆で持ち金を出し合って支払う経験は新鮮でした。
翌日、出国するだけで問題はありませんでしたが、現金がほとんどなくなってしまいました。
HA部長も同行していましたが、学会に集中しており、入出国も含めて完全に別行動でした。一度だけ、皆で夕食を食べましたが、その時の私だけが頼んだアイスケーキデザートが、直径15cm、高さ10cmほどのホールケーキ1個で、その大きさに驚きました。
皆はアメリカのアイスケーキの大きさに危険性を知っており、私以外は注文しませんでした。
私をからかったのだと思いますが、皆ニヤニヤしていました。
濃厚で美味しく、一人で食べきってしまい、皆が驚いていました。HA部長との楽しい最後の晩餐でした。
その出張中にHA部長は退職届けを出して辞めています。

帰国後、役員の方々からその様子を何回も聞かれたのは覚えていますが、別行動だったので、どこに行ったのかはわかりませんが、併設学会で口頭発表を行っていたことは、聴衆したので確認できました。
帰国子女などのネイティブでない限り、日本人の英語は理解しやすかったです。
その後、アメリカ2位のHPLCカラムメーカーの顧問になり、自社のC18-2もどきを製品化させましたが、2年で辞めました。
日本でいろんな会社の技術アドバイザーを経て、科学系財団での技術顧問に落ち着いたようです。
そのような事態が生じてから、開発部門では、無期限の秘密保持や同業者への就職までを禁じた厳しい内容の特別誓約書を書かせるようになりました。
労働基準法の問題もあり、今ではもっと柔軟な内容になっていますが、営業を含めて誓約書は提出しています。
HAさんによる種々の事件から、良い経験を得て、会社がランクアップしたと思います。
そして、翌年から、HPLCカラムやGCキャピラリーカラムなどのカラム中心で、PITTCONに出店することになりました。
PITTCONは、アジアのバイヤーも多数参加しており、まだ、取り扱い代理店がない、弊社のような無名のメーカーを探している時代でした。
その機運に乗って、アジアへの輸出は大幅に増加しました。
1993年から、PITTCONに出店するようになったと思いますが、ブースも立派になり、おそらく2004年のシカゴのPITTCONが全盛期だと思います。
その展示会に私も参加しています。
お世話になっている代理店を一堂に集めての代理店ミーティングが開かれるようになり、私も参加しました。
HPLCカラム開発担当者として紹介され、拍手で迎えられ、小学校での絵画コンクール表彰以来の心地よい思い出になりました。
代理店同士が競合する場合もあるので、席順なども重要になりますが、年間の売り上げ上位が発表されます。
具体的な金額は公開されませんので、代理店間での探り合いが生じます。
さまざまな国の代理店が集まり、探り合いながら楽しむミーティングは、良い経験になりました。
また、その展示会では、初めてユーザー向けのランチョンセミナーを開催しました。
無料で提供されたため、食べ物に吸い寄せられ、約40名の参加者で大盛況でした。
当時は、日本語で私が説明して進行し、海外部が通訳する形式をりました。
しかし、どうしても間延びしていまい、良いセミナーではなかったと感じました。
その後は、海外部が原稿に沿って英語で説明し、技術者がフォローする形式に変更されました。
今では技術者が直接英語で発表するようになりました。
要するに、英語が話せないと海外出張に参加することが難しくなっていす。
英語が話せない私でも、昔は海外出張に行かせてもらえる良い時代でした。
国際展示会に行かなくても、インターネットで技術情報が簡単に入手できるようになり、また、急速に成長したバイオ関連の展示がPITTCONから分離して独立したイベントとして開催されるようになり、PITTCON自体が衰退していく時代になりました。
2007年のシカゴPITTCONにも参加しましたが、会場の雰囲気は前回よりも静かで、展示スペースが3分の2ほどに縮小され、参加者も少なくなりました。
熱気も以前ほど感じられませんでした。
PITTCON名物の美味しいチリドックは、並ばずに手に入るようになっていました。
ソーセージは普通の大きさですが、ソーセージが隠れるぐらいのたっぷりのチリソースがかかっており、そのスパイシーな味わいと野菜の甘味が絶妙で、本当に美味しかったです。また、チリビ-ンズドックも、よりスパイシーで辛味が際立っていて、疲れた体には最高のご褒美でした。
その後、アメリカに現地法人が設立され、展示会への出店も現地法人が担当するようになり、日本からの参加も減少し、analyticaと交互に展示会に参加する形式に変わっています。情報収集の手段も国際学会や代理店の同行による顧客訪問などに移り、展示会への参加が海外出張の主たる目的ではなくなっていきました。
自分の開発品が輸出され始めて、展示会参加で海外に行かせてもらえた楽しく良き思い出です。
こんな経験をさせてもらえた会社、その楽しい経験を思い出す機会を与えてくれたNOTE 及び NOTEの存在を教えてくれた紗倉まなさんに感謝しています。

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