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思い出27 同棲生活から妊娠、入籍、新居購入、長女誕生と言う 怒涛の3カ月間

忘年会で介抱してから1年後、同棲生活が始まりました。私は27歳、彼女は20歳、性欲旺盛の時期で、毎晩寝る前と朝会社に行く前に1日2回のまぐわいが日課となっていました。
その頃、私の先輩であるTEさんは、同居していたKOさんに送り迎えしてもらうようになっていました。
行きつけのスナックも無くなったため、車で10分ほどの別のスナックに通うようになっていました。そこには、KOさんの上司であるTU課長らと、かなり頻繁に通っていたようです。
誘われて数回行きましたが、如何にお金を使ってもらうかと言うキャバレーに近いスナックで、飲み代も高かったです。
また、行き帰りはタクシーになってしまいます。
TU課長、KOさん、TEさんとも良い人達で、個々で飲むと楽しかったです。
しかし、その3名が集まると共通の仕事の話題になり、私は参加できず、疎外感を感じます。そのような事で、そのスナックに通う事はありませんでした。
そのように、一番飲みに行っていたTEさんからの誘惑もなく、楽しいだけの同棲生活に没頭します。
自炊が多くなりましたが、狭山ヶ丘は、住宅地で飲食店も多く、ファミレスから小料理店や定食屋に変わりました。駐車場が駅前だったので、どこに行くにしても楽でした。
そのような同棲生活で、SEさんのお腹が大きくなってきて、妊娠していることは見た目に分かってきました。SEさんから何も言われなかったので傍観しました。
後で聞いた話ですが、同じ部署のパートさんに、ツワリなどの相談に乗ってもらっていたようで、私より良く知っていたようです。
なんとなく、降ろすように言われる事を心配して、何も言わなかったようで、そのうち言いそびれて、最後まで黙っていたようです。
当時は、エイズは知られておらず、お互いに不特定多数との関係は無かったので、性病の心配もなく、最初からコンドームを使ったことはありませんでした。
基本、外だしでしたが、私のいて座の誕生日の時に、中に出しても良いと言われて、初めて中出ししています。我慢しての外だしも良いですが、ぴったり体がひっついて余韻を楽しめる中出しはやはり気持ち良かったです。
予定日とぴったりあっていましたので、実際に生まれるまでは、誕生日に仕込んだ子だと思っていました。
実際には。外だしに失敗して、数か月前に仕込んだと思います。
4月にSEさんが体調を崩し、駅前の荻野産婦人科に付き添いました。
妊娠している事が確認され、初めての診療が、何でこんなに遅くなったのかと院長に怒られたようです。
そして、母子手帳を作り、予定日は9月頃と言われました。
私のいて座の誕生日の中出しにぴったり合っています。
正式にプロポーズをする事も無く、お互いに流れで籍を入れる事になっていきます。
良く言うようなラブラブな関係ではなく、お互いに居ても邪魔にならず、落ち着ける関係だったと思います。若い二人なので、当時マグアイだけは毎日行っていました。
本能に任せていたような気がして、ラブラブからは程遠い物だったと思います。
紗倉さんには、現在でもお世話になっていますが、二人でのマグアイは行わなくなって、もう2年経っています。
初めての産婦人科での診断では、9月が予定日でしたが、いつ妊娠したのか、生理がいつから無くなったのかも曖昧で、初診だったため予定日は大きくズレることになります。
まずは、相手の親御さんに妊娠を報告して、結婚の許可を得る必要がありました。
SEさんと一緒に報告に行く事になります。
いつもSEさんの家に行くと時は、前の農協の空き地に。車を停めます。
その空き地で、偶然お父さんにお会いします。
変な形ですが、車から降りて初めて挨拶しました。
舞い上がっており、あまり覚えていませんが、特に怒っている雰囲気はなく、優しく対応してもらって安心したと思います。
今では、当時の父親の気持ちが想像できます。
その20年後に、同じシチュエーションを、実の娘で経験する事になります。
母親の真似をしたわけでは無いと思いますが、長女も結婚前に妊娠します。
お腹が大きく妊娠している事は、見た目で想像できましたが、私は蚊帳の外でした。
そのような状況で、お相手の男性を紹介される事になります。
詳細を聞かされていないので、祝福するしか無いです。実感も湧いて来ず、これからの対応を具体的に考えるような余裕もなかったです。
娘婿に対して、優しく接したつもりですが、相手がどのように感じたかはわかりません。
長女の娘婿とは、その妊娠報告時と初孫が生まれた時に、産婦人科でもお会いしています。
娘いわく、旦那は人見知りするようで、その2回しか会っていないと思います。
SEさんの父親とは、長女と次女を妊娠した時に、その実家で、朝食と夕食をいっしょに頂いていましたが、そんなに会話した覚えはありません。

妊娠報告の話に戻します。初めて駐車場で挨拶して、バツは悪いですが、そのまま家に上げてもらいます。
そこで初めてお姉さんとお爺さんがいて、ご両親と合わせて5人で暮らしていることを知りました。
お姉さんは一度就職したものの、仕事が合わずに辞めてしまったと聞きました。そのお姉さんだけが御健在です。
話の内容はあまり覚えていませんが、責任を持って一緒に子供を育てるというようなことを言ったと思います。
その時、隣に叔母さん家族が住んでおり、かなり親密な関係のようで、その場に叔母さんも居られて、仕事などについていろいろ聞かれたと記憶しています。
とりあえず、結婚の許可は得られました。
一応、私の母にも連絡しました。
電話した翌日には、母が来ました。
腹帯やマタニティ関連の衣服を購入しました。
SEさんの家にも挨拶に行き、これからの事を決めると言う事で、連れていきました。
商売人の母と隣の親戚の叔母さんが、結納などは行わないこと、結婚式は行わなくても良いこと、行うとしても小規模で、式を挙げるかは二人が決めること など 完全に場を仕切り二人で決めていきました。
私たち二人とも口挟むことなく、頷いているだけでした。
次に会社への報告になります。
当時、社内結婚した場合、妻は退社するというのが一般的でした。
まだ共働きは少なく、結婚したら妻は家の面倒を見るという典型的な昭和時代の習慣が根強かったです。
そのような時代ですので、SEさんは5月に退職という形になります。
今では、共働きが普通になり、会社も辞められると困るので、結婚してもそのまま続けてもらうようになっています。
ただし、社内結婚の場合には、同じ課に居ると、お互いや周りも変な気を使うので、好ましくなくどちらかが課を移動させられます。
私も、直属の部下が、課は異なりますが、同じ部の方と結婚する事になりました。当初、課が違うので問題ないだろうと言う事でしたが、役員会で急遽、私の部下の男性社員の方が、異動になりました。仕事はそのままで、評価も私の方で行うと言う建前だけの異動でした。
大人の事情と言う歪な異動でした。
担当役員が変わった1年後に、なぜそのような歪な形になっているかを確認され、すぐに、私の下に戻されました。
それ以来、課が異なれば良いと言う暗黙の了解が得られていると思います。
さすがに、同じ部署は観た事はありません。
業務規程には、記載されていませんが、まともに記載すると労基違反になりかねないので仕方ないと思います。
今では、出産に伴う休暇や子育て休暇などの手当ても充実しており、子供を産むからといって辞めることはなくなっています。

当時は、育児休暇もなく、結婚イコール退職が一般的でしたので、SEさんも退職します。
当時は、3年経たないと退職金が出ないという社内規定がありました。
そのため、退職金はまったく出ません。
しかし、結婚祝いと出産祝いの名目で、役員一同から退職金代わりに10万円をもらったそうです。
今では、結婚祝い、出産祝いなど 種々規定されており、当然、退職金も出ます。
婚姻届けを出して入籍しましたが、住民票を移さずに婚姻届けを出したため、形式上は別居結婚の形になってしまいました。
住民票を移してから籍を入れる方がスマートだったと思いました。
また、お袋から「子供が生まれるなら一軒家の方が良いだろう」との提案を受け、家を探し始め、モデルハウスの中古物件ですが、2日後には新居を決めました。
結婚式に関しては、二人で決めることになっていたので、結婚式場探しを二人で行いました。
SEさんがお父さんと慕う私の直属の先輩であるTOさんに仲人を頼もうと声をかけました。
一応、担当長であるHA係長が引き受けないならば、TOさんが行うと了承してもらいました。
当時はあまり考えませんでしたが、会社の人に仲人を頼むとなると、その上司の意向は無視できないと思います。
私の場合、部下の仲人を1回、主賓の挨拶を1回、乾杯の音頭を1回行っていますが、主賓の挨拶が一番緊張しました。結婚式を挙げない人や会社の人を呼ばない場合が多く、助かっています。
結構式場探しに戻します。
当時はインターネットがなく、電話帳で近場から片っ端から電話して、予定日の2カ月前の7月頃を予約できるところを探しました。
その電話帳であるタウンページも作らなくなるようで、時代の変化を痛感します。
大安でなく、時間指定がなければ2カ月後でもどうにかなることが分かりました。
良さそうな数社に二人で訪問して見聞きしました。
結婚式を行うならば、会社のメンバーと親戚、親しい友人を呼びたいと言うことになり、50名規模になり、基本的に300万円ぐらいになるということになりました。
二人の貯金は350万円ぐらいあったので、結婚式の費用はどうにかなると思いました。
ただ、さらに大きくなるお腹での夏場の結婚式は苦しいだろうということで、結婚式は挙げないことにしました。
結婚資金として使う予定だった350万円は、新居の頭金などに使いました。
結局、母が出すことはありませんでした。
母はいつもその場しのぎの話ばかりで、実際に実行されたことはありません。
返す当てもないのに借金を作ってしまったのも母の所為です。
私もその血を引いているので、なるようにしかならないというスタンスは変わりませんが、67年間はその姿勢で楽しく進んでいます。
実際には、結婚式を挙げなくて良かったと思います。もし結婚式を挙げていたなら、招待状の準備や他の準備を考えると、7月になっていたと思います。
7月の初旬に長女が生まれたので、もし結婚式を行っていたら、キャンセルなど種々大変だったと思います。
結婚式を挙げなかったのは幸運でした。
6月中旬に会社のトラックを借りて、数人に手伝ってもらい、新居への引っ越しを終えました。
引っ越しは終わっていましたが、冷蔵庫の中身やアパートの細々とした物が片付いておらず、7月に掃除して片付ける予定で、その旨を大家さんに伝えてありました。
大家さんはアパートの裏に住んでおり、電気、ガス、水道代はすべて大家さんが立て替えており、アパート代と合わせて大家さんに払うという流れでした。
特にプロパンガスは、銀行からの自動引き落としができない時代だったので、非常に助かりました。
大家さんが隣に住んでいて巡回しているようで、何かメンテナンスが必要な時もすぐに対処してくれていました。
6月中旬に引っ越しており、後片付けもあるだろうと、駅前の駐車場も併せて契約を7月まで行っていました。
5年前の入社の時から、家賃が21,000円で、駅前の駐車場が3,000円でした。
契約更新時も値上がりしない非常に格安なアパートで、良心的な大家さんでした。
同期入社の連中が、入社当時3万円前後で、契約更新ごとに上がって3万5千円程度と言っていたのに比べると、非常に有難かったです。
狭山ヶ丘駅前の荻野産婦人科病院で、7月に長女が生まれた時にアパートを少し片付けようと寄ったところ、大家さんが綺麗に掃除してくれており、私物は一つにまとめられていました。
翌日、菓子折りを持って大家さんのところに行き、お礼を言いました。
1979年4月から1984年6月までの初めての一人暮らしのアパート生活が終わりました。
その後、すぐに他の人に貸されたと思いますが、本当に大家さんにはお世話になりました。
新居での生活が始まります。
以後、SEさんのことは、“プー”と呼ぶことにします。
付き合っていた頃から、そのコロコロとした体形がクマのプーさんに似ていたため、愛情を込めて“プー”と呼んでいました。
今では基本的には“オイ”や“おっかあ”と呼びますが、二人きりの時には時折“プー”と呼ぶこともあります。
プーの方は、付き合っていた頃は、“マークン”と私の事を呼んでいましたが、長女が生まれてからはずっと“お父さん”になっています。
慣れない新居に、妊婦一人で置いておくわけにはいかないので、プーと一緒に実家に行き、実家で朝食を頂いてから会社に出勤します。
仕事が終われば、実家に寄って夕食をご馳走になり、プーをピックアップして2人で新居に戻るという日々が、出産まで続きました。
妊娠中でも夜のマグアイだけは続けていますが、お腹に体重をかからないように、色んな体勢を工夫したため、従来とは異なる気持ち良さを体験できました。
そのような日々が1カ月ほど続いた7月の初旬のお昼ごろ、実家にいるプーから私の会社に「お腹が痛いので病院に連れて行ってほしい」との電話がありました。
当時は携帯がない時代で、固定電話でのやり取りになります。
急いで早退し、プーを病院に連れて行きました。
予定日は9月で、まだ2か月も先ですので、診察を受けて胃薬をもらって帰宅しました。
私は会社に戻り、残りの仕事を片付けました。
その日は午後休を取っていましたが、戻って仕事をし、予定通りのところまで仕上げました。
当時は禁止されていなかったサービス残業も、自由意志で行えた充実した時代でした。
各自の小さな努力が、日本を押し上げてきたと思います。
定期昇給が5%アップの時代で、ボーナスも良かったので、仕事のプレッシャーや仕事時間は全く苦になりませんでした。
早く岸田さんに退任してもらい、新しいリーダーに、昔のような生き甲斐がある住み易い日本にしてほしいと思います。
話が横道にそれましたが、仕事を終えて実家で食事していると、やはりプーはお腹が痛くなったようで、昼間に続いて夜にも荻野産婦人科に連れていきました。
予定日から考えて、まだ大丈夫と思われましたが、念のため少し様子を見ましょうとベットに寝かされました。
その後、陣痛らしき痛みがきて、浣腸で腸内物をすべて出した後、分娩室に入り、数十分後には長女が生まれています。
その時の看護婦さんはショートヘアで、紗倉さん並みに可愛かったと記憶しています。
当時は規制も緩く、分娩室に入れて、長女の出産時には立ち会えています。
プーは、“痛い”、“出る”を繰り返し叫んでいましたが、テレビでよく見るような手を握って応援する事もなく、あっけに取られている間に出産しています。
予定日より2カ月早かったですが、2.9kgの標準的な体重でした。
生まれたばかりの赤ん坊は、赤くて頭の形も歪で、テレビで見るような可愛い姿ではありませんでした。
次女や長男の出産では立ち会っていないので、同じかどうか分かりませんが、良い経験になったと思います。
夜中の12時回った時でした。
次女や長男の出産には、立ち会っていませんが、生まれたのはやはり夜中でした。
ちなみに私も夜中の2時に生まれたと聞いています。
産婦人科に行って母子手帳をもらい、3か月後には、2回目の来院で生まれると言う、あっと言う間の出産だったと思います。
一端、家に戻り、親戚や友人への連絡は翌日にすることにしました。
翌日、有給を取り、長女が生まれたことを実家に報告し、入院手続きを行い、入院用の下着などの準備をしました。
母子手帳をもらった時には、まだ籍を入れていなかったため、部屋や赤ちゃんの名前はすべて旧姓でした。
私は気にしていなかったのですが、プーの家の隣に住んでいる叔母さんが来院した際に、あの可愛い看護婦さんに言ったようで、翌日には修正されていました。
狭山ヶ丘駅前の荻野産婦人科病院ですが、前の雑貨店で、出産に必要な物品はすべて揃えられました。
最近、久しぶりに狭山ヶ丘に行った時に知りましたが、駅前の大きな萩野病院は産婦人科ではなく、近代的な総合病院に生まれ変わっていました。
これも少子化の影響かもしれません。
一通りの手続きを済ませて、アパートの状況を確認するために行き、掃除されていることを知りました。
プーが居ない出産入院中も、実家で食事を頂きましたが、会話も少なく針のムシロでした。
出産後は、実家ではなくそのまま新居に戻りました。
4月に妊娠が確定し、母子手帳をもらい、5月に会社を辞め、籍を入れて、新居を購入し、引っ越しして、7月に長女が誕生するという怒涛の3カ月間でした。
NOTEを書きながら、長女の生まれたての姿を思い出して、あんな小さかったのに、今や大学1年生の母親になっていると思うと、感慨無量です。
何気なく紗倉さんに影響を受けて終活として、思い出に残そうと始めましたが、書きながら当時のことが色々と思い出されて楽しいです。
稚拙な言葉で、思い出を徒然のままに書いているだけですが、連続投稿という心地よいプレッシャーのおかげで続けられています。

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