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思い出26              二人での楽しい四日市祭りから同棲生活へ

SEさんを忘年会で介抱することで付き合い始め、翌年の2月14日に初合体し、その年の8月の夏季休暇に、私の四日市の実家に行く事になりました。
実家に連れていくと言うのは、結婚を考えての事と思われがちですが、遠出の泊まり掛けのデートで、お互いに結婚は全く考えていなかったです。
二人の中でも、そんな話はまったく出ていませんでした。
1980年頃は、高速が繋がっていないので、幹線道路を経由して、高速道路に入りますが、埼玉県の入間市から四日市まで行く場合、八王子から中央高速道経由か、厚木から東名高速経由になります。
中央高速の恵那山トンネルが2車線になり、60km規制が解除されるまでは、東名高速を使っていました。
金曜日仕事終わり、速攻で出発します。
夜6時頃 武蔵工場を出て、渋滞する国道16号線を通り、八王子バイパスを通って、渋滞で有名な橋本五差路を経由して、国道129線経由で厚木から、東名高速道路に入ります。
高速に入るまでの国道16号があちらこちらで渋滞します。
国道16号は、戦時中に基地へ物資を運ぶための軍事道路の跡に作られたようです。
直角に曲がるようなカーブを作り、敵から攻められ難くするため、入り組んでいる軍事道路だったと聞いています。
そこに、国道16号は作られているので、まだ直角に曲がる部分が多く、あちらこちで渋滞が生じます。
特に、橋本五差路は、2車線で入ってきた道が、1車線になり、さらに、横浜方面、埼玉方面、東京方面との分岐になるので、年中渋滞するのは当たり前です。交通量が少なくなり、渋滞が解消されてきた夜中では、先の状況が見やすいトラックが速度を出して抜けていくので、囲まれて先が見えない乗用車は、車線変更も思い切りの勇気が必要でした。
夜中に走る事が多く、結構強引に横入りしていたので、トラックにクラクションなどを鳴らせられる事が多かったです。
そして、厚木でも市内に行く道と高速道路方面への道に分かれますが、交通量の多い、高速道路方面への道は、右折になり、1車線になるので、そこで渋滞が生じます。
合流先道路は、2車線で来ており、1車線が追加されるので、問題ないです。
帰りは、3車線ある道から、側道に入る事になります。
その手前に信号あり、左側車線は、左折車で詰まる事もあり、信号後に左車線に入る車と信号を左車線を直進する車でやはり渋滞が生じます。
また、帰りにおいて、昭島の交差点では、左折2車線で入っていきますので、渋滞はありませんが、2車線で1km弱ぐらい進み次に、交差点で1車線での右折になります。そのため、左折した時点から、右側の追い越し車線のが交通量が多くなりますが、たまに、途中に右折車が存在し、そこでも渋滞します。
そのように、国道16号は、交差点で直角に曲がる所が多く、その都度渋滞します。
また、頻繁な車線変更を余儀なくされ、トラックも多いので渋滞の元になります
2007年に圏央道が中央高速と繋がるまでは、このクランクだらけの16号線には悩まされます。ただ、圏央道と中央高速が繋がる八王子JCTが、出入りする車と中央高速に入る車が入り乱れて、渋滞する事が多く、完全に解決するは、2014年の 圏央道と東名高速が蛯名JCTで、完全に繋がってからになります。
初めて2人で実家に行った時には、渋滞の国道を走り、厚木インターから東名高速に入るルートになります。
厚木インターで東名高速に乗れるまで、2時間以上かかりぐったりします。
今では、圏央道で入間インターから40分程度であれば、厚木インターまで行けます。
夜の9時頃に東名高速に入るので、トラックも少なめで、一番走り易い時間になります。
今では、第2東名の方に入るので、寄る事はなくなりましたが、当時は、第2東名は、まだ無く、浜名湖サービスエリアで休憩して土産を買います。
夜10時頃に着いて休憩して、うなぎパイを親戚用に、自分用も含めて、8箱購入すると言う帰省でのルーチンでした。
そして、岡崎インターで東名高速を出て、国道1号線から23号線に入り、名四国道を通って四日市に着きます。
当時は、23号線沿いには、東海地方では大あんまきで有名な藤田屋がありました。
トラック運転手の休憩所でもあったので、一晩中開いていたと思いますが、11時頃に寄ります。てんぷらあんまきが絶品で、在庫があれば購入します。
あんまきの甘さと衣に浸み込んだ油が相まって絶品で、体に悪そうですが、止まらない悪魔のあんまきです。
昼間だと、揚げたてのてんぷらあんまきが食べられて、カラっとしているので、口当たりが良くなり食べ過ぎて胸やけになるのは必至です。
もっとも有名の大あんまきは、一度だけ購入した事はありますが、個人的は、伊勢名物の赤福や名古屋名物の納谷橋饅頭や四日市名物のながもち の方が好きでした。
会社を午後6時に出て、夜中の1時ぐらいに四日市に着きます。
当時は、休憩を入れて、7時間ぐらいかかりました。
数年前に、叔母の葬式で四日市に帰っていますが、4時間で着きました。
葬式が朝の9時からで、夜中の2時に、妻を載せて家を出ましたが、朝6時前に着いてしまい、ネットカフェで2時間 仮眠しました。
その時には、ネットカフェで朝食を取り、シャワーも浴れたのでちょうど良かったです。

寝泊まりする事になる郊外の家に関して詳細を説明しておきます。
四日市で、工場の寮を行っていて、中学校の頃に、お世話になったR叔父さんが、寮を締めて、郊外に移り住んでいました。
今では、大きな住宅街になっていますが、当時は、売り込み始めたばかりで、数軒しかない郊外の広々とした宅地でした。
お袋の兄であるR叔父さんは、他界しましたが、義理の叔母さんと従妹になる二人のお嬢さん達との親交は続いており良く遊びに行っていました。
従妹である上の姉さんは、全寮制の東京の女子大に入学した時にも、私と先輩のTEさんと3人で西武遊園地に遊びに行っています。
その夜は、行きつけのスナックで飲食して、従妹は私のアパートに泊まっています。
そのように、親戚付き合いは続きます。
そのR叔父さんの隣のモデルハウスが売りにだされていたそうです。
親父の妹である叔母は精神疾患を患って、入退院を繰り返しており、祖母が看病していました。
将来、その祖母と叔母が住むために、そのモデルハウスを購入したと聞いています。
1階に10畳和室一間と洋間のダイニングキッチンと風呂があり、2階に6畳 和室が二間の一軒家でした。
就職後、私が帰省する夏季休暇や正月休暇中は、その家で寝泊まりするようになっていました。
食事は、R叔父さんの家でお世話になっていました。

叔母の症状は安定して、退院して、この郊外の家で、祖母と叔母で暮らすようになっていたようです。祖母達が暮らしているので、米、みそ、醤油など生活必需品はすべて揃っていました。
今回、SEさんと帰省する事になり、祖母と叔母には四日市市内の実家の方に行ってもらい、この一軒家で寝泊まりをする事になりました。
一軒家で、SEさんとの二人きりで、朝など家に居る時は自炊したので、まるで新婚生活のようでした。
お風呂も広くて、二人でいっしょに入り、セミダブルのベットでいっしょに寝ると言う生活を堪能しました。
それまで、私のアパートでの合体では、まだ慣れていない言うこともあり、彼女は眉間に皺寄せての声も出さない淡々とした営みでした。
今回は、完全な一軒家で、隣の部屋も気にせず、初めて感じている思われる喘ぎ声を聞きました。
女性の喜びを開花させたのではないかと思います。
この夏季休暇以後は、アパートに戻っても、マグアイは二人にとって、楽しい体を使った会話になっていました。
紗倉さんも、AVはファンタジーだから真似をしないようにと良く注意されています。
SEさんとのマグアイは、波長も合っており、お互いの存在を確かめられるような楽しい行為になっていたと思います。
ここ数年は、マグアイは無くなり、私は紗倉さんにお世話になりっぱなしになっています。
紗倉さんの演技とは思えない自然なマグアイは、毎回、刺激的なエロを与えてもらえるので、感謝しています。
後何年、ファンで居られるかはわかりませんが、70歳まではがんばりたいと思います。
紗倉さんの話になると熱くなり脱線してしまいます。
元に戻します。
当時、四日市祭りは、8月第1週の金土日で開催されていました。
そのために、夏季休暇の帰省は、それに合わしています。
四日市市内の中心にある諏訪神社の前の国道1号線を渡ったところから、市役所通りを交差して抜ける諏訪新道通りは、祭り期間中は、車両乗り入れ禁止になり、道路の両側は、種々飾り付けされ、屋台も所せましと出店されます。
そして、大入道や鯨船や大名行列や20名ぐらいで担ぐ大太鼓などの山車が出る時間帯は、市役所前の三滝通りも車両通行止めになります。
私の実家は市役所の近くですので、車を実家に置いて祭りに行けると言う最高のシチュエーションでした。
昼間も、山車が出て楽しめますが、やはり夏祭りの醍醐味は盆踊りと思います。
夜は、諏訪神社など あちらこちらに、櫓が組まれて盆踊りが夜中まで続きます。
メインの諏訪神社の盆踊り会場は、衣装もそれらしくした踊りがうまい人が集まり、どちらかと言うと見る阿呆で楽しむ感じの盆踊りです。
ただ、そのようなフェス的な盆踊りは9時まで、それ以後は櫓での演奏もなくなり、テープでの放送になり、5曲ぐらいが繰り返し放送されます。
そうなると、プロ並みの方々も居なくなり、踊りたい地元の奴らが楽しみ、夜中まで続きます。
自己流の踊りでも楽しんで参加できる本当の市民による盆踊りになります。
当時は11時頃に消灯されますが、持っていったラジカセで音楽を鳴らして、真っ暗の中を、警察に注意されるまで、踊っていました。
神社から離れた盆踊り会場では、6時頃から、櫓の上で司会者がみんなからリクエストをもらい、曲選定してテープを流す形でした。
9時頃までは、子供達も楽しんでいますが、子供も司会者も居なくなり、テープのルーチンになり、各自、自由なスタイルで、踊り始めます。
私も盆踊りは学生時代から参加しており、踊りがうまい親友のM君に教わりながら夜中まで踊り明かしました。
すごく楽しかったです。
そのような学生時代からの経験が生きて、SEさんとも、自己流の踊りで、最後まで楽しみました。
踊り始めると、周りの視線を気にせず没頭できるので、楽しめました。
今では、危険回避や時間や音量など種々の規制があると思いますが、今でも昔のように盛り上がっている事を祈っています。
その時には、お袋は、SEさんの事はあまり気にいっていないような雰囲気でした。
SEさんは、化粧もしておらず、ぽっちゃりタイプで、田舎の高校生と言う感じでした。
スカートではなく、短パン姿で、太めの足がむき出しで、いつもきちっと化粧して、小綺麗にしているお袋には気に入らなかったのかも知れません。
二人で、手を繋いで歩いているところを見たお袋は、近所に恥ずかしいから離れて歩いてと言っていましたが、無視しました。
また、SEさんの家族についても聞かれましたが、私も知らないし、聞いたことも無い状態でした。
また、車で30分くらいの距離にある、サニーワールド長島のプールに入り浸りました。
有名な長島海水ジャンボプールの5分くらい手前に建てられており、植物園が隣接されていました。
遊園地に隣接しておらず、子供も少なく、プールの周りに日陰の芝生があり、人も少ないので二人きりで行くにはちょうど良かったです。
当然、入場者が少ないと言う事で、数年後には閉鎖され、スポーツランドになったようです。
そのような事で楽しみ、あっと言う間に1週間が過ぎ、夏季休暇が終了します。

夏季休暇以後、金、土曜日の夜は、用事が無い限り私のアパートに泊まる事になります。
金曜日の夜は、二人でデートして飲食して、そのまま私のアパートに直行します。
お風呂に入り、一つの布団で寝ると言う事になり、二人は、朝まで乳繰り合う事になります。
ほとんど、記憶には無いので、二人の関係は、日常的に進んでいったと思います。
私は、コンドームは使った事は無く、ずっと外出しのマグアイでした。
タイミングが遅くなりヤバいと思った事は何度もあり、絶対に安全な日ですが、中出しもありました。それでも問題なかったので、安心していました。
年末年始は、私だけ実家に帰りました。
お袋は、怪訝な表情で、SEさんの事を根掘り葉掘り聞かれましたが、適当に答えていました。
翌年になると、SEさんは家に帰らなくなり、いつのまにか同棲生活になりました。
SEさんは、製造現場であり、残業があっても7時には帰宅するので、いつも先に私のアパートに帰り、夕飯を準備して、お風呂を沸かして待つようになります。
私は、開発が一番面白い頃で、9時過ぎぐらいになる事が多かったです。
帰ってくると、部屋は温まっており、据え膳と言う日常にどっぷり嵌ります。
凄く楽でした。
当時SEさんの上司であるSO課長に聞いた話では、SEさんは家に連絡していなかったようで、心配してSEさんのお父さんが会社に確認に来たと言う話でした。
会社には、普通に出社している旨を伝えたら、安心して帰られたようです。
特に、詳しい話も聞かれなかったようで、SEさんにも言わなかったようです。
SO課長が、本部長になった時の飲み会で聞いた話です。
当時のSO課長は、2代目の社長になり、70歳で後任に譲って退官しています。
SO社長の考えとして、社長の激務に耐えながら、かじ取りを間違えないのは、70歳までと言う考えを持たれていました。
口は悪いですが、筋が一本通った事で、頼りになる上司でした。
現在、私は、顧問契約でG社に通っていますが、種々お世話になった方々は、ほとんど居ない事は寂しく感じます。
逆に、社員では無くなっているので、自由勝手なことを言っても、抑える人がいなく、楽しんでいます。周りは大変かも知れません。

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