思い出31 借金返却など種々問題の解決
1990年にプーのお父さんが亡くなりました。
お父さんとはあまり話す機会がなく、どのような人なのか詳しくはわかりませんが、訪問した時には無口ながらも優しさを感じました。
奥さんもその旦那さんに寄り添う感じで、物静かな方でした。商売人の私のお袋とは真逆で、夫婦間で寄り添っているほんわかした家庭でした。
プーも世間的には物静かな方ですが、お母さんとお姉さんはもっと静かで、温かさが伝わってきました。
たぶん、私の長女と次女の関係と同様に、次女であるプーの方が強かったのだと思います。
お父さんの葬儀の時に、プーの親戚の方から「本当は次女であるプーが良い旦那をもらい、皆を養っていくと期待していた」と言われました。
婿養子という形は実現しませんでしたが、私への期待感は強く、喪主は奥さんでしたが、最後の挨拶は私が行ないました。
これからも家族皆のお世話をしていくと約束したと思います。
家でお通夜および葬儀を行い、近所の人も手伝いに来るという昔ながらの良い葬儀でした。
互助会に入っており、費用の心配は要らなかったようです。
私の実家では、家の中では親父が牛耳っていましたが、商売を行っていたお袋が外面的にはすべて行っていました。
特に、お袋関係の親類には種々お世話になりましたが、いろいろと煩わしいことも多く、プーの家族のような静かな家庭に憧れました。
夏季休暇で実家に帰ると、当然ながらお袋方の親戚にも土産を持って行きます。
お袋方の叔母さんたちは2女の女家庭ばかりでしたが、一人ぐらい男の子を作った方が良いと言って、男の子がいないと旦那の居場所が無くなると、帰省するたびに脅されました。
プーも横で聞いていたので、3人目を作るという流れになりました。
当時は週に2~3回の営みがあり、避妊具は同棲時代から使ったことがないので、外だしでした。
1人目は外だしの失敗で妊娠させてしまっています。そして、2人目も作ろうと話してすぐに授かっています。
3人目を作ることになりましたが、すぐにできるだろうと高を括っていました。
1年経っても妊娠せず、さすがに、営み終了後にじっとして動かない、1週間溜めるなどの工夫をしました。
ただ、すでに二人いるので、諦めかけていました。
ちょうどプーのお父さんが亡くなった頃に妊娠し、年末に長男が生まれました。
プーは健診で女の子だと言われていたようで、私にはまったく伝えておらず、男の子が生まれた時には驚いていました。
長女、次女ともに“子”を付けた名前だったので、男の子ということで、親父の代から続く“義”を付けた名前にしました。
二人の女の子と年が離れたからか、あまり手をかけなかったからか、私とプーの悪いところだけを取った長男になってしまいました。
面倒くさがりで、気ままで、どうにかなるさという楽観的な性格になりました。
学校に行くのが面倒になり、不登校になります。テレビでよくある不登校児童のように荒れているわけではなく、普通に家の中で優しく会話し、買い物なども行っていました。
ただ、学校に行くのが嫌で甘えていただけだと思われます。
プーも、自主的に学校に行き始めるだろうと楽観的に放っておいたので、そのまま行かなくなったようです。
中学校2年生頃から、長男はほとんど学校に行っていなかったようです。ちょうどプーが糖尿病からの白内障、続けて緑内障と入院するようになった時期と重なります。
朝は普通に家を出ていたので、私は気付きませんでしたが、実際は学校に行かなかったようです。
学校への連絡は自分で行っていたようです。
中学3年の後期に校長に呼び出され、その実態を初めて知りました。
その時に卒業させるか留年させるかを聞かれましたが、卒業させることにしました。
たぶん、出席日数は足りていなかったと思いますが、当時はどうにかなる時代だったと思います。留年させて無理やりに学校に行かせて、高校に行かせるという選択もありましたが、どうにかなると楽観的に考え、中卒となりました。
その結果、フリーターでブラブラしている長男に育ってしまいました。
ただ、長男は優しく、面倒見も良いです。30歳を過ぎた今でも契約社員止まりで、経済的に家庭を持てるとは思えないので、私の代で家系が終わるのかもしれません。
世間的には残念な長男ですが、私たち両親には優しく、彼が楽しい人生を送れることを願っています。
また、プーのお父さんが亡くなった2年後に、プーの実家が圏央道の入間インターに引っかかることになり、立ち退き命令が出ました。
実家は大昔に借りた土地に家を建てて住んでいたようで、権利書関連の書類はまったくありません。
ただ、20年以上住んでおり、固定資産税などは払っていたので、保有権利は生じますが、正式に取得するとなると手続きが大変です。
具体的には、土地の大元の持ち主およびその相続人を調べて、権利移転を行う必要がありますが、その調査や費用がかかり大変な作業となります。
私たちではそのようなことはできないということで、すべての手続きを行政にお願いすることにしました。
大昔のことで、調べて各種移転書類の作成など、かなり大変だったようです。プーの実家以外は、その近辺がすべて更地になっており、プーの実家だけが残っていました。
本当に最後にポツンとプーの家だけが残っていましたが、やっと現在住んでいる土地と新しい家を等価交換できるようになり、引っ越しました。
その日のうちに取り壊され、翌日から本格的な工事が始まったので、かなり移転手続きなどで手間取ったと思われます。
築40年以上の古い家が土地の権利も得て、新築になったことは幸運だったと思います。
ただ、得られた新しい家や土地に関しては、売買や相続において規制があると聞いています。
新居はさらに会社に近いところにあり、歩いて15分ぐらいの場所になりました。
会社は28日に大掃除をして、翌年の5日が初出勤となる正月休みになりますが、当時は休み期間中に見回り点検を各担当長が行っていました。
どこか異常がないかと外回りをするだけの10分程度の簡単な点検です。
一度、何気なく窓を開けようとしたら、鍵が掛かっておらず開いてしまいました。
年末の最終日は大掃除で、いつもは絶対に開けないような窓も掃除のために開けます。その後の鍵のかけ忘れは、大掃除のあるあるです。
これは1月3日の話で、翌々日には仕事が始まりますので、空いていた窓だけを締めれば良いと思いましたが、結局、不運と思いながら、全窓のチェックを行いました。
当時、武蔵工場は、2階建てが3棟、3階建てが1棟あり、すべての棟の中に入り、すべての窓とドアのチェックを行いました。30分くらいかかりました。
もう一カ所ぐらい開いているところが見つかれば、少しは気が楽になったのですが、結局、最初に見つけた1カ所だけでした。
骨折り損のくたびれ儲けでしたが、安心できました。
翌年から、各棟ごとに担当長を決めて、最後にすべてを再点検するようにしました。
当時は、水栓およびガス栓をすべて止めており、結構大変でしたが、今では、止めてしまうと翌年に問題になる可能性があるということで、止めなくなっています。
福島では、水道管の凍結破裂防止のために水抜きをするのですが、蛇口を開けっ放しにしてしまい、翌年、水栓を開けた時に水浸しになる事件がありました。
現在では、ヒーターで保温されており、水抜きをしなくても凍結しないように工夫されています。
送迎バスでの児童の置き忘れなど、人間が行うことにはどうしてもミスが生じます。
皆が時間に縛られている中、ゆったりと物事を行う余裕がなくなり、ミスが生じることを前提にした対策が必要となってきているように感じます。
少しゆったりとした世の中になった方が良いと思っています。
私は定年退職して、紗倉さんの推し活やその流れで知ったSNSなどを楽しみながら、ゆったりとした人生を送れている今が一番幸せなのかもしれません。
話がそれましたが、1992年にプーのお母さんとお姉さんは圏央道の立ち退きによって得られた新居に引っ越しました。
1993年からは、武蔵工場の点検に合わせて、孫たちを連れてプーの実家に遊びに行くのが正月の行事になりました。
当時、私は36歳、プーは30歳、長女は小学校3年生、次女は小学校1年生、長男は3歳で、この正月行事は長女が高校を卒業する2003年まで続きました。
その後は、私とプーだけの夫婦での年始挨拶になりました。
2020年にプーのお母さんも亡くなり、現在ではお姉さんが一人暮らしをしています。
プーはたまに訪問しているようですが、私は訪問することがなくなっています。
一方、私の実家は、私が生まれた頃からおもちゃ屋を営んでいました。
”おもちゃ屋の一人息子として生まれた わがまま爺の小学校時代の思い出 2
2024年1月20日 21:30”に書いてあります。
1985年頃までは、子供も多く、多種多様なおもちゃが定価で売れる時代でした。日曜日は子供連れで賑わい、サラリーマンに比べて十倍の収入があったと思います。
うちのおもちゃ屋では、スタンプを押して割引するという形で、定価売りが基本でした。
箱の無い製品などで割り引くことはあっても、古くなっても定価が変わらなければ売価も変わりませんでした。
逆に、節句人形などは毎年値上がりしていく時代で、おもちゃ屋に限らず小売店全般が好調の時代だったと思います。
当時、四日市から車で20分くらい湯の山の方に行ったところに、大きなヤクザの組があり、上客でした。
子供と黒服の大人が数人で来て、子供が欲しがるおもちゃを大量に買っていくのを何回も観たことがあります。子供は親分の子で、周りを固めるのは幹部の人達と思います。皆さん、すごく礼儀正しかったと記憶しています。
また、当時は、外国籍の船が四日市に寄港することも多く、外国人が市内に来て、日本人形など、日本独自のおもちゃをよく購入していきました。
1ドル300円代の時代で、外国への手土産としてはお得感があったと思います。
おもちゃの定価売りを壊した最初の要因は、ゲームソフトだったと思います。1983年にファミコンが発売され、当時は常に品薄状態で、問屋からどれだけ仕入れられるかが重要になっていました。
普段から、問屋が売れなくて困っている商品などを仕入れて恩を着せておけば、ファミコンのような人気商品も優先的に仕入れられるようになります。
昔、実家が旅館を経営していたので、在庫を置く場所には困らなかったです。
まだテレビ関連のおもちゃは少なく、レゴやリカちゃん人形などの長寿のおもちゃが多く、いつかは売れると考えられていました。
ファミコン用のソフトも、最初は普通のおもちゃ屋で取り扱われていました。しかし、本体が売れるにつれて、ゲームソフトの需要が急激に高まりました。
そのため、ゲームソフトを作るさまざまなメーカーが参入し、ゲーム専門の小売店も登場しました。新規ゲームソフトメーカーは、問屋を通さずに直接専門小売店に卸すようになり、従来のおもちゃ屋とは別に、ゲームソフトを扱う専門小売店が乱立しました。
発売から数週間の間に売り切ることが重要となり、発売日は定価スタートですが、2週間後には半額にするなど、在庫を残さないようにすることが一般的になりました。
すなわち、ドラクエなどの特殊なソフトを除けば、ゲームソフト市場は値引き合戦となります。人気がありそうなソフトは大量に安く仕入れ、在庫を残さないように売り切るのが一般的な流れです。ゲームソフトはサイズが小さいため、小規模な店でも簡単に開店できる反面、倉庫がないので原価割れの安売りが常態化してしまいます。
我が家でも同様のことを試みましたが、専門店とは違って予測が外れることも多く、1995年頃から売れ行きが悪化し、赤字が膨らみ始めました。さらに、古い商品には値引き販売というイメージが定着し、販売がさらに厳しくなりました。
2000年に施行された大規模小売店舗法が追い打ちをかけました。この法律により、郊外に大規模店が出店しやすくなり、ニチイやトイザらスなどの大手が多量にまとめて注文し、郊外の大型店で販売するようになりました。値引き販売が当たり前となり、特にセール時には大幅値引きが行われ、家族で郊外に買い物に行くのが習慣として定着していきました。定価売りをしていた高級百貨店も値引きに対応せざるを得なくなり、対応できない店は淘汰されていきました。
また、暴力団対策法の影響で、お得意さんも姿を消し、四日市港に停泊する外国船も減少しました。外人さんの上陸もなくなり、売上はさらに落ち込みます。
唯一利益率の高い節句人形も、郊外の大型安売り店に対抗するため、メーカーが直接販売を始めるようになり、八方塞がりとなります。
借入金で仕入れた商品が売れず、返済が困難になります。当時は高金利の金融機関が乱立しており、いくらでも借入ができましたが、法律の規制が厳しくなり、高金利での貸し出しが困難になっています。
結果として、借金はどんどん膨らんでいきました。
借金を肩代わりする前年に、プーが母親から少しお金を借りたいと言われ、通帳ごとお袋に預けたところ、普通預金の約70万円が全額引き出されてしまいました。
家のローンや夏季旅行のカード決済費用などが含まれていたため、月末に支払いができないとの連絡を銀行から受けて初めて発覚しました。
幸い、100万円の定期預金があったため、カードローンで即座に支払うことができました。その後、私からお袋に文句を言い、すぐに返却してもらいました。
その後も、プーが私やプーの定期預金を切り崩して渡していたようですが、それもお袋の頼みで仕方なく行っていたようです。
お袋は、口が上手で、相手を信用させて借りるのが得意だったと思います。翌年には借金が約1300万円に膨らみ、どうしようもなくなったお袋は、私に借りられないかと泣きついてきました。まだ家のローンも残っており、銀行からの借り入れは不可能だろうと思われましたが、ダメ元で会社に相談してみることにしました。
社長の一言で、借り入れが可能となりました。
実際に必要だった金額は1120万円で、すぐに振り込まれてお袋に送金しました。私は39歳の課長代理で年収600万円程度でしたが、社長と会社には大変感謝しています。定年まで勤め上げ、その恩返しができたと思います。
普通の金利が3.8%程度である中、企業金利として2.5%で借りられたのは有難かったです。ただし、返済は6年間で、その年の金利分だけを4月に一括返済する必要がありました。そのため、会社の持ち株も売却し、約350万円を得ることができました。実際の借り入れ額は816万円となりました。
私の退職金が抵当になり、約10年で300万円程度の額でしたが、会社への貢献を期待しての信用貸しだったと思います。現在では、勤務年数に応じて借り入れ額が決まり、簡単に借りられるようになっています。
基準額以上の場合でも、役員会の了承があれば借り入れが可能という良い制度もありました。社員を大事にする良い会社で、感謝しています。
返済の条件は、毎月8万円、6月と12月のボーナス時に20万円の支払いで、年間136万円となります。さらに、4月には金利分を支払う必要がありました。最初の年は20万円から、6年目には3万円まで減少していきます。特に、金利が大きかった最初の2年間は苦しかったですが、3年目からは課長に昇進し給料も上がったので、それほど苦にならなくなりました。
借金を肩代わりして、店は立て直したつもりでしたが、経営は依然として厳しく、借金も続いていたようです。
借金を返済したはずなのに、親の借金を返す催促状が内容証明郵便で届きました。
その内容証明の取り扱いについて親父に電話で確認したところ、親父がその借金の話を初めて知ったようでした。
その後、内容証明郵便は来なくなったので、親父が対応したとお思います。
そして、2002年に玩具店が火事で焼失しました。お金がなく、火災保険も解約されていたため、借金は膨れ上がり、結局、実家も店も借金のカタで手放します。
そのため、アパートを借りて、貸店舗で玩具店を続けることになりました。
父の妹は入退院を繰り返しており、一緒に住んでいたため、四日市を離れることはできなかったようです。
私も借金返済中で、まだ子供たちが一緒に住んでいたため、埼玉に呼ぶ余裕はありませんでした。プーは内緒でアパート代を毎月送っていたようですが、生活には困らなかったようです。
しかし、2008年に母親が脳溢血で倒れ、四日市市立病院に入院することになりました。意識もなく、長くはないと言われました。
母親の面倒を看るため、プーは四日市に住むことになります。
その頃、長女は嫁に行っており、次女は大学を卒業して就職していました。
長男はフリーターとなっており、私と長男の二人暮らしになり、たまに次女が帰ってくる形となりました。
私は、化学合成が専門のため、料理の味は保証できませんが、一応料理もできたので、プーがいなくなっても問題はありませんでした。
親父やお袋と一緒に住んでいた叔母さんについては、完全に入院させることに決めました。しかし、本人が退院したいと言えば出られてしまうため、成年後見人を設置し、退院を阻止する必要がありました。親父の弟であり叔母さんの兄が四日市に住んでいたので、当然その叔父さんが後見人になると思っていましたが、結局、私が後見人になり、「総合診療センターひなが」にお世話になることになりました。
「ひなが病院」では、封書や電話による毎月の状況報告、金銭のやり取り、そして年に一度の訪問だけの対応でしたが、2019年に亡くなるまで、最初の入院から数えると51年間、本当にお世話になり、感謝の気持ちでいっぱいです。
一方、四日市市立病院は意識のない寝たきりの母親を追い出しました。
相談しても転院先の紹介だけで、手配を進めて早く出て行けと言うだけの冷たさでした。埼玉医科大学病院に親父が緊急入院しましたが、国立病院でありながらも親身に相談に乗ってくれて、転院先の手配もすべて行ってもらえました。
このように、病院によって対応が大きく異なることを痛感しました。
四日市市立病院から冷たく追い出され、民間救急車で埼玉博愛病院に転院しました。
倒れてから2年間、一度も意識が戻ることはなく、2010年に77歳で亡くなりました。
火葬は3人の孫と私たち夫婦、親父だけで済ませました。
「さがみ典礼」に入会したばかりで様子がわからなかったです。担当者の対応が悪く、結局火葬だけにしました。
それでも料金が非常に高かったです。個人的にはおすすめできません。
親父の時は、病院に推奨された「いわさき(シティホール狭山)」を利用しましたが、同じ火葬だけの対応でありながら、半額程度で対応も良かったです。
叔母の時には「イオンの葬儀」を利用しましたが、四日市という離れた場所でも、電話一本ですべて手配してもらえ、金額も「いわさき」と同程度で、担当者の対応も良かったです。
プーのお母さんの時は農協に頼みましたが、葬儀全体を通じての対応は良かったですので、葬儀の金額比較はできませんでしたが、対応には満足しています。
話を戻しますが、お袋が脳溢血で入院した頃から、親父は認知症を患い始めました。
お袋の転院後、2009年に四日市を完全に引き払って、親父を連れて埼玉に移住しました。親父はその頃、完全に認知症を患っており、初めての土地ということもあって、3回も徘徊してしまいました。2回は警察のお世話になり、1回は翌日に4駅先の川越で警察に保護されました。残りの1回は、近所の方が見つけて連れ帰ってくださいました。
こうしたことから、デイサービスを利用することになりましたが、デイサービス中にも窓から逃げ出して徘徊することがありました。しかし、すぐに見つかりました。
親父の弟で、板前をしていた叔父さんが、お袋の見舞いの名目で訪問してきました。
その際、お袋が叔父さんに450万円の借金をしていたことを告げられました。
2003年の日付が記された実印付きの借用書を見せられましたが、信じるしかありませんでした。
返済の要求は私に対してでしたが、返済は不可能であることを伝えました。
ただし、高利貸しに抵当権が設定されている土地があり、しそれが売れれば借金を返済することを約束しました。
四日市の弁護士に相談した結果、抵当権を外すためには裁判に勝つ必要があると言われました。
ただし、5年間様子を見て、返却請求がなければ返済義務が消えるとのことでしたので、そのまま待つことに決めました。
2011年には親父が腸閉塞となり、手術を受けて人口肛門を装着することになりました。
認知症のため、自分での処置が難しく、プーにも対応が難しい状況だったため、介護老人保健施設「あさひ病院」に入院させました。
一年後の2012年に、親父は肺炎で亡くなります。5年後の2017年には、四日市の弁護士に依頼して抵当権を外してもらい、私がその土地を相続しました。
その後、叔父さんに頼んで土地を売却することにしました。土地は650万円で売れたため、叔父さんへの借金450万円を返済し、残りの200万円が手元に残りました。
実際には、税金や弁護士への報酬を差し引くと、手元に残ったのは約20万円でしたが、これでお袋関連の借金問題はすべて解決しました。
その後、2019年には叔母が亡くなり、四日市関連の問題は全て終了することになります。
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